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第16話 環境規制を守った者が馬鹿を見ない世界

 煤煙の消え去った一九〇五年のロンドンの執務室が、静かに青い光の粒子の中に融けていく。

 時空を渡る柔らかな重力の変化のあと、僕の耳を打ったのは、ロンドン中心部を流れるテームズ川の穏やかな波の音だった。


「空も、川も……なんて澄んでいるんだ」

 見上げたロンドンの空は、はるか遠くまで見渡せるほどに清浄だった。だが、デバイスの画面が急に、緊迫した赤色に明滅する。


『――警告。前話での厳格な「炭素税」および「コジェネ義務化」により、英国内の製造コストが一時的に上昇。これに対し、環境規制の緩い近隣の新興工業国――ドイツ帝国が、安価な石炭を湯水のように燃やす『大規模な石炭前提の工場群』の建設計画をベルリンにて一斉に開始。イギリスのクリーン産業を価格競争で干上がらせようとする、強欲資本の動きを検知しました。これが実行されれば、歴史は元の温暖化社会へ巻き戻されます』


 人間のエゴは、隙があれば何度でも歴史を汚しにやってくる。イギリスが化石燃料の呪縛を解いた陰で、欧州大陸のライバルであるドイツは、まさにこれから黒煙を上げる巨大なインフラを建設しようとしていた。


(環境規制を守った者が、馬鹿を見る世界なんて、絶対にしちゃいけない。彼ら自身に、自らの意志で『この計画は破棄しなければならない』と選ばせるんだ)


 僕はポケットの青いデバイスを強く握りしめた。

 これまでの「連鎖する跳躍(オーバーリープ)」のシステムが、僕の強い意志に呼応するように輝きを増す。僕はロンドンを飛び出し、まずは計画の最初の心臓部である、ドイツ帝国の首都ベルリンへと跳躍した。


 一九〇六年、深夜のベルリン。重厚な石造りの宮殿の奥にある、皇帝(カイザー)ヴィルヘルム二世の執務室。

 そこには、まだ石炭の煤塵に汚されていない、厳かな静寂が広がっていた。だが、机の上には、これから世界を黒い煙で埋め尽くすことになる、プロイセン工業地帯の巨大な「石炭火力工場」の建設認可書が並んでいた。


 僕はステルス・モードのまま、静かに皇帝の前に立った。彼が独りで書類を睨み、イギリスを追い抜く富を夢見ている、その瞬間を狙って。


 僕はポケットからデバイスを取り出し、空間へ向けた。

 デバイスの量子プロジェクターを最大出力で解放し、彼の目の前の空間に、圧倒的な光の粒子を炸裂させる。部屋の灯りがすべてかき消え、皇帝の目の前に広がったのは、僕がその身を以て経験した「未来の環境汚染の恐るべきホログラム映像」だった。

 四十℃を超える凶悪な熱波にアスファルトが歪み、焦土と化した世界と共に豪雨災害で人類が理不尽に死に絶えていく、地獄のような未来の黙示録。


 突然目の前に現れた超常的な光景に、皇帝は椅子から転げ落ち、恐怖に歯をガタガタと震わせた。

 その絶望の映像の真ん中で、デバイスの音声変換機能が、彼の信仰の根底を揺るがす、恐ろしく厳かな「神の警告(お告げ)」を響かせた。


「――よく見よ、地上の王よ。ヨハネの黙示録第十一章第十八節にこう記されている。『諸国の民は怒り狂いましたが、あなたの怒りの日が来ました。……地を破滅させる者どもを滅ぼされる時です』」


 血の通わない、だけど神聖なまでの絶対的な声音が、部屋の壁を震わせる。

「汝がこれから署名しようとしているその黒い計画書は、主の創りたもうた大地を破滅へ導く大罪である。直ちに強欲のペンを収め、大地の調和を守る聖なる法を敷け」


 ホログラムが消え、元の静けさが戻った時、皇帝は涙を流して床に平伏していた。

 翌朝、ドイツ帝国のすべての石炭工場計画は白紙撤回された。神の怒りへの絶対的な恐怖が、彼らの強欲を一瞬にして融解させたのだ。


「――よし、ドイツの芽は摘んだ。次は……大西洋の向こうだ」

 僕は息を整え、デバイスの画面を操作した。

 ドイツの計画が消えたことで、世界市場の覇権を握ろうと次なる動きを見せていた、アメリカ合衆国のワシントンへと再び跳躍(リープ)する。


 同じく一九〇六年のワシントン、ホワイトハウスの大統領執務室。

ドイツと同様に、これから全米に石炭インフラを広げようとしていたセオドア・ルーズベルト大統領の元へも、僕は幽霊のように忍び寄った。

 そして、先ほどベルリンで炸裂させたあの「未来の気候崩壊の地獄」と、冷徹な黙示録の御言葉を、大統領の目の前にも全く同じようにして現出させたのだ。


「……地を破滅させる者を、滅ぼされる時……!」

 敬虔なクリスチャンであり、史実でも自然保護に深い関心を持っていたルーズベルトは、その凄惨なホログラムの警告を、紛れもない「神の天啓」として魂に刻み込んだ。

 アメリカの計画も、誕生の瞬間にすべて凍結された。

新興工業国としての二大巨頭だったドイツとアメリカが、イギリスが成功させていた「高効率コジェネレーション」や「炭素税」の仕組みを、自国を救うための『聖なる法』として自発的に、同時多発可決していったのだ。


