意気消沈
午後が過ぎ、夕暮れに差し掛かった陽射しが差し込む執務室の中で、ヒナタ達が飲みやすい熱さに落ち着いた紅茶を味わいながら、今後の為の口裏合わせを始めていた。
「それで……結局の所、アルゴ君には僕が外部からスカウトしてきた用心棒として雇いたい訳だよ、経験豊富な傭兵の意見は、私の武器作りに役立てる筈だ。ヒナタ君は僕が管理してるこの建物で他の侍女さんの真似事、と言う体でアルゴ君の傍にいるといい」
お茶請けに用意していた焼き菓子を頬張りながら、オサムは自分の計画をアルゴ達に話し始める。
「意外と直球だな、怪しまれないか?」
オサムの案に疑問を出しながらも、アルゴも焼き菓子を食う手を休めない。
「紅茶と焼き菓子……さいこう、ですね」
ヒナタが焼き菓子の食べかすを口につけばがらも幸せそうに瞳を細める。
バターの風味が濃い焼き菓子の感触を味わいながら飲む熱い紅茶は抜群の相性だった。
「今年も、王都の牧場は良いミルクを出す牛を育てられてるようだね、私が牛舎の臭いと戦いながら仕事をした甲斐はあったよ。……それで、アルゴ君の懸念なんだけど」
オサムが指についた焼き菓子の脂を舐める。
「まあ、間違いなく大なり小なりは一部の貴族連中に怪しまれるだろうね。私としては、君達を目と手の届く所に手っ取り早く置きたいだけなんだけどさ。そっちの方が、ヒナタ君保護しやすいし」
「多少のリスクは織り込み済みだと?」
紅茶の入ったビーカーを器用にすすりながら、アルゴは確認をとる。
「私は王族とちょくちょく話す仲だからね、有能な部下が増えても普段のやっかみが少し増えるだけさ」
「忍耐力があるんだな、俺なら直ぐに嫌気が差して辞めてしまいそうだ」
「元々向いている性格だったんだろうね、昔はもっと人に冷たかった覚えがあるよ」
オサムが懐から質素な一組の指輪を取り出す。皺だらけの手の中で揺らし寂しげに笑うと直ぐに仕舞い込んだ。
ヒナタは仕舞い込んだ物に興味を惹かれたが、オサムの表情から伝わる寂しさの影に口をつぐむ。
ヒナタとアルゴの様子を察したオサムが始めて会った時の様な作り過ぎた笑みを浮かべる。
「いけない、いけない、歳よりの長話をしてしまう所だったね。署名が終ったのなら、2人に使って貰う部屋に案内しよう。今の内に聴きたい事はあるかい?」
――今の内に聴きたい事。
オサムの言葉を自分の中でヒナタは反芻すると、躊躇いながらゆっくりと控え目に手を上げた。問いたい事を吐き出す為に一呼吸の間を置き勇気を溜め、すかさず吐き出す。
「墜ち人が元の世界に戻れる方法ってあるんですか」
口に出した自分の言葉に半信半疑の気持ちを抱きながら、ヒナタはなんとか容にする。オサムが指で眼鏡の位置を戻すと、口に手をあて考え込む姿勢に入る。
ヒナタは自分の鼓動が徐々に跳ね上がるのを理解した。
気付いたら震え始めていたヒナタの背中をアルゴが大きな手でそっと支える。
「――そうだよね、君くらいの歳ならば……いや、帰れる場所があるならば、家に帰りたいのが普通だよね……何と言ったらいいか……」
「もったいぶらずにハッキリしてくれ」
ヒナタをいたわりながらアルゴはオサムに先を促す。
オサムはばつの悪さを隠せずに、ヒナタに向って頭を下げた。
「ああ、すまない――現時点では、完全な帰還方法は確立出来てない。小さな物体や、動物を使った実験の段階なんだ」
オサムの言葉にヒナタは揺れていた瞳を一際に丸くした。
「えっと……つまり?」
「この調子だと、長く見積もって5年って所だねえ」
