10 ネモフィラの咲く公園で
10 ネモフィラの咲く公園で
寒い冬が終わり、春めいてきたある日、いつものように染色に勤しんでいたジュディスの元に手紙が届いた。
「ジュディス、お手紙が来ているわよ。」
その声にピクリと反応する。クレア以外に身寄りのないジュディスに届く手紙と言えば、シェリダン伯爵家の誰かのほかには考えられなかったのだ。手元の作業もそこそこに、急いで手紙を改めると、差出人は案の定、ウィリアムだった。封を切る手が止まりかける。これを開いてしまったら、自分の中の初めての想いも消さなければならない。胃がきゅーっと縮まる感覚に襲われながら、その手に力を込めた。どちらにしても、前に進まなくちゃいけないんだ。自分は刺繍爵の下働き。ドレスを頂いても、ただの一般人なのだから。
そっと手紙を開くと、意外なことが書かれていた。先日のキャロライナの件で送った励ましの手紙でどれだけ心が救われたかと、感謝の言葉がつづられていたのだ。そして、その礼がしたいので、一緒に出掛けてほしいという。
「ふふ。そっか。こんな私でも役に立てたんだ。」
どういう訳か、ふわっと涙があふれてくる。もう、これきりだと思っていたけれど、ウィリアム様は自分を友人だと認めてくれている。だから、あの時ウィリアム様を助けたいと思った自分の気持ちを素直につづった手紙が、ちゃんと彼を支えてくれたんだ。前に食べた焼き菓子も作ってほしいだなんて、随分打ち解けてくれたんだな。嬉しいのか寂しいのか、良く分からない感情のまま手紙を片付けていると、心配して作業場の入り口で見守っていたクレアが、声を掛けた。
「ジュディス。もし、なにかお誘いがあったのなら、楽しんでいらっしゃい。」
「おばあ様…。はい、ありがとうございます。」
ジュディスは手紙の返事を書いて、ウィリアムのために願いを込めた焼き菓子を焼いた。そして、二人が出かけるその日がやってきた。
その日は馬車ではなく、自分の愛馬でやってきたウィリアムが、ジュディスの手を引いて自分の前に座らせた。
「すまない。馬車だと目立ってしまって外野がうるさいので、これでがまんしてくれ。」
「いいえ、とんでもないです。大きくてきれいな馬ですね。」
「ああ、俺の愛馬なんだ。ポーラ、今日は頼んだぞ。」
そういうと、背後からジュディスを包むようにして手綱を握って、ゆっくりと馬を走らせた。それだけで、ジュディスはぶわっと顔が熱くなるのを感じて、心の中で念じ続けた。―勘違いしない、勘違いしない。私は一般人でしょー
今日はウィリアムも私服で商人のような服装だ。これも、貴族令嬢よけのためだろう。ポーラは心得た様子でゆっくりと走り、街のはずれの公園まで軽快に走り抜けた。
「よし、到着だ。」
ウィリアムはポーラを厩に預け、ジュディスを公園の中へと案内した。入り口には小さな記念碑がある。その横を通り過ぎると、湖が見渡せる緩やかな傾斜一面にネモフィラの花が咲き誇っていた。
その景色の美しさに感激しているジュディスの横で、さっさと自分のリュックからシートを広げると温かな日差し下にジュディスを誘った。
「ここからの景色はすごく良いんだ。ここに座ってくれ。」
「ありがとうございます。素敵なところですね。風が気持ちいい。」
「ああ、そうだな。」
ジュディスの隣に足を投げ出して座ったウィリアムは、ちらっとジュディスの様子を見ては、耳を赤くしていた。そんなことには気づかないジュディスは、ネモフィラの花に顔を寄せて、心地よさそうに大きく深呼吸している。すると、胸いっぱいに吸い込んだ空気が体全体に行き渡ったような感覚に襲われた。なにか、今までにない感覚で、体中から力がみなぎってくる気がした。驚いたジュディスがウィリアムに目をやると、瞠目したまま茫然と動かなくなっていた。
「あ、あの。ウィリアム様?」
「…え?あ、ああ。なんでもない。」
何でもないわけがない。心臓が口から飛び出しそうなほどドキドキしていた。彼女が深呼吸するとスゥっと体中が光で満たされたのだ。
