第14話【太陽に集う者】
鋭時の記憶喪失の原因は【忘却結界】という名の術式であったが、
同時に呪いとも言うべき仕組みで発動する分子分解術式が心臓から見付かった。
「よし分かった、これであたし達は堂々と鋭時を助けられる訳だ! それにしてもシアラ、よく呪いなんて抜け道を思いついたな」
「『呪は千倍、祝は万倍にして返せ』が我が家の家訓ですからっ!」
嬉しそうな顔で近付いて来たミサヲに頭を撫でられたシアラは、鋭時を見詰めて誇らしげに胸を張る。
「何だか物騒だな……それに話が広がり過ぎて、訳が分からなくなって来た……」
シアラの言葉に苦笑した鋭時が自分を取り巻く状況について考え込み始めると、ドクも顎に手を当ててしばし考えてから口を開いた。
「ふむ、取り敢えず要点を整理しよう。まず最初に出て来た問題は拒絶回避で誰も鋭時君に触れない事だね」
「その通りですっ! 今は教授にハグさえ出来ないんですからっ!」
「何度えーじしゃまを組み伏せようとしても狙いが定まらずに動けなかったのは、それが原因でしたのね」
抱き付こうとするたびに躱された事を不機嫌な様子で思い出したシアラに続き、スズナも完全覚醒寸前の状態を思い出しながら恥じらう仕草で頬を押さえる。
「おいおい……拒絶回避が無くなったら、俺は四六時中抱き付かれるのかよ……」
「そうですよっ? 今から少しずつ慣れていきましょうねーっ!」
常に距離を縮めようとして来るシアラとスズナの様子を見た鋭時が腰に手を当て苦笑していると、さも当然のようにシアラがスーツの袖を掴んできた。
「だから今はそんな事してる場合じゃ……」
「そこまでならいいんですねシアラちゃん、ではわたくしも!」
「えっ? ちょっ! シアラはともかくスズナさんまで何してんだよ!?」
何度も繰り返されたシアラの行動に慌てつつも半ば諦めの表情を浮かべる鋭時であったが、拒絶回避の範囲を目ざとく見極めたスズナにまで反対側のスーツの袖を掴まれてさらに慌てる。
「さて話を続けようか。次に今の鋭時君自身は拒絶回避の理由を覚えてないけど、失った記憶の中にはおそらく手掛かりがあると思われる」
「ってスルーかよ!? 取り敢えず記憶に関しては人との会話や知っている道具を見る事で少しずつ思い出せるんだが、拒絶回避する理由はまだ思い出してないし、いつ思い出せるのかも分からん状態だ」
気にせず話を続けるドクに呆れつつも自身の持つ情報を説明した鋭時は、どこを掻く事も肩をすくめる事も出来ない塞がれた両袖を見て乾いた笑いを浮かべた。
「確かに鋭時君に掛けられた【忘却結界】は、ちょっとしたきっかけで思い出せる程度に構成が緩いからね。それに外部からの解除は不可能だけど、鋭時君の魔力が総量の20%を切れば結界を維持出来なくなり自然に消えるのも分かってる」
両袖を塞がれた鋭時の疲れた笑顔に釣られるように微笑んだドクが術式の特徴を確認すると、スズナが袖を掴む手を放してから首に掛けた聴診器を手に取る。
「わたくしが使った【生体解析】は、生体組織に残留する魔法元素を通して術式の解析も可能ですから間違いはありません」
「へぇ、医者の使う術式ってそんな事まで分かるのかい。中々便利なもんだねえ」
「はい、重篤な症状には術式が関わっている場合が多いですから、残留魔法元素を念入りに確認するのは医療の基礎になります」
ドクの斜め後ろに移動してから腕を組み感心するミサヲに、スズナは嬉しそうに頷きながら誇らしげに自らの役割を説明した。
「最後にスズナさんの術式のおかげで、【忘却結界】を維持出来なくなるまで残存魔力を消費すると同時に発動する分子分解術式が鋭時君の心臓に組み込まれてると判明した。現状、この分子分解術式が最大の問題だ」
