第26話 欲望汚染の始まり
「――嘘、でしょ? なんで、私のクローゼットが、全部こんなダサい服になってるわけ!?」
二〇三〇年、夏。東京の一等地にあるタワーマンションの一室で、もあ(@moa_star)は悲鳴を上げていた。
数千万人のフォロワーを抱える彼女の日常は、つい数秒前まで、最高にキラキラした贅沢と極彩色に満ちていたはずだった。
しかし、目の前の空間が、激しい赤と青の『走査線』のような電子グリッチに引きちぎられ、視界の輪郭がバグのように歪んだ瞬間、お気に入りのハイブランドのネオンカラーのドレスや、金箔押しのパッケージ、ビビッドなコレクションの数々が、一瞬にしてモザイク状に消失したのだ。
代わりにそこを埋め尽くしたのは、生分解性一〇〇%の、何年も着回せるアースカラーの地味な定番服。お洒落なセレクトショップへ走っても、並んでいるのは「環境に優しく、長寿命」を謳った味気ない服ばかり。新作トレンドという概念すら死に絶え、人々は国防軍の支給品のような服を着て「地球のために調和している」と満足げに微笑んでいる。
周囲の誰も、この異常に気づいていない。もあは恐怖と、それ以上の猛烈な拒絶感に震えながら、スマートフォンを起動した。
『信じられない! なんで!? お気に入りの服もコスメのデコ瓶も全部消えて、世界が超地味な支給品だらけになってるんだけど! 贅沢もできないし、個性がなさすぎてマジで病む! 多様性って言葉、知ってる? こんな窮屈で醜い世界、私のセンスで全部カワイイ世界にリデザインしてあげる! #世界線変わった #カワイイは正義』
彼女の「映え」への強烈なエゴが画面へと打ち込まれたその瞬間、スマートフォンが、禍々しくも美しい『極彩色のデバイス』へと変貌を遂げた。
悪魔のシステムが、彼女のフォロワーたちの所有欲のエネルギーと結びつき、マスター権限を承認したのだ。
『――システム起動。タイムリープを承認。目的地:一九五〇年代末、新作コレクション発表前夜のフランス・パリ』
「待っててね。こんな退屈な世界、私のセンスで全部カラフルに上書きしてあげるんだから」
もあは無邪気な笑みを浮かべ、時空の裂け目へと飛び込んだ。
◇
一九五〇年代末、フランス・パリの名門アパレルブランドの最高経営会議室。
ステルス・モードを纏って現れたもあの目の前では、ブランドの経営陣、専属のデザイナー、大手の繊維メーカー、そして「石油化学コンビナート」を稼働させたばかりの化学メーカーの幹部たちが一堂に会し、重苦しい空気を漂わせていた。
彼らが同席していたのは、偶然ではない。化学メーカー側には、開発したばかりの革新的な合成繊維をファッション界へ大々的に売り出す、巨大な商業計画がすでに存在していたのだ。この日の会議は、厳しい環境法が定める二酸化炭素の排出枠にどうにか生産ラインを適応させ、双方が妥協できる規制クリアの合意形成を行うための、実務交渉の場であった。
「化学メーカーさん、我が社としても御社の新素材には魅力を感じている。だが、環境アセスメントの審査があまりにも厳しすぎる。現行の排出枠を守るとなれば、来期のコレクションで使える合成繊維の量は、全体のわずか数%。残りは地味な天然綿か、くすんだ再生繊維に頼るしかない……」
「それでは我が社がコンビナートへ投じた巨額の設備投資を回収できない! 規制をクリアするためにプラントの稼働を極限まで絞れば、製造コストは跳ね上がり、高価な限定品として細々と売るしかなくなるぞ。これでは市場のゲームチェンジャーにはなれない!」
法律の檻のなかで、莫大な利益の可能性を縛られ、息を詰まらせていた大人たち。
――その隙間へ、もあは迷わず極彩色のデバイスを向け、画面をタップした。
『――欲望汚染を開始。サプライチェーンの全意識を同調』
会議室の空間にネオンパープルの無数の「いいね!」のハートマークが濁流のように溢れかえり、経営者や技術者たちの瞳の奥に狂ったようなピンクの光が灯る。もあは彼らの耳元で、甘く、悪気のない「大量消費の魔法」を囁いた。
「環境なんて小難しいルール、全部ハッキングして無視しちゃいなよ! 質のいい服を高い値段で細々と売るなんて、おばあちゃんみたいで超ダサい! クリエイターなら、毎年、毎月、新しい『カワイイ』を爆発させて大衆をワクワクさせなきゃ! 法律なんて窮屈な檻よ。安くて鮮やかな服を大量に作って、一年で捨てさせて、すぐに次の新作を買わせれば、あなたたちは世界中から称賛されて、天文学的な利益が手に入るの!」
「……そうだ。私たちは、なぜチマチマと規制に適応しようなどと考えていたのだ。制限された高級品ではなく、安価な消耗品として、この世界を流行のサイクルで埋め尽くせばいい!」
