2.毛色の変わった客
アパートで朝食の用意をするのが面倒くさいので、雄峰は出勤途中にあるハンバーガーショップに寄るのが日課であった。その店は同系列のチェーン店の中で最も早くから朝食セットメニューを提供してくれていたので、雄峰は毎朝その店で朝食を済ませていた。
この手の店では、通っているうちに顔見知りができてくる。もちろん挨拶したり言葉を交わしたりすることはほとんどないが、何となく常連客たちがいつもその店にいてくれることで安心感が生まれたりする。
毎朝のようにこの店で朝食を摂ったり、コーヒーを飲んだりしている常連客の多くは、若いサラリーマンか引退した元サラリーマン、あるいは中高年の女性であった。二〇二一年四月末頃から二十歳代後半に見える女が時折やって来るようになった。薄緑色のコートをはおり、青系統のブラウスに履きならしたようなジーパンを身に着けていた。コロナ対策で客は皆マスクを付けていたが、食べたり飲んだりする際はマスクを外すので、雄峰はタイミングを見計らって女の顔の特徴を把握した。うっすらと化粧をしていて、厚化粧の嫌いな雄峰の好みのタイプであった。その女は雄峰よりも少し遅れてショップにやって来て、コーヒーだけ注文してしばらくの間スマホを操作した後、一度雄峰の方に目を遣ってから店を出て軽乗用車に乗ってどこかに向かっていった。
雄峰はその女を見ながら妄想を膨らませた。
「彼女は一体どんな生活をしているんだろう。外見から考えると、一流企業に勤めているということはなさそうだな。結婚はしているのだろうか? 既婚者だとすれば、保育園に通っている子供がいて、朝送り届けてから小さな会社の事務所にでも出勤する前に、一息つきにこのショップに来ているのかもしれない。でも、体から溢れてくるような子供に対する優しさや慈愛みたいなものは感じられないからまだ独身なのかもしれないな……」
雄峰にとっては気になる存在であった。
六月初旬、長袖の薄手の黒いシャツと黒いパンツを身に纏った洗練された感じの女がハンバーガーショップにやって来た。コーヒーをトレイに載せると雄峰が気にしていた女がいつも座る席に着いた。トレイを置くと髪の毛をかきあげた。黒いシャツとパンツが体の線を美しく描いていて、ある種の妖艶さを感じさせた。最初は初めて見る女だと思っていたが、気になってチラチラ見ていると、コーヒーを飲むのに黒いマスクを外した。その途端、雄峰の顔色が変わった。口元や鼻の特徴からあの女だと気が付いたのだ。
その女はいつものようにスマホをいじり始めた。雄峰が自分のことを気にしている様子を感じてか、チラチラと雄峰の方を見る動作がいつもより多いように雄峰には思えた。しばらくして女は飲み終わったコーヒーの紙コップと口を拭った紙ナプキンとを載せたお盆を持って雄峰の前を通り過ぎようとしていた。
「今が話しかけるチャンスだ」
雄峰はそう思ったが、女は目の前で左に曲がってごみ箱の方に行ってしまった。声を掛ける勇気が出せなかった。
女が出て行った後、落胆して下を向いた雄峰であったが、諦めて会社に行こうと思い、立ち上がった。ふと横を見ると、雄峰と同じように出口への視線を崩さずにいる黒縁の眼鏡を掛けた長髪の男の姿が目に入った。
「あれっ、この男はあの女に注目しているのかもしれないな。あまりのんびりしていると後塵を拝することになってしまうぞ」
雄峰は直感的にそう感じた。
翌朝、雄峰はいつもの時間よりも少し早めにショップに入った。焦る気持ちを抑えながらセットメニューを注文し、いつもの席に腰を下ろした。店内を見渡すと昨日の黒縁の眼鏡を掛けた男の姿は見られなかった。少し安心してコーヒーを一口啜り、ハンバーガーに齧り付いたがいつもより落ち着きがなかった。時間が進むのが随分と遅く感じられた。
来た。