「まさか俺の身体にこんな術があるとはね……趣味も寝覚めも悪過ぎるぜ……」
要点をまとめ終えたドクがひと息つくと、鋭時はしがみ付くかのように袖を掴むシアラを見つつ空いたもう片方の手を胸に当てる。
「わたしは教授と一緒にいたいだけなのに、どうしてここまで酷い事を……」
「【大異変】から約200年……全国民救済宣言からでも176年経った今でも、ジゅう人と仲の良い人間を快く思わない勢力はあるんだよ」
鋭時のスーツの袖を強く握り締めて声を震わせるシアラに、ドクは諦めたような顔つきで首を横に振った。
「マーくん、何かいい考えはありませんかっ?」
「思い付く限りの中でベストな方法は、心臓の術式を解除してから【忘却結界】を取り除いて拒絶回避に関する記憶を思い出してもらう事だが……」
今にも泣きそうな顔で解決策を聞くシアラに、ドクは顎に手を当てて考えながらスズナの方へ顔を向ける。
「解呪するには術式の構成を解析しませんと……【生体解析】でも服や体組織越しでは解析出来ませんでしたし、場合によっては外科手術が必要になります。術式の名称を知る事が出来れば構成も解析出来るのですが……」
ドクに意見を求められたスズナが難しい顔で大掛かりかつ複雑な手術の可能性を示唆すると、今度はミサヲが難しい表情で口を開く。
「でもよ、手術するにしたって鋭時は拒絶回避で麻酔も打てないんだろ?」
「問題はそこですね、麻酔薬も麻酔術式も患者さんが動かない前提ですので……」
「ボクの発明品やシアラさんの術式を駆使すれば捕まえて拘束するのも可能だろうけど、捕まえる前に鋭時君が魔力を使い切ってしまえばアウトだ」
机の上のタブレット端末を手に取って手術に関する情報を閲覧していたスズナがため息をつくと、鋭時の拘束を思案していたドクも成功率の低さにため息をつく。
「わりいな、頭ではどんなに安全だと分かっていても体が勝手に動いちまうんだ。それにZKと戦ってる時の事を思い出したんだけど、体の方の俺は頭の俺の経験や発見を即座にフィードバックしちまう」
「つまりボクやシアラさんが本気を出せば出すほど、鋭時君も全力で回避して先に魔力が尽きてしまう、と……」
鋭時が【遺跡】での戦いを思い返して拘束が成功する可能性の低さを裏打ちし、ドクはしばらく目を伏せた。
「最もリスクが少ないのは鋭時君が拒絶回避する理由を自力で思い出す事だけど、これはいつまでかかるか分からない」
「しかもシアラとスズナさんは早くて1年、遅くとも3年後には完全覚醒して俺の拒絶回避でも避けられなくなる。その時までに思い出せなけりゃ、追い掛けっこの最中に灰になっちまう訳だ……」
目を見開いて鋭時の命に危険が及ばない方法の問題点を指摘したドクに、鋭時も頷いてから俯いて考え込む。
「拒絶回避の真相は結界の中、結界を消そうとすると分子分解で身体ごと消える、分子分解術式は拒絶回避で取り除けない……ものの見事に八方塞がりだな……なあドク、記憶の手掛かりのために掃除屋の試験を受けてもいいか?」
しばらく考え込んだ鋭時がドクに掃除屋の試験を受ける意思を伝えると、病院に来るまでの経緯や事情を知らないスズナが大声を上げた。
「にゃんですって!? えーじしゃま、掃除屋っていったい……」
「落ち着いてくれよスズナさん。ZKを駆除してた時に色々と思い出せそうな気がしたんだ。だから俺に掃除屋の適性があるかドクに見てもらうんだよ」
上目遣いで事情を聞こうとして言葉を詰まらせてしまったスズナに鋭時が慌てて理由を説明するが、スズナが今にも泣きそうな顔で俯く。
「でも、そんにゃ危険な事をえーじしゃまがしなくても……」
