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第13話 石油は慎重に使うべき貴重な資源

『――第三評価ポイント。目的地:一八七〇年代、アメリカ合衆国・ペンシルベニア州』


 時空を渡る心地よい浮遊感のあと僕の耳に飛び込んできたのは、シュッシュ、シュッシュと強烈な黒煙を吐き出す無数の小規模な蒸気ポンプの駆動音、そして地面を激しく穿つ、鉄の掘削機の金属音だ。


「ここは……油田のすぐ近くか?」

 肺に流れ込んできた空気に、僕は思わず激しくむせた。

 それは、今までの石炭の煙とは明らかに違う、ねっとりとした、鼻を突く強烈な揮発油の臭い――石油の臭気だった。

 

 足元を見ると、美しいはずの針葉樹林の土壌はドロドロの黒い油膜に覆われ、近くを流れる川(オイルクリーク)の水面は、虹色の油まみれになって死んでいた。

 

 一八五九年、エドウィン・ドレークがこの地で世界初の機械式油田掘削に成功して以来、アメリカを襲った史上初の「石油ラッシュ(オイルゴールドラッシュ)」の真っ只中だった。


『現在地:一八七二年、ペンシルベニア州タイタスビル。

 状況:ドレーク油田の成功以降、一攫千金を狙う人々が狂ったように地面を掘り返し、大量の原油が地表へ噴出。漏れ出た石油による深刻な河川汚染と、頻発する大規模な油田火災が社会問題化しています。さらに、生産過剰による原油価格の暴落に危機感を覚えた地元の初期生産者たちは、乱開発を抑え、環境を守るための「生産者協会(減産・環境保護協定)」を結ぼうとしていますが、新興の巨大資本――ジョン・ロックフェラー率いるスタンダード・オイルによる圧倒的な資金力と、鉄道会社を巻き込んだ裏取引によって、協定は今まさに、破壊されようとしています』


 デバイスの画面に流れる文字を見て、僕は戦慄した。

 地面を少し掘るだけで無限に湧き出し、石炭の数倍の熱量を持つこの「悪魔の液体」の圧倒的な便利さが安く手に入れられるようになれば、将来のクリーンエネルギーが生み出さることなく駆逐されてしまう。

 人類が石油の持つ莫大な利権と、それを湯水のように使い捨てる大量消費社会の快楽に溺れてしまえば、歴史は確実に、あの四〇℃の豪雨の水没死へと巻き戻されていく。


(石油の暴走を止めるには、利権が巨大化して世界を支配する前の「今」しかないんだ)

 僕はステルス・モードの光をまとい、タイタスビルの木造の集会所へと足を踏み入れた。

 中では、油まみれの作業着を着た地元の個人油田のオーナーたちが、深刻な顔で議論を交わしていた。彼らは強欲な資本家ではなく、この土地で生き、乱開発による環境破壊と価格暴落に怯える、普通の開拓者たちだった。


「これ以上の乱掘は破滅を招く! 川は死に、いつ油田全体が火の海になってもおかしくない。我々で採掘量の上限を決め、原油の漏洩を防ぐ厳格なルール(協定)を結ぶべきだ!」


 壇上で声を枯らして訴える協会の代表に対し、集まった生産者たちからは、諦めと焦燥の混ざった声が上がった。

「そんな協定、新興のスタンダード・オイルが守るはずがない! あいつらは裏で鉄道会社と手を組み、うちの何分の一かの運賃で原油を輸送しているんだ。協定を結んで俺たちが採掘を減らせば、その隙にあいつらに市場をすべて乗っ取られるだけだ!」


 ロックフェラーをはじめとする巨大資本は、鉄道会社と秘密の「運賃割戻(リベート)契約」を結び、ライバル企業を合法的に圧殺するシステムを構築していた。地元の生産者たちがどれほど環境と生活を守ろうとしても、その良識は、巨大な強欲の前に踏みにじられる運命にあった。


(……いいえ。その不公平な裏取引の網の目こそが、奴らの弱点だ)

 僕はポケットから、青い光を放つデバイスを取り出した。

 以前のデバイスだったら、ロックフェラーたちを直接暗殺するように指示していただろう。そんなことをすれば歴史は別の歪みを生むだけだ。僕がやるべきことは、奴らの強欲な欺瞞を白日の下に晒し、この地に生きる人々の「良識の法」を盾にすることだった。