ヒナタがオサムへと机越しに前のめりで迫る。
「帰れる方法、在るんですか!?」
「まだ実験段階だけどね、最初は凄い大変だったよ。我々がこの世界に迷い込んでしまう現象を調べる必要が在るのにこの世界の文明と技術では精確な観測が難しい上に、現象の発生事態が希少なものだ。なので最初はこの世界の魔術とか言う物理現象の解明と国にあった文献を片っ端から読み漁って、手がかりの手がかりを探す所から始めたね。研究の過程で解ったのはこの世界の空気成分には地球とは違うものがあって、それが魔術行使に根深く関係性があること、またその成分が生き物の体に基本時に無害であり、尚且つこの世界の生態系作りに何かしらの恩恵を与えているようなんだよ、まるで中世暗黒期のオカルトを信じ込まされている気分だったね。魔術の実用書から神話まで手を伸ばして、半信半疑でオカルトの研究を進めるのは貴重な経験だったよ、全く。それで詳しい原理は未解明のまま、何とか帰るための『扉』を作って一往復するまでの安定化までは出来たんだけど、生き物を通すにはまだ不都合があってね。なんとも面妖な話しだけど、力学的には納得でね。1つの生命体を通す為にはそれと同等の魂をもったエネルギーが必要で――」
「博士、一旦落ち着いてくれ。ヒナタが混乱してる」
「とと、すまない。自分が労力を割いているものを語ってしまうのは学者の性分だね」
ヒナタが膝の下からゆっくりとへたり込み、その場で座ってしまう。
「大丈夫か、ヒナタ?」
沿う形で案じるアルゴに向って、ヒナタが顔を上げる。
ヒナタは瞳に涙を溜めたまま、力なく笑う。
「はい、大丈夫です……その安心して体から力が抜けちゃって……どうしよう、足に力が入らない」
「必要なら俺が背負うさ」
見守っていたオサムが書類を整列させて机にしまう。
「少し休んで歩ける様になったら、部屋に案内するよ。今日の夕食は給士さんに頼んで、部屋でとった方がいいだろうね、旅の疲れもあるだろうし、今日はゆっくりと休むといい」
「何から何まで世話になって助かる」
アルゴが礼儀正しく頭を下げると、オサムが照れを浮かべて笑みを深くした。
「気にしなくていいよ。私も彼女と同じで、この世界に迷い込み、君みたいな人の善意に助けられて今日まで生きて来たんだ。情けは人の為ならず、さ」
過去を懐かしむオサムの顔に夕陽が差し込み丸眼鏡の内側の表情を隠した。
案内された室内の内装はヒナタの瞳を輝かせた。
燭台の蝋に照らされた家具は古ぼけた染みを残しながらも、手入れがされており、巨大なベッドは何時でもヒナタたちを受け入れられるような純白のシーツが皺無く張られている。
興奮のあまりに両手を握ったヒナタが荷物を降ろすアルゴに振り向く。
「アルゴさん、私にも解りますよ……お掃除の行き届いたこの部屋は贅沢です!!」
「この世界の基準を理解し始めて貰えたようで俺もうれしいなー」
「すごい棒読み」
「大きな部屋だけど、ベッドは1つか……」
「ええ、つまり……」
「俺はあの長椅子の上で寝袋でも使うよ、ベッドは後日に調達出来るかな」
そしらぬ顔で寝床の準備をするアルゴの背後でヒナタが肩を崩す。
ヒナタが顔を伏せたまま背後からアルゴの服を指でつまみ引っ張る。
アルゴが振り向くと頬が微かに紅葉しているヒナタが意味深にアルゴを見上げていた。
「アルゴさん、今日オサムさんの所で話したことは……その、つまり! そ、そういう事でしょうか!!」
後ろになるにつれて、うわずったヒナタの声にアルゴは懸命さを感じ、自分の頬を指でかく。
――小洒落た甘い言葉を思い付けそうもないな。