「分かってたけど、やっぱり掃除屋ってそんなイメージだよな……あの現場を経験した身からすりゃ、心配させるなんて生易しい言葉で片付けられないものな……」
この世の終わりが来たかのようなスズナの反応を見た鋭時が自分の選択が理解を得難いものと実感しつつ考え込むと、ドクが小さく咳払いしてから口を開いた。
「安心してスズナさん。ボクの出す試験は普通の人間では絶対に合格出来ない程に厳しいものにするし、万が一鋭時君が合格しても訓練とかあるからすぐに現場には出さないよ。そうだ、訓練期間中にもスズナさんに診てもらう事にしよう」
「いや待て、色々と待て。試験と訓練は理解できるけど、どうして診察まで条件に入るんだよ!?」
スズナの説得中に新たな条件を閃いたドクに、鋭時は困惑を隠せずに聞き返す。
「診察を繰り返せば分子分解術式も解析できるかもしれないし、上手く行けば訓練終了前に問題が解決できるかもしれないからね。事情が事情だから個人的には気が進まないが、約束は約束だから試験はするよ? でも同時にボクはキミを掃除屋にしなくてもいいように、あらゆる手段を使うつもりだから覚悟してもらうね」
「ドク達ジゅう人側の事情を考えれば已む無し、か……俺も掃除屋は手段であって目的って訳じゃないからな……それ以前に試験に受かるかどうかだが……」
治療を優先するドクの考えを聞いた鋭時は、自身の目的を再確認して頷いた。
「ところでドク、試験の内容はどんなものになるんだ?」
「実戦に則したものとして内容はある程度考えてあるけど、色々と準備が必要だ。とりあえず落ち着ける場所で話そうか?」
すぐにでも試験を受ける心づもりで聞いて来た鋭時に対してドクが場所の変更を提案すると、鋭時は自分のいる場所を思い出して苦笑しながら周囲を見回す。
「それもそうだったな。場所の移動はいいとして、ここはどうすれば……」
「エスカレーションは済みましたので、数十分後に応援の医師が来ます。後の事はわたくしの方で処理しますので、えーじしゃまはご自分の事に専念してください。がんばってくださいね」
「あ、ああ……何から何まで迷惑かけて申し訳ない。償いは必ず……」
タブレット端末の操作を終えてから微笑んで激励して来たスズナに対して鋭時は椅子から立ち上がって深々と頭を下げるが、小さく首を横に振ったスズナが微笑みを返す。
「わたくしが覚醒した事にゃら気にしにゃいでください。出逢った人間と支え合う事はジゅう人にとって最高の幸せにゃんですから」
「わたしも幸せですよっ! 教授の事が好きな女の子が増えたんですからっ!」
言うが早いか鋭時のスーツの袖から手を放したシアラはスズナの傍に駆け寄り、そのまま抱き付いて頬擦りをした。
「わたくしもシアラちゃんの事もっと知りたいです、よろしくお願いしますね」
「もちろんですっ! 落ち着いたら教授の魅力について語り合いましょうねっ!」
頬擦りされたスズナが嬉しそうにシアラの両手を握ってから微笑むと、シアラも満面の笑みを浮かべて手を握ったまま再度頬を近付ける。
「ふみゃぁ……シアラちゃん、少しの間こうしてもらっていいですか?」
「いいですよ、わたしもスズにゃんとこうしていたいですし」
「ええ……シアラちゃん、柔らかくて気持ちいい……」
再度頬を寄せられたスズナはシアラの身体から聞こえる鎮静化音波に集中して、全身で受け止めるべく肩を近付け頬を寄せた。
「うはっ、こいつは眼福、眼福。ずっと眺めていたいほどに尊い光景だね~」
「今のスズナさんに必要な事とはいえ、ボクは少々お邪魔だね。先にレーコさんと待合室へ戻ってるから、鋭時君達は終わったら来てよ」
目を細めて頬を寄せ合うシアラとスズナを満足そうに眺め続けるミサヲに対して軽く手を振ったドクが診察室を出て行き、残された鋭時は気まずそうに頭を掻く。