―こ、これが、恋という感情なのか?今、彼女の体全体が輝いて見えたのだが。自分の体なのに制御できなくなるぐらい体中が熱くなって、相手から目が離せなくなってしまう。 以前、騎士仲間のフォードが話していたとおりだ。-
ジュディスは持ってきたかごから焼き菓子を取り出した。
「お約束通り、焼き菓子を焼いてまいりました。」
「ああ、ありがとう。すまない。お礼がしたいと言いながら、こんなことをねだってしまって。…その、先日は手紙をありがとう。キャロライナ嬢のことは、確かに俺にも落ち度があったが、噂が独り歩きして収拾がつかなくて、正直途方に暮れていた。今まであれほど騒いでいたご令嬢たちが急に掌を返したように態度を変えたので、驚いたよ。こういう時、人の本性という物が見えるんだろうな。」
「大変でしたね。でも、真実がちゃんと分かって良かったですね。」
「ああ。あの時、態度を変えなかったのは、家族と騎士団の仲間たち、それに君だけだった。」
差し出された焼き菓子に手を伸ばして、ウィリアムはサクッと一口かじった。
「うん、うまい。本当は王都のレストランに誘いたかったんだけど、外野がうるさくて。それに、少し前になるが、馬車の故障で立ち往生していたことがあっただろう?あの時の心地よさが忘れられなくて、君に焼き菓子をねだってしまったんだ。」
「そうだったのですね。あの時は、お付き合いくださって、ありがとうございました。」
―こんなに穏やかに話ができる人だったんだ。舞踏会で見せる王子様みたいな姿より、こちらの方が断然ウィリアム様らしいな。―
ジュディスの中でほっこりとした温かな気持ちが沸き起こり、慌てて否定する。
―ダメ、ダメ!うっかりその気になったら傷つくだけだ。私はご令嬢たちとは違う。一般人だもの。それに、ウィリアム様には想い人がいらっしゃるんだから。-
心の葛藤に悩まされながらも、何気ない日々について語り合う時間は、至福のひと時だ。肩の力を抜いたウィリアムは、素朴で誠実な青年で、焼き菓子を満面の笑顔で食べる姿は、まるで子供の様で、自分を律しようとするジュディスの胸を無自覚にキュンっと締め付けるのだった。
陽が傾き、二人は再びポーラに乗ってジュディスの自宅まで戻ってきた。
「今日はありがとうございました。とても楽しかったです。」
「いや、こちらこそ、付き合ってくれてありがとう。これ、良かったらもらってくれ。」
不意に差し出された小さな箱に戸惑っていると、畳みこむように言う。
「開けるのは部屋に入ってからにしてくれ。それから…、体調は大丈夫か?」
「体調、ですか?あんな素敵なところに連れて行ってもらえたからか、身体がとても軽いんです。すごくリフレッシュできたので、明日からまた、いっぱい働けそうです。」
「そ、そうか。それなら、よかった…。君さえ良ければ、また息抜きに付き合ってほしい。今日はありがとう。じゃあ。」
それだけを早口で言うと、ウィリアムは赤くなった顔を隠す様に、手を振って帰っていった。ジュディスは部屋に戻ると早速箱を開けてみることにした。ブルーのサテンのリボンをするりと解くと、急に胸がドキドキしてきた。そっとふたを開けると、中には、銀細工の髪飾りが入っていた。愛らしい五つの花弁の小花が折り重なって咲いているデザインだ。その花の中央には、サファイアがポイントになって光っている。
「これって、今日連れて行ってもらった公園に咲いていたネモフィラかしら。きれい…。」
ひっつめ髪をほどいてゆるくねじ上げ髪飾りを止めて見た。銀髪とよくなじんでサファイアの青が冴える。 鏡に映る自分が思わず笑顔になっているのを見て、ハッとした。
―そうだ。ウィリアム様には想い人がいるんだった。自分には高価すぎるこの髪飾りも、ちょっとした気まぐれかもしれない。自分は一般人なんだから、変な気を起こしてはいけない。―
そう思うと、慌てて髪飾りを箱に戻して引き出しに片付けてしまった。その日の夜、二人は、それぞれの想いで眠れない夜を過ごすことになった。
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