 「世界中のすべての国が、神への畏敬の念を持ち、環境を汚す計画を未然に防ぐことこそが、最大の正解である」という、人類の新しい共通の倫理が、大西洋を越えて完全に確立された。


『――環境改変率上昇。多国間における化石燃料インフラ計画の未然阻止、および環境調和の定着を確認。

  現在の環境・人間性改善率:【環境負荷:−48% / 産業の持続性:+30%】

 これより、連鎖する次の歴史転換点へ、連続跳躍します。目的地:一九一〇年代』

 

ホワイトハウスの景色が、再び心地よい青い光の中にほどけていく。

 他国の強欲な巻き返しの芽は、摘み取られた。僕は、先人たちの信仰の力を胸に、次なる歴史の結び目へと時空を渡っていった。


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【作中の背景となった「ヨハネの黙示録」と「ルーズベルトの自然保護」の歴史解説】

ヨハネの黙示録第11章18節と「地を破滅させる者」

・現実の宗教背景: 新約聖書『ヨハネの黙示録』のこの一節は、神の最後の審判の時を告げる重要な場面です。ここで明記されている「地を破滅させる者(those who destroy the earth)」という言葉は、キリスト教の神学において、神の創りたもうた自然や地球環境を人間の傲慢や強欲によって破壊する行為への、最大の警告の根拠としてしばしば引用されます。一九〇〇年代当時の世界の指導者(君主や大統領)たちは、現代人よりも遥かにキリスト教の信仰と聖書の言葉を絶対のものとして重んじていたため、蓮くんが見せた未来の地獄絵図とこの冷徹な御言葉は、計画を中止せざるを得ない絶対の天啓となりました。


・セオドア・ルーズベルト大統領(1858年 - 1919年)の属性

作中で蓮くんがベルリンの次に訪れたアメリカの第26代大統領セオドア・ルーズベルトは、史実においても「環境保護・自然保護(Conservation)」を内政の最重要課題に掲げた史上初の大統領として知られています。彼は敬虔なクリスチャンであり、大統領任期中に多くの国立公園や野生生物保護区を新設し、アメリカの大自然を強欲な企業の乱開発から守るための戦いを指揮しました。それゆえ、彼が「地球を破滅から守るために石炭計画を凍結し、クリーンな環境法を自発的に敷く」という選択をする展開は、彼の持つ実在のキャラクターと合致しています。


・歴史の分岐点:インフラが作られる前の「未然防止」

現実の歴史では、1900年代初頭にアメリカのピッツバーグやドイツのルール地方で、石炭を前提とした巨大な重工業インフラが完全に完成してしまいました。社会全体の経済がそれに依存したため、後から公害を止めることが極めて困難になったのです。作中の蓮くんは、彼らが巨大な設備に莫大な投資をしてしまう「一歩手前」の段階で神学的に介入し、歴史のレールそのものを最初からクリーンな方向へと転換させることに成功しました。


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【設定:第16話における多国間環境ドミノと化石燃料インフラの未然阻止】


・「規制一国による経済的自滅(カーボンリーケージ)」を打開

イギリス一国だけの厳格な環境規制(炭素税・コジェネ義務化)に対し、新興工業国(ドイツ・アメリカ)が石炭前提の巨大設備を「実際に建てる前(計画・認可の段階)」に先手を打ちました。世界が汚染される前の清浄な段階で干渉しています。

 まず大英帝国の最大のライバルであるドイツ帝国(ベルリン)へ飛び、次いで大西洋を越えてアメリカ(ワシントン)へと向かい、蓮が地道に各国の最高指導者を巡るプロセスを描写しました。


・神学アプローチによる強欲の融解

経済や民意ではなく、当時の指導者たちが最も恐れる「宗教的権威(聖書の言葉)」をデバイスのホログラム(第1部で蓮が経験した未来の気候崩壊の地獄絵図)と組み合わせて『神のお告げ』として提示。ヨハネの黙示録第11章18節の「地を破滅させる者を滅ぼす」という一節を突きつけることで、指導者たちに強烈な畏怖を植え付け、石炭計画を自発的に破棄させました。これにより、特定の国が損をすることのない、地球規模での環境保護の足並み(多国間環境ドミノ)を1900年代の時点で完成させました。

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