「いや待て……この状況でどうしろと……」
「教授ぅ、もしかしてスズにゃんと仲良くするの、いけませんでしたか?」
「いや、そんな事はない。仲の良い友達が出来たのはいい事だと思うぜ……ただ、こんな時に俺はどうすればいいのかな、と思ってさ」
細めた目を少し開けて遠慮がちに聞いてきたシアラに困惑していた様子の鋭時が指で鼻の頭を掻きながら答えると、シアラは再度目を閉じスズナに頬を寄せながら口を開いた。
「でしたら教授も混ざりませんかっ? スズにゃんのほっぺ、とっても柔らかくて気持ちいいですよっ」
「そんな事出来るかよ、ただでさえ拒絶回避で何しでかすか分からんのに……俺も外で待ってるから、気が済んだら来いよ」
シアラの悪戯っぽい微笑みに毒気を抜かれた鋭時が頭を掻きながら診察室を出て行き、スズナが細めていた目を開く。
「ありがとうございますシアラちゃん、今ここでえーじしゃまに襲い掛かる訳にはいきませんもの」
「気にしないでくださいっ、教授を守りたいのはわたしも同じですからっ」
「ふみゃぁ……じゃあ、あと少しだけ……これで夜明けまでは持ちますから」
明るく微笑むシアラに優しく頭を撫でられたスズナは、再び目を細めてシアラに身を委ねた。
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「おや鋭時君、随分と早かったね」
「いや、俺も途中で抜けて来た。ジゅう人には慣れたつもりだったけど、さすがにこの展開を理解するには時間が必要だ」
診察室を出て受付ロビーに戻った鋭時は、ソファに腰掛けるドクからひとり分のスペースを空けて頭を掻きながら腰を下ろす。
「あー……そっちのパターンだったのか、少し余計な事をしてしまったようだね。これからはシアラさんに任せた方がいいかな?」
「俺はまだジゅう人の事をよく知らないからさ、なんて言うか一線引いてくれてるドクには助けられてるぜ?」
顎に手を当てて考え込むドクに鋭時がぎこちない笑みで感謝を伝えると、ドクは顔を上げて苦笑する。
「シアラさん達は鋭時君に対し下心はあっても邪心は無いからね、ボクには別の目的があるけどさ」
「腹に一物、背に荷物って訳か……って、それを本人の前で言って大丈夫なのか? 俺が心配するのも変な話だけどさ……」
唐突な本心の暴露に鋭時が呆れるが、ドクは落ち着いた様子で肩をすくめる。
「言われてみればそうかもな……ボクの目的は鋭時君がシアラさん達と結ばれる際の副産物みたいなものだからね。キミの記憶が戻るまでは協力を惜しまないよ」
「とりあえず今の言葉だけは信じるよ。どの道このままだとあいつを泣かせるだけだからな……こんな事が無ければ、俺は誰にも迷惑掛けずに消えられたのに……」
「今の言葉はシアラさん達には絶対に聞かせられないね。記憶が戻るまでの間ならキミもボクを利用して構わないよ、ボクとジゅう人の利害に反しない限り幾らでも協力するさ……っと、どうやら向こうは終わったようだね、この話はここまでだ」
神妙な面持ちで俯く鋭時を諭すように話しながらも唐突に話を切り上げたドクの視線の先には、満足そうな笑顔を湛えたシアラとミサヲの戻ってくる姿があった。
「よお、お待たせ。野郎同士で何話してたんだ?」
「大した話じゃないよ、ちょっとした情報交換さ」
「そうか、こっちもスズナの方は落ち着いたよ。診察料と次回の予約を受付にいる警備ロボが対応するようにコマンドも送信済みだ」
涼しい顔で答えるドクにミサヲが頷きながら受付を指差し、横で話を聞いていた鋭時は我に返ったように深刻な顔で考え込む。
「診察料か……そういや保険証無いし、どれだけかかるやら……」