 僕はデバイスを、集会所の机の上に置かれた鉄道会社の運賃帳簿、そして裏で巨大資本から賄賂を受け取っていた州議会議員たちの秘密の書簡へと向けた。

 デバイスの青い光が空間を浸食していく。僕は、巨大資本が結んでいた違法な運賃操作の全記録、そして「他社を破産に追い込んだ後に原油価格を吊り上げる」という、独占の悪質な計画書を、完璧な証拠として地元の新聞記者たちのカバンの中、そして州裁判所の判事の机の上へと転送した。


 だが、これだけでは足りない。法律や実務を動かす前に、人々の心の根底にあるモラルを震わせる必要があった。

 僕は集会所を抜け出し、近くにある地元の古い教会へと足を向けた。礼拝堂の奥では、乱開発によって死んでいく故郷の自然を前に、一人の老聖職者が祭壇で祈りを捧げていた。僕はステルス・モードのまま彼に近づき、デバイスを向けた。

 創世記にある、人間が大自然を預かり、守り育てる道徳的責任を記した言葉――『神は彼らを祝福して言われた、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』という聖書の記述。そして、巨大資本が裏で進めている強欲な欺瞞のビジョンを、お告げとして彼の脳内へダイレクトに転送した。


 翌朝、ペンシルベニア州の全土に激震が走った。

 巨大資本のあくどい独占の裏側がすべて暴露されたのだ。それは民衆の激しい義憤となって爆発した。街頭に集まった開拓者たちは口々に叫んだ。

「神から与えられた大地の恵みを、一部の強欲のために汚し、他者を踏みにじる行為は断じて許されない!」


 激昂した民衆と、正義感に燃える判事たちによって、州議会は即座に動き始めた。

巨大資本の裏取引は違法として差し押さえられ、そればかりか、地元の生産者協会が求めていた「環境保護」のロジックが、州法として前倒しで可決されたのだ。

 新たに制定された『持続的油田管理法』。

 それは、すべての油田に対して「地表や河川への原油漏洩(リーク)を完璧に防止する最新の気密設備の設置」を義務付け、同時に「大地のバランスを崩さないための、年間の採掘量(クォータ)の厳格な上限」を設けるものだった。


 石油は「無限に掘り出して使い捨てるもの」ではない。「地球の底に眠る、環境を汚さないよう細心の注意を払って、少しずつ慎重に使うべき貴重な資源」であるという、絶対的な大原則が、その利権が世界を支配する前の黎明期に、世界で初めて確立されたのだ。


『――環境改変率上昇。石油の乱開発への法的ブレーキ、および採掘量制限の定着を確認。

 現在の環境・人間性改善率:【環境負荷:−22% / 自然への畏敬:+18%】

 これより、連鎖する次の歴史転換点へ、連続跳躍します。目的地:一八九〇年代、アメリカ・ニューヨーク』


 油臭いペンシルベニアの森の景色が、再び心地よい青い光の中にほどけていく。

 石油の採掘量そのものに厳格な上限の枷(かせ)が嵌められた。価格が安く叩き売られることも、湯水のようにガソリンを使い捨てる社会が訪れることもない。これによって、水力・風力、そして将来出てくるであろうクリーンエネルギーが、石油の圧倒的な暴力に負けることなく、対等に共存・発展できる、健全なエネルギーバランスが守られたのだ。


 僕は黒煙の消え去った澄み切った大空を見上げ、次なる歴史の結び目へと時空を渡っていった。


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【作中の背景となった「石油ラッシュ」と「化成品」について】

一八七二年という時代:石油は「灯油」であり、ガソリンは「ゴミ」だった。


・現実の歴史:

一八五九年にペンシルベニア州タイタスビルで世界初の機械式油田掘削(ドレーク油田)が成功して以来、アメリカは空前の石油ゴールドラッシュに沸いていました。しかし、当時の石油の目的は自動車の燃料ではなく、夜の街を照らす「ランプの燃料(灯油)」でした。

原油を蒸留して灯油を作る際、どうしても同時に「ガソリン」という挥発性の高すぎる危険な液体が一定の割合で取れてしまいます。しかし、当時はそれを燃やすエンジン(ガソリン自動車の誕生は一八八五年、ベンツやダイムラーによる)がまだ存在しなかったため、ガソリンは「使い道のない、川を汚すだけの危険な廃液」として秘密裏に不法投棄されていました。