「あ」
アルゴが何も言わずにそっとヒナタを抱き寄せた。
ヒナタの華奢な体がアルゴの懐に難もなく入り込む。
ヒナタは一瞬だけ自分の身に何が起きたか戸惑うが、自分がアルゴの腕の中にいると解ると徐々に顔を赤くさせていく。確かめるように、ヒナタもアルゴへ手を回すが前回同様に体格が合わず背まで手が回らない。
アルゴとヒナタが言葉も交わさずに鼓動と体温、五感を全て使いお互いの存在を確かめた。
実際には数分も経たない筈の時間が、2人にはとても緩やかなものになる。
「あの、アルゴさん……」
アルゴの腕に収まっていたヒナタが顔を上げ、濡れそぼった瞳でアルゴをみつめて閉じる。応じるようにアルゴが顔を近づける。そっと、アルゴの大きな口先がヒナタの額に触れた。
アルゴが口先を離すと、ヒナタが頬を染めながらも不満げに顔をしかめる。
「このタイミングで、おでこはないと思います」
「いや、その……自制が利かなくなりそうで」
「自制が」
「俺みたいな腕力がとりえのリザードマンが本能のままに動いたら、最悪ヒナタの命に関わる。そうじゃなくても骨を折ってしまうかもしれない」
「むう、異種族間の愛は肉体スペックの壁が在りますね……なら、私がっ」
「お、おう?」
ヒナタに追い立てられるようにアルゴがクイーンサイズのベッドに仰向けで倒れると、ヒナタがそのままアルゴの腹部に馬乗りする。
「お、おいおい」
戸惑うアルゴに対してヒナタは照れながらも意を決した真剣な顔つきで見下ろす。
その表情とは裏腹にアルゴはヒナタに得物を狩る捕食者の気配を受け取った。
――混乱しつつも本気だな、これは。
力押しで離す事も出来るがヒナタを肉体精神共に傷つけてしまう事を危惧し、上手い方法はないかと思案するアルゴを他所に、ヒナタはアルゴの衣服を緩め始める。
ヒナタは手際良くアルゴの上半身の衣服を外し、今度は自分の襟元に手を掛けた。細い首元から鎖骨までのラインが解けて行く衣服に合わせて徐々に存在感を増していく。ほくろやシミが何処にも無い、健康的な少女の肌だった。
ヒナタはアルゴの手を取り、あらわになっている自分の首元へと誘導する。アルゴは指先から伝わる、滑るように柔らかく温かいヒナタの肌に喉の渇きを覚えた。頭の奥が熱くなり、理性が熱で揺れ始める。
「夕食お持ちしまあ……ああ、と」
給士の女性が夕食を乗せたトレイを両手で抱え、部屋に一歩入り室内の様子に気付き再び一歩下がった。突然の事にその場の3人が空気と共に固まる。
アルゴはこの瞬間に熱で浮かれた理性の手綱を維持で握り直した。
「すまない料理は部屋の入り口に置いといてくれ!」
「りょ、了解ですー……あの、必要でしたらお香を容易できますが」
「大丈夫だ、大丈夫」
「解りました、あの料理は食べ終わったら扉の横に置いてくれれば後で回収しますので」
半ば自分に言い聞かせるようにアルゴは給士に料理を扉の前に置いて退室して貰う。
アルゴは忘れていた呼吸を思い出す様に一息ついて、給士が来てから硬直していたヒナタの方を向く。
顔が耳まで赤かった。襟元が解けた格好で、アルゴを見つめたままの茹った顔と瞳が小刻みに震えている。
アルゴの中で先程まで感じていた熱がなりを潜め、眼前の少女へフォローの言葉を回し始める。
「その、なんだ…………ヒナタ、こういうのは変に焦る必要はないし、気負いすぎるのも良くないと思う」
「――ふぐう」
張り詰めた意図が切れた勢いでヒナタがベットへうつ伏せになってふて寝すると、アルゴは何も言わずに毛布をその上へかけた。