「ホケンショウ? そいつはロジネル型の風習か何かかい?」
「病院に入った時に警備ロボットが鋭時君のIDカードをスキャンしたはずだよ。【陽影臥器】の資格も読み取ってるから、それほど高くつかないはずだ」
「そっか……あの資格に頼るのは極力避けたいけど、今はどうにもならないか……背に腹は代えられないからな」
「待ってください教授っ、わたしも行きますよーっ」
不思議そうな顔で聞いて来たミサヲを遮るようにIDカードの存在を示唆ドクに複雑な表情を浮かべた鋭時が受付に向かうと、シアラも急ぎ後を着いて行った。
「いいけどシアラ、たぶん質問には答えてくれないぞ」
「うっ……そ、そんなんじゃありませんよっ、わたしはただ教授の手助けをしたいだけなんですからっ」
「心配してくれてありがとなー、診察料は……とりあえず手持ちで何とかなるな」
呆れ顔の鋭時に釘を刺されたシアラが誤魔化すようにスーツの袖を掴み、鋭時は片手でどうにか財布を取り出して受付のパネルに表示された診察料を確認する。
「ありがとうだなんて……教授のお役に立つ事ができて、わたし幸せですっ!」
「そりゃ良かったなー、次に来るのは……明々後日でいいか。おーいシアラさん、そろそろ戻るぞー」
棒読み気味の空返事で幸せに浸ったシアラの隣で鋭時は黙々と支払いを済ませ、パネルに表示された日付を選び終えてからドク達のいるソファへ戻った。
「終わったか鋭時、シアラもご苦労さん。問題はまだ山積みだけどさ、難しい事はドクに任せて今度こそ飲みに行こうぜ」
「確かに今すぐ出来る事は無いし次の手はおいおい考えとくよ。もうミサヲさんを引き止めるものは無いね、何度も気を持たせてしまって悪かったよ」
期待をするような眼差しで見詰めて来たミサヲにドクが肩をすくめてから出口に向かうが、鋭時は心配そうに診察室の方を振り向く。
「でも、スズナさんひとりで大丈夫なのかな?」
「教授は優しいですねっ! でも、信じて任せる優しさも必要ですよっ?」
「信じて任せる、ね……考えたらスズナさんも立派な医者なんだし、俺が出張る話でもないな……って、引っ張るなよ……誰に見られるか分からないんだぞ……」
「シアラの言う通りだぜ、鋭時。あたし達がいても何も出来ないんだし、さっさと退散するのがスズナの助けになるってもんだ。さあ行くぞ」
一応の納得を示した鋭時がシアラに掴まれていない方の手で外套のフードを被り直し、上機嫌で歩き出したミサヲの後に続いて病院の出口に向かった。
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病院を後にして坂を下ってから高層建造物群まで戻った一行は居住区の中心地にある魔法科学工場区画と壁ひとつ挟んで隣接した区画まで移動し、工業プラントの光が遥か上方に見える頑強な隔壁を背に建つ木造建築の前に辿り着いた。
「ここがあたしのねぐらがある凍鴉楼、酒の美味い店もあるぜ」
「凍鴉楼はシショクの12人のひとり、ドクター・グラスソルエが自分の研究所をジゅう人が住めるよう改築したのが始まりなんだ。彼を慕うジゅう人達が集まって増改築を繰り返して、まとまりの無い外観になってるけどね……」
ミサヲとドクが案内した凍鴉楼を近くで見ると、入口に当たる白いビルを様々な形の木造建築が外壁のように覆う無秩序な建物であった。
「ところであれは?」
興味深そうに凍鴉楼の外観を眺めていた鋭時は、入口の上部に中心の赤い円から外に向かって幅広くなった直線が等間隔で16本描かれたデザインの看板と思しき物を見付けてミサヲに質問する。