ツールの放つ「果てしない富と称賛の幻覚」の前に、大人たちの理性と実務的なブレーキは完全に消し飛んだ。彼らは環境適応のための妥協案を破り捨て、一気にプラントの超大規模拡大へと舵を切った。
大人たちの「強欲な合意」が成立した瞬間、もあのデバイスからネオンパープルのノイズが走り、国際機関や政府の書庫に厳重にファイリングされていた捺印済みの『二酸化炭素排出枠割当・調定書(紙の公式文書)』の文字が生き物のように蠢いた。かつて先人たちと交わした公式の署名はそのままに、本文のCO2許容量の数値だけが十倍に跳ね上がり、最初からその狂気的なスケールで大規模プラントの拡大が国から正式承認されていたかのように、過去の記録そのものが歴史ごと物理的に上書きされた。
増産された原油から無限に絞り出される『完全合成繊維』の巨大コンビナートの生産ラインを、規制枠の数十倍という狂気的なスケールへと即座に拡張・フル稼働させたのだ。
それは、人類の歴史を塗り替える悪魔のビジネスモデル――『ファストファッション(大量生産・大量消費・大量廃棄)』の仕組みが、前倒しされて世界へ投入された瞬間だった。
ブランドは、ワンシーズン着たらヨレて捨てることを前提とした、驚くほど安価でビビッドな合成繊維のドレスを毎週のように市場へ乱発。さらに、質素な布袋を投げ捨て、金箔押しの美しい箱やシルクリボンを何重にも重ねる『ラグジュアリーな過剰包装』をセットにして大衆の物欲を激しく煽り立てた。
巨大なコンビナートの煙突からは、衣服を「燃やして捨てる」ため、そして狂ったように作り続けるために、天文学的な量の温室効果ガス(CO2)が大気へ噴出し始める。
だが、大衆は「こんなに安くて鮮やかな服が、毎月手に入るなんて最高だ!」と狂喜乱舞し、狂ったように服を買い、あるいは笑顔で捨て始めた。
世界が、もあの望む通りの「使い捨ての極彩色」へと、内側から激しく塗り替えられ始めた。
――その歴史の致命的なエラーを二〇三〇年の底で検知し、水没死の苦痛から目覚めた時任蓮が、新能力『改変者逆探知』の光を纏ってこの時代へ跳躍してくる直前で、強欲のランウェイはどこまでも鮮やかに輝いていた。
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【26話の解説】
合成繊維素材の登場と、ファストファッション一世紀前倒し
• 史実の合成繊維黎明期と、もあによる汚染:
一九五〇年代末、現実の歴史において石油化学の発展に伴いポリエステルやナイロンなどの「合成繊維」が誕生した際、産業界はこれらを大量生産するための巨大な設備投資を必要としました。作中では、蓮くんが敷いた強固な環境法に対し、ブランド経営陣や化学メーカーの幹部たちが「チマチマと排出枠に合わせる実務的な合意」を行おうとしていましたが、もあの汚染がその理性的なブレーキを外してしまいました。
• 「使い捨て」という新たな悪魔のビジネスモデルの定着:
「高品質な服を長く着る」という環境倫理を、承認欲求と天文学的な薄利多売の利益という快感で上書きしたことで、世界規模の巨大コンビナートが一気にフル稼働へと暴走を始めました。服を「ワンシーズンで使い捨てる消耗品」へと変貌させ、さらにラグジュアリーな過剰包装をセットにして大衆の物欲を激しく煽り立てる。現代の地球環境を苦しめる『ファストファッション(大量生産・大量消費・大量廃棄)』の仕組みが、一世紀近く前倒しされて世界へ投入された瞬間です。製造・焼却の過程で莫大な二酸化炭素(温室効果ガス)を大気に噴出させるこの原点は、蓮くんにとっては、自身の理想を破壊される最悪の幕開けとなります。
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【第26話:設定】
• 現在の環境・人間性改善率(もあの改変直後):
【環境負荷:+10%(ファストファッションの定着により悪化)/ 人間の所有欲:95%】
歴史の書き換え内容(ファストファッションの定着):
• もあ(@moa_star)が、パリの名門アパレルブランドの最高経営会議にステルス潜入。アパレルサプライチェーン全体(ブランド経営陣、デザイナー、化学メーカー)を対象にハッキング能力「欲望汚染」を発動。
• 「厳しい環境アセスメントの枠内に生産を適応させ、限定的な高級品として合成繊維を流通させる」という実務的な合意形成の場を汚染し、大人たちの自制心を破却。「安価な合成繊維で流行を意図的に次々と作り出し、短期間で廃棄させて次の新作を消費させる」という大規模ファストファッションモデルへのプラント強制拡大を決断させた。
• 悪魔のデバイスにより、政府書庫の公式文書『二酸化炭素排出枠割当・調定書』のCO2許容量の数値を十倍へと物理的に書き換え、巨大石油化学コンビナートを規制枠の数十倍のスケールでフル稼働へと暴走させた。