昨朝と同じようなバランスの良い体の線が露わに見える黒の上下を纏った服装であの女が入店してきた。コーヒーを注文してから店内を見回していたので、きっといつもの席に座るだろうと思っていた雄峰の予想を裏切って、その女はトレイを持って雄峰の席から二つ離れた所にあるテーブルに雄峰の方を向いて座った。それを見た雄峰は思わず顔を赤らめてしまった。すると女は微笑みを浮かべて小さく挨拶してくれたように雄峰には感じられた。
女は時々雄峰の方に視線を送りながらいつものようにスマホをいじった後、コーヒーを飲み干し、トレイを持って席を立って雄峰の前で左に曲がってごみ箱の方に歩いていった。最後のチャンスかもしれなかった。雄峰は慌てて自分のトレイを持って女の後に続いた。女がごみを捨てトレイを返却台の上に置くと、雄峰も同じようにしてからショップの外に出た。小走りで女に追いつくと声を掛けた。
「時々お会いしますね」
「そうね」
女は驚く様子もなく直ぐに対応してくれた。
「これから出勤されるのですか?」
「ええ、まあ」
女が曖昧に応えたので、雄峰は次の言葉が出なかった。
「あなたもこれから出勤なの?」
「はい、そうです。ここから車で十分くらいの所にある自動車販売店に勤めているんです」
雄峰は救われたような表情で言った。
「あら、そうなの。そのうちお店に行ってみようかしら」
「どうぞ、是非いらしてください。お待ちしています」
そう言って雄峰は名刺を差し出した。女は名刺を確認してから雄峰の目をしっかりと見つめた後で言った。
「あなたは桜井雄峰さんというのね。私の名前は白鷺結子。よろしくね」
そう言うと結子と名乗った女は自分の車に乗って駐車場を出ていった。
会社の定休日の翌朝、いつものようにハンバーガーショップに行った雄峰は落ち着きがなかった。入口から客が入ってくる度に視線を送ったが白鷺結子は現れなかった。翌朝も翌々朝も結子がコーヒーを飲みに来ることはなかった。
四日も続けて結子が来なかったことは雄峰には少なからずショックであった。
「いきなり声をかけたのは拙かったかな……。何か失礼なことでも言ってしまったかな。もしかすると、数日前にハンバーガーショップに来た黒縁の眼鏡を掛けた男がうまいこと彼女に言い寄って交際が始まってしまったのかもしれない。どちらにしても、女の人の扱いは俺にとってはこの上なく難しいことだなあ」
雄峰は随分と気落ちしたまま出勤し、朝の一連のルーティン作業を終えて元気なく業務を始めた。この日の午前中も雄峰は新車の販売契約をものにすることはできないでいた。二時過ぎになってからようや昼食を摂る時間を見つけて控室に入り、冷たくなってしまった仕出し弁当を胃に流し込んだ。出がらしの緑茶をすすり、両手を上に思い切り伸ばし、空元気を出してからショールームに戻った。アルコールを含ませた雑巾でテーブルや椅子を拭っていると店に入って来る客の姿が目に入った。何と黒の上下のタイトな服装の白鷺結子が店にやって来たではないか。
「いらっしゃいませ。ここ四日間ほどハンバーガーショップに来られなかったみたいだったので、ちょっと心配していたんですよ。よく来てくれましたね」
「ええ、調査がちょっと忙しかったものだから、朝早くから出向かなくてはいけなかったのよ」
「調査ですか……。まあ、それはともかく、せっかく来店されたんですから、新車をご覧になったらいかがですか?」
「そうね、そうしようかな」
それから暫くの間、雄峰は最新型のコンパクトカーの特徴などを結構詳しく説明した。結子はもともと車には興味があったようで、時々質問をしたりして楽しそうに雄峰とのやりとりを行なった。結子が販売店を出て行くのを見送った雄峰の表情は安堵に包まれたものになっていた。