「あれはこの街の魔除けみたいなもんだ、暗くてよく見えなかっただろうけど街のゲートにも掛かってるし、あたしのトリニティシェードにも彫ってあるぜ」
質問に答えながらミサヲが誇らしげにジャンパーの左袖を捲って腕に巻いた布に魔除けの模様を打ち出した金属板を取り付けた手甲、トリニティシェードを鋭時に見せると、今度はシアラが興味深そうに覗き込んだ。
「その手甲がミサちゃんの術具だったんですねっ、その魔除けの模様にたくさんの術式紋様が高密度で組み込んであるのが見えますよっ」
「こいつは驚いた、シアラはそんな事まで分かるのかい?」
一旦トリニティシェードに目を落としたミサヲが驚いた様子でシアラを見ると、シアラは遠慮がちに答える。
「集中して術具を見れば術式の構成が薄っすら見えますし、術が発動すれば詳しい構成も分かります……魔除けの模様が術式紋様を高密度で組み込める事に気付いて興奮してしまいました。ごめんなさい勝手に見てご迷惑かけてしまって……」
「凄いじゃないかシアラ、ちっとも迷惑じゃないぜ! どうしてそんな凄い特技を持ってるって教えてくれなかったんだよ?」
「普通はあまりいい顔をされませんから。それに……お役に立てませんでした……教授の心臓にある分子分解術式も分かりませんでしたし……」
遠慮がちに話しかけるシアラにミサヲは手放しで褒めるが、シアラは静かに首を横に振って顔を沈めた。
「元々俺が背負ってる問題なんだから自分をそんなに責めるなよ、それでなくてもシアラには色々助けてもらってるんだからさ」
気まずい沈黙に包まれそうになる中で外套のフードを少しずらして指でこめかみ辺りを掻きながら慎重に口を開いた鋭時の顔を、シアラが目を見開いて覗き込む。
「教授の方がつらいのにお気遣いありがとうございますっ! わたしも両親から人生の重荷は分かち合うものと教わりましたし、教授の重荷を背負いますねっ!」
「おーいシアラさん、俺の重荷よりも重たい事をさらりと言わないでくれよー……と言っても無駄なんだろうな……とにかく無理だけはしないでくれよ」
感動して当然の如くスーツの袖を掴むシアラに鋭時が曖昧な笑みを浮かべてから外套のフードを被り直すと、楽しそうに眺めていたミサヲが声を掛けて来た。
「話はまとまったみたいだし中に入るぞ、鋭時も飲めるんだろ? 今からシアラと鋭時の歓迎会だ!」
「えーっと……そんなに飲めた記憶は無いけど、とりあえず付き合い程度なら……それよりこんな時間に店が開いてるんですか?」
元から少ないのかまだ思い出せないのか酒に関する記憶が乏しく曖昧に答えた鋭時が逆に質問すると、ミサヲは何も心配が無い様子で微笑む。
「それは大丈夫だ、凍鴉楼には掃除屋向けの店が何軒もある。あたしの行きつけもそのひとつだぜ、ほらドクも行くぞ」
「やれやれ、こうなったミサヲさんは誰も止められないね。鋭時君、シアラさん、疲れてるだろうけど、あと少し付き合ってくれないかな?」
意気揚々とビルの入口へ向かったミサヲに肩をすくめたドクは、そのまま鋭時とシアラを伴って自動ドアの開いたビルの中へと入って行く。
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凍鴉楼に入った一行は、入口から進んで左側面に見える【全自動食堂マキナ】と書かれた看板の掛けられた店の前で立ち止まった。
「よお、マキナ母さん。今から頼めるかい?」
「いらっしゃい、と言いたいけど今日はもう看板だよ」
ミサヲが暖簾を少し押し上げて飾らない落ち着いた雰囲気の店内を確認すると、狐のように尖った耳を突き出すように白い三角巾で器用に頭を巻いて同じく真白な割烹着の後ろからは狐のような尻尾が生え、背はミサヲより低いが歳は同じ程度に若く見えるジゅう人の女性が小さな暖簾で仕切られた奥から姿を見せる。
