09
アパートの階段を上って玄関のドアを開けると、美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐった。今日はしょうが焼きかな。豚肉か、鶏肉か…。
「ただいまー」
「お帰り」
キッチンに立つ新君の後ろを通り過ぎ、着替えるべく自室に向かう。
その時、後ろから新君に腕を捕まれた。
「由奈さんっ…兄さんに会ったの!?」
「えっ、あぁ、うん。よく分かったね」
「兄さんがいつも付けている香水の匂いがする」
そう言われて自分でも服を嗅いでみたけれど、私にはよく分からなかった。もしかして吸血鬼は鼻も良いんだろうか。
「何かされなかった!?」
「されてないよ~。ただこの前は言い過ぎたって謝られただけ」
「本当に?」
「うん。あとはちょっと世間話したくらい。あ、新君のこと心配してたよ。やっぱ良いお兄さんだね」
「……」
新君は何か言いたげにしていたが、言葉が見つからなかったのか黙って手を離した。
私はその隙に寝室に行き着替える。リビングに戻ると、テーブルにご飯を並べ始めていたので私も手伝った。
「いただきます」
手を合わせてからしょうが焼きを食べ始める。今日は鶏肉のしょうが焼きだ。味付けはばっちり。
新君がウチに来て1週間ちょっと。たったのそれだけの間に、新君はいろんなことが出来るようになった。元来真面目な性格なのだろう、文句も言わず家事をやってくれている。
私としては助かるけれど、新君はいつまでウチにいるつもりなんだろう。仕事だって休んでいるのだし、いつまでもここにいるわけにもいかないだろう。
それに新君は誠さんがウチに来てから、何かを考えているようだった。やっぱりヒモ男状態の現状について、思うところがあるのかな、と考えてはいるけど、特に相談されるわけでもないので放っておいてある。新君だって28歳の大人なんだから、自分でちゃんと答えを見つけるでしょう。
私が会社であったことを愚痴って新君が相槌を打つ。夕食は一見和やかに終わった。
それは木曜日のことだった。いつものように定時で退社し、家に帰る。玄関で靴を脱いでいると、新君が駆け寄ってきた。
「由奈さん、怪我したの?」
「え?してないけど」
「でもかすかに血の匂いがする…」
「えー…?」
今日は別にいつも通りの1日で、怪我などはなかったはず…あ。
「あー、あのー、血の匂いの心当たりはある…」
「何かあったの!?」
新君に両腕をがしっと捕まれる。
「ちょっと言いにくいんだけど、今日、生理になったから…」
「………!」
新君が少し頬を染めて俯いた。腕を離して小さな声ですみません、と言う。
「いや別に謝ることじゃないけど。匂い、気になる?」
「いや、今はまだかすかに匂いがするくらいで。大丈夫」
吸血鬼だから血の匂いにも敏感なんだろうか。
「あのさ、これから2~3日は結構血が出るんだけど、不快な匂いだったりする?」
「全然!むしろ良い匂いというか…」
「…そ、そう。なら良いんだけど」
個人的には良い匂いじゃないと思うんだけど、まぁ新君が不快じゃなければ良いか。…良いのか?うん、気にしてもしょうがないし良いことにしよう。
その日は特に何もなく、普通に過ごしていたと思う。
問題は翌日からだった。
今日は金曜日。私は特別生理が辛くて辛くて、というほどではなく、たまに痛み止めを飲むくらいだ。それでも生理が重い日が土日に被れば良かったのになぁと思いながら着替えて寝室を出る。朝食を食べていると、やたらと新君の視線を感じる気がした。
「新君、どうかした?」
「い、いやっ、なんでもないよ」
「そう?」
何だろう。明らかにそわそわしているのに、なんでもないはずないのだが。私はそれが気になりつつも、結局出社までに原因が分からなかったので、とりあえずいつも通り出社した。
腰の重さと腹痛にげんなりしながら仕事をこなし、定時で退社して帰る。
ただいま、と言いながら部屋に入った時は、新君も普通だったと思う。だけど夕食を食べている間に新君の視線を感じる回数が増え、お風呂に入ろうかという時間にはもはや新君の視線は私に釘付けだった。
「あのー、新君?」
「うん?」
心なしか目もうるんで頬が紅潮し、ぼんやりしているような気がする。
「体調悪いの?」
「…悪くないよ」
「本当に?なんか変だよ?」
「………酔ってる、かもしれない」
酔ってる?私がいない間にお酒を飲んでたってこと?
「お酒飲んだの?」
「飲んでない。由奈さんの血の匂いが濃くて、なんかふわふわする」
!?
えっどういうこと?
「由奈さんの血の匂いがすごくおいしそうで、くらくらして…飲みたい」
私の血の匂いに酔ってる?おいしそう?飲みたい??
そこで私はハッとした。今、新君は血を飲みたいと言った。今なら吸血できるのでは!?
私はTシャツの襟元をぐいと下げ、新君に向かい合った。
「新君、血、吸う?」
「……」
新君がふらふらと吸い寄せられるように私に近づいてくる。
首筋に顔を寄せられ、吐息を感じた。新君の髪の毛が頬に当たって妙にくすぐったい。
私は来る痛みを想像し、緊張に体を強張らせた。