4話
今日から金曜日にかけて5日間、毎日1話ずつ投稿予定です!
結婚の予定を知らされたその翌朝、少女と少年はいつも通りの顔をして朝の挨拶を交わした。
少年は少女のためにハーブを浮かせた冷たい水を汲んできて、花嫁修業だと張り切る老女に連れていかれる少女を見送った。
あれ以来、二人はあの晩交わした会話なんてなかったかのように振舞っている。
それは、結婚まで残り三日となった今日まで、ずっと。
* * *
「少し出掛けてきます。屋敷でゆっくり過ごしていてくださいね」
寒さがやわらいできた雨の朝、部屋まで来た少年がそう告げた。
身軽な格好で、ちょっとどこかに行ってくると言うように。
今日は世話役が体調を崩していて、淑女の心得をがみがみ説かれて追いかけられることもない。
ゆっくり少年と過ごすつもりだったのにそんなことを言われたから、少女は眉間に深く皺を刻んだ。
「いやよ、最近ずっと出かけてばかりで全然一緒にいられないじゃない! 今日くらいは家にいて」
「……お嬢様は周りの目を煩わしくお思いで、身体を動かすことは苦ではいらっしゃらないですよね」
唐突な質問に、勢いが削がれて少女は惑った。そうだけど、と呟く。
美貌のせいで屋敷にひとり残され、目をつけられ、身を売るように嫁ぐことになった。
少年と砂浜を走り回り、二人でこっそり領地を散策するのが好きだった。
「身に纏う衣装にこだわりはなく、規則正しい静かな生活がお好きですね」
「それもそうだけど……、急に何? どうしちゃったの?」
少年が見せるやけに静かな表情に、少女はかえって平静ではいられなくなる。
少年の腕に縋って揺さぶると、その手を柔らかにあやされた。
「魚のような自由に憧れていらっしゃった。……さすがにそれは難しくても、海に近い美しい場所なら気も紛れることでしょう」
優しく少女の手を腕から外すと、少年は少しだけ力を入れてその手を握った。
真剣な眼差しで少女の顔を見つめ、それからくしゃりと目を細める。
お元気で、と唇が言葉を形作ったように、少女には見えた。
少年が一礼して出て行く。
やたらと強く鳴る鼓動を感じながら、少女はただ呆然と立ち尽くした。
「……、…………!」
外が騒がしくなる。時々、伯爵の名が呼ばれているのが聞こえた。
老婆は寝込んでいて、少年は不在だ。
止まない喧しさに、ついに伯爵が一階へ降りていく。
その隙に、少女はこっそりと突き当りの部屋へ忍び込んだ。
見上げるほど大きな水槽で、色とりどりの紙吹雪のように小さな魚が漂う。
その真ん中に、人魚がいた。
まだ幼い女の人魚だった。
人間と変わらぬ上半身に、臍から下は魚の胴体。よく見ると、指の間には水かきのような膜が張っている。
黒々とした髪が水中で揺らぎ、濃い青色の鱗が薄明かりに艶めいた。
首に嵌められた無粋な首輪には鎖が付いていて、水槽とつながっている。
少女に気づいたのか、人魚はすいと泳いで寄ってきた。
かつんと爪の先で水槽を鳴らすと、笑ったような顔をする。
「……人魚って、みんな似た色合いなのね」
——あの嵐の日に見た人魚も、同じ色をしていた。
砂浜に打ち上げられ、必死に岩陰に隠れたあの人魚。
黒い髪が張り付くいやに白い首筋と、美しい尾びれが裂けて人間の足になっていく様子を、少女は瞬きも忘れてただ見つめた。
青ざめた人魚はふと顔を上げ、少女を射貫いた。絶望が滲んだ、黒い瞳で。
あの瞬間、少女の中で、まるで嵐が吹き荒れるように強く鋭い感情が立ち込めた。
どうしようもなく目を奪われた。
一歩ずつ距離を縮め、手を差し伸べ、震える人魚へ少女は告げた。
——わたしのものになれば、あなたを絶対に守ってあげると。
ぼうっと佇むばかりとなった少女に、水槽の中の幼い人魚は首を傾げた。
さらに少女に近寄ろうとして、鎖が突っ張る。それ以上動けなくなり、人魚は不思議そうに目を瞬いた。
「——人魚の存在を確認できました。違法ルートからの購入で、確実に要保護対象です」
扉を開ける音がして、たくさんの革靴が木の床をかつかつと鳴らす。
大人の男たちが後ろで難しい会話を交わしている。
少女は静かに振り向いた。
「ご令嬢、あなたのおじい様はこれから爵位を没収され、収監されることになりました。あなたはこれから、修道院で生活していただきます」
少女が窓の外に目を遣ると、温室に人が入っていくのが見える。あのキメラたちはどうなるのだろうかと、ふと思った。
先頭に立った逞しい役人と目が合う。了承の意を込めて、一度頷いた。
「直接加担していないと証言があるので、最低限の生活は保障します」
「それで十分よ。すぐ出発するの?」
「令嬢の準備が整い次第です、明日の朝までに。出直しましょうか?」
持っていきたい荷物など、そうない。
似合うと言われた空色のイヤリング、一緒に拾った薄いピンク色の貝殻。瑪瑙でできたエテュイも、念のため。
鏡を見て、髪を結うこげ茶のリボンを確認する。
これさえあれば、大丈夫。
男たちに従って屋敷を出ると、門の外に堅牢な馬車と、騒ぎを聞きつけてやって来た人だかりがあった。
その中に、少女は見知った顔を見つける。
フードを深く被っていても、それが誰か少女はすぐに分かった。
朝の仕返しのように、声を出さず、唇で言葉を作る。
少女のその言葉が届いたように、少年がぴくりと肩を揺らした。