「そいつはよかった。まだ他の連中には見せたくない客人がいるんだ」
「訳ありかい? 暖簾を片付けたら用意するから中に入りなよ。機械は止めたから簡単な物しか作れないけどいいかい?」
マキナと呼ばれた女性はミサヲの安堵した態度にただならぬ事情を察し、一行を中に入るよう促しながら店の外に出て暖簾を手に取った。
「機械?」
「魔法科学工場で作られた様々な食料を加工調理する機械だよ、この店は全自動の調理装置で和洋中あらゆる料理を作れるんだ」
マキナとすれ違うように店に入って不思議そうに呟く鋭時にドクが説明すると、店の奥にあるテーブルまで進んでいたミサヲが頷きながら壁際の椅子に座る。
「何せ工場は土地と子供以外なら何でも作れる優れものだからな、シアラも鋭時も好きなもん頼んでいいぜ。とりあえず座りなよ」
「じゃあ俺は、拒絶回避で何があるか分からないからこっち側に……」
「わたしは教授の隣に座りますよっ、出来るだけ離れますからいいですよねっ!」
「じゃあボクはミサヲさんの隣に失礼するよ、レーコさんはこのままボクの後ろにいてくれないか?」
「はい、マスター」
飾り気のない簡素なテーブルに手を置いたミサヲから椅子に座るよう促された鋭時が拒絶回避を警戒して斜め向かいに座り、シアラとドクも各々席に着いた。
「さて、何を頼もうかなっと」
「人の話を聞いてなかったのかい? 料理の機械は止めたからそこに出て来るのは作れないよ」
取り外した暖簾を店の内側に掛け直してから戻って来たマキナがため息交じりに呆れ、テーブルに置かれた端末を手にしたミサヲが誤魔化すように頭を掻く。
「おっといけねえ。とりあえずいつものを冷やで貰えるかい? 数は……あたしとドク、鋭時もいけるんだったな? シアラはどうだっけ?」
「ごめんなさいミサちゃん。わたし、今はお酒飲めないんです……」
「分かった、無理に飲ませる気なんて無いよ。シアラにはアルコールの入ってない飲み物を頼めるかい? 後は何か適当に食べるものを頼むぜ」
「あいよ、準備するからちょいと待っててね」
手慣れた様子でミサヲが注文するとマキナが店の奥へ消えて行き、しばらくして枡やグラスなどを載せた盆を手に戻って来た。
「まずはこいつでやっとくれ、後で温かい物でも持って来るからさ。でもその前に事情を聞かせてくれないかい?」
オレンジジュースの入ったグラスをシアラの前に、透明な液体を溢れそうになるまで入れた枡を鋭時とドクの前にはひとつずつ、ミサヲの前にはふたつ置いてから中心に漬物の入った小鉢と取り皿を置いたマキナが隣のテーブルから椅子を引いて鋭時の横に座った。
「この人はタイプ妖狐の璧崎ナズナ、全自動食堂マキナの店主であたし達掃除屋の母さんみたいな人だ。頼りになるぜ」
「名前で呼ばれんのはこそばゆいんだよ、屋号のマキナで呼んどくれ」
緊張をほぐすように紹介したミサヲにマキナが照れ笑いしながら招くように手を振ると、鋭時は座ったままマキナの方を向いてから外套のフードが外れないように軽く頭を下げる。
「初めましてマキナさん。俺は燈川鋭時っていう名前で、記憶の手掛かりを求めてステ=イションに来ました。しばらくミサヲさんの所でお世話になる予定です」
「記憶の手掛かり?」
「鋭時は記憶喪失なんだ。ロジネルにいた所をシアラが見付けたらしいぜ」
不思議そうな顔で聞き返したマキナに補足説明をしたミサヲに合わせるように、シアラが鋭時の後ろから身を乗り出す。
「教授と運命の出逢いをした榧璃乃シアラですっ! よろしくお願いしますねっ、マキナママ」
「ロジネル? 出逢い? こりゃ驚きだね、この子よく見たら人間じゃないかい。教授って事はどこかで勉強を教えてたのかい?」