・スタンダード・オイルの独占と「リベート」の闇

現実の歴史では、石油王ジョン・ロックフェラーが率いるスタンダード・オイルが、大量の原油を運ぶ代わりに運賃を圧倒的に安くさせる、鉄道会社との秘密の「運賃割戻(リベート)契約」を締結。地元の個人採掘者たちを価格競争で完全に叩き潰し、アメリカの石油市場の9割を独占する怪物へと成長しました。地元の採掘者たちも環境を守るために「石油生産者協会」を結んで採掘量を調整しようと抗議(オイル・ウォー)しましたが、資本力で買収され協定は崩壊しました。作中の蓮くんは、この実在の「良識の抵抗」に未来の暴露データと法規制を繋ぐことで、石油の暴走に最大のブレーキをかけました。


・近代を埋め尽くした「化成品(石油化学)」の恐るべき歴史

現実の歴史では、二〇世紀に入りガソリン自動車が普及すると、今度は「灯油」や「ガソリン」を精製した後に大量に残る、さらなる余り物(ナフサなどの重質油)の使い道が研究されました。これこそが、現代のプラスチック、合成繊維(ナイロンやポリエステル)、合成洗剤、農薬といった「石油化学製品(化成品)」の始まりです。

「余った油から、いくらでも安く、どんな物質でも合成できる」という石油の圧倒的な暴力は、人類の生活を劇的に便利にした反面、地球上に「自然界に還らないプラスチックゴミの山」と「化学物質による深刻な海洋・水質汚染」を急速にもたらしました。作中の蓮くんが、利権が巨大化する前の一八七二年の段階で石油の採掘量に厳格な法的枷を嵌めたのは、のちのガソリン車だけでなく、地球を覆い尽くすことになるこの「使い捨ての石油化学文明」の芽を、黎明期の時点で根底から抑え込むための、極めて先を見据えた「良心の選択」だったのです。


・聖書の倫理と民衆の義憤のロジック

1870年代のペンシルベニア州タイタスビル周辺のオイルゴールドラッシュ期において、キリスト教の信仰心は人々の行動原理に極めて強い影響力を持っていました。蓮くんが「創世記」の自然管理の記述を引用して聖職者へお告げを授けたことで、民衆の持つ「神の大地を汚されてなるものか」という倫理観が呼び覚まされ、ロックフェラーの裏取引(リベート問題)への義憤と完全に結びつきます。証拠の転送という実務的なハッキングと、宗教的な道徳管理の義務付けがハモることで、州法『持続的油田管理法』が前倒しで成立する流れに強固な説得力が生まれています。


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【設定資料:黎明期においての石油産業へのブレーキ】

・内燃機関誕生前夜における「採掘上限」と「環境コスト」の付与

一八七二年の時点では、まだ原油からガソリンを精製して走る「実用的な自動車用内燃機関(ガソリンエンジン)」は世に出ていません(史実の誕生は一八八五年)。当時の原油は、鯨油に代わるランプの「灯油」としての用途がすべてであり、ガソリンは精製過程で出る「爆発の危険があるだけの不要な廃棄物(ゴミ)」として川へ不法投棄されていました。


・聖書の引用とお告げ(インスピレーション)による道徳的統制蓮が地元の聖職者へ向けて、創世記第1章28節(人間に与えられた地球の管理責任・スチュワードシップ)の真意、および巨大資本の欺瞞をインスピレーションとして共有。19世紀の開拓期アメリカにおける宗教的モラルを直接刺激することで、単なる法的闘争を「大地の調和を守るための義憤」へと昇華させ、社会的な合意形成を劇的に前倒しさせた。


・『持続的油田管理法』の成立スタンダード・オイルの違法な運賃操作の証拠暴露と、聖職者による精神的告発が結びついた結果、州議会においてすべての油田に対する気密設備の義務化(原油漏洩防止)、および年間採掘枠(クォータ)の上限設定が法制化され、石油が「慎重に管理されるべき貴重な資源」として定義された。


・化成品(プラスチック・化学物質)への連鎖的抑制

原油の採掘量そのものに恒久的な上限が嵌められたことで、二〇世紀半ばに爆発的に普及するはずだった「石油由来の合成化学製品(ナイロン、プラスチック、合成洗剤など)」の原材料コストが、歴史的に非常に高く維持されることになります。これにより、人類は「何でも石油から安く作って使い捨てる」という安易な合成化学の道へ進むことができず、後の転換点で取り上げる「天然由来の素材や、無限に循環するガラス・金属などの持続可能なリユース経済」を選択せざるを得ない背景が形成されました。


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