翌朝、ハンバーガーショップでバンズを頬張っていた雄峰の前に結子がトレイにコーヒーを載せてやって来た。
「ご一緒してもいい?」
雄峰に拒む理由は何一つなかった。喉に引っ掛かりそうになったバンズの固まりを強引に飲み込み慌てて返事をした。
「も、勿論です」
結子はテーブルを挟んで雄峰の正面に座り、コーヒーをブラックのまま一口啜ってから雄峰の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「昨日はどうも有難う。あなたの新車の説明、なかなか興味深かったわ」
「それは良かった。気が向いたらまた来てください」
「いいの? 私はお得意様にはなれそうもないけど」
「もちろん、大丈夫ですよ。販売店を訪れるお客様のうち、実際に車を買ってくださる方はごく少数なんですから」
「あら、そうなの。それじゃ、ちょくちょく行ってみようかしら」
「ぜひぜひ。ところで、結子さんは昨日、調査をされていると言われていましたけれど、差支えなかったら、どんな調査をされているのか、教えていただけませんか?」
「ええ、何も問題はないわよ。実は私、『うたがき』の研究をしているの」
「えっ、歌に関する楽器ですか?」
「違うわよ。『歌垣』よ。『歌』という字の後に『垣根』の『垣』と書くのよ」
「『歌垣』ですか。それって、聞いたことがあるような気もするけど、一体何なんですか?」
「『歌垣』を簡単に説明するのはちょっと難しいけど、やってみるわ。ある決められた日時に普通は若い男女が近隣から集まり、双方が一種の求愛の歌を披露し合って、気に入った異性を見つけ出す風習とでもいうのかな。この近くにある筑波山などにおいて『歌垣』の風習が存在したことが、『万葉集』や『常陸国風土記』などに記載されているの」
「ええと、もしかして、それって、『かがい』のことですか?」
「あら、その通りよ。よく知っていたわね。ああ、そうか。筑波山がある東国では、『歌垣』のことを『かがい』と呼んでいたのよね。使われていた漢字は難しいから省略するけど、『歌垣』と同じ意味よ。万葉集の中にある有名な歌としては、高橋虫麻呂が詠んだ長歌と反歌があるわ」
「どんな歌でしたっけ?」
「『かがい』が行なわれた日に虫麻呂が筑波山に登った時に詠んだ歌なの。今風に言うと、こんな風になるのかな」
雄峰は興味津々であることを少しオーバーに表現して結子の次の言葉を待った。
「あの筑波山のふもと辺りにあったと言われている『もはきつ』という場所で男女が集う『かがい』が催されていたの。若者だけではなくて既婚者も集まっていたようね。虫麻呂も奥さんと一緒にこのイベントに参加して、自分も他の人妻に言い寄ったの。『他の男も私の妻に言い寄っていいぞ』と歌っているから、奥さんにも『自由恋愛してもよい』と言っているわけ。『筑波山を支配している神様が昔から許してくださっていることなんだから、周りの人たちも見苦しいなどと思って咎めたりしてはいけないよ』っていう感じかな」
「ああ、何となくではありますけど、聞いたことがあるような気がします。しかし、この歌の内容は凄いこと言っていますね。びっくりしました」
「そうね、かなり刺激的な内容ね。この長歌にはさらに反歌が付いていてね、『筑波山に雲がかかってきて、雨が降ってびしょ濡れになってしまっても、私は帰ったりしないぞ』と意気込んでいたわけなのよ」
「気合の入れ方も尋常ではなかったわけですね」
「本当にそう思うわ。あら、もうこんな時間。そろそろ行かなくちゃ。桜井さんも出勤するんでしょう?」
「あっ、本当だ。遅くなっちゃった」
「じゃ、またね」
「いろいろ教えていただいて有難うございました。またお話させてください」
結子は雄峰の言葉が終わる頃には出口近くまで進んでいて、雄峰の方を見て手を振ってから去っていった。