鋭時が人間だと気付いたマキナが驚いて顔を覗き込もうとすると、鋭時は目深に被ったフードを手で押さえながら静かに首を横に振る。
「いえ、シアラの付けたあだ名みたいなもんで……俺自身はどこで何してたのかはさっぱり何も……」
「そういう事だったのかい、それじゃあ手掛かりはまだ見付かっていないんだね。ところで鋭時くん、店の中では被り物は取るもんだよ」
説明を聞いて納得したマキナの諭すような微笑みに、鋭時はフードを固く掴んだまま俯く。
「俺はそれで博沢先生に取り返しのつかない事をしてしまって、これ以上は……」
「博沢先生って、お医者のスズナちゃんかい? あの娘と何かあったのかい?」
自分を厳しく罰するかのように強くフードを握り締める鋭時に驚いたマキナに、取り皿と箸を配り終えたミサヲが首を振りながら小さくため息をついた。
「大した話じゃないよ。鋭時の記憶を戻そうとして病院行ったら、たまたま当直医だったスズナが覚醒したってだけだ」
「それは結構な話じゃないかい、あのスズナちゃんにも春が来たんだからさ。でもそれだけじゃないんだろ?」
ミサヲの話を聞いたマキナがただならぬ事情を察して険しい顔をすると、今まで黙って佇んでいたレーコさんが間に入るように口を開く。
「マキナさん、私の方からご説明してもよろしいでしょうか?」
「いつもは呼んでも入らないあんたがいるのは余程の事なんだね? 分かったわ、詳しく聞かせておくれよ」
「分かりました、それでは……」
普段の微笑みと異なる真剣な顔付きを表示するレーコさんに呆れながらも驚いたマキナは、真剣な表情でレーコさんの話に聞き入った。
「……と言う経緯で、鋭時さんの安全のためにもマスターが作製したA因子を遮断する外套を被る必要があります。ご理解いただけましたでしょうか?」
「そんな事があったのかい……」
話し終えて静かにお辞儀するレーコさんに、マキナは事情を概ね理解して大きく頷きながらも心配そうな顔を鋭時に向ける。
「でもそのままじゃ食べるのも大変でしょ? もう店じまいしたんだから他の娘はここに入って来れないし、安心して顔をお出し」
「いや、でもそれじゃあマキナさんが……」
マキナは優しく微笑みかけるが、鋭時はフードを掴んだまま俯くしかなかった。
「マキナ母さんには子供がいるんだ、鋭時を見てもスズナみたいにはならないぜ」
「子供達はもう独立して別の街に行っちまったけどミサヲちゃんの言う通りだよ、鋭時くんを見ても襲わないから安心おし」
「そこまで言うのなら仕方ないか……どうなっても知りませんからね……」
自身に満ちたミサヲとマキナの態度に、鋭時は観念して外套のフードを取る。
「あらあら、これはスズナちゃんが夢中になるのも無理のない話ね。きっと幸せにするんだよ」
「ほらな、鋭時。何とも無かっただろ?」
嬉しそうに目を細めて眺めながらも特に大きな変化の無いマキナに小さく安堵のため息をついた鋭時が被っていた外套を脱いでから椅子の背もたれに掛けた瞬間、店の入口からひとりの女性の声が聞こえて来た。
「ごめんください、マキナ様。ミサヲお嬢様がこちらのお店にいらっしゃったのを確認したのですが」
「こっちまで入れないから鋭時くんは安心おし。はいはい、今日はもう看板だよ」
マキナが鋭時に優しく微笑んでから急ぎ入口に向かうと、黒いマキシスカートのワンピース服と白いエプロンを組み合わせたメイド服の後ろから狼のような尻尾が覗き、頭には狼のような耳が被った小さいモブキャップの間から挟むように伸び、微笑みながらも凛とした顔には細長い鎖の付いた丸眼鏡を掛けた、鋭時とシアラの間ほどの背丈の少女が立っていた。