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プロローグ

 二〇二一年七月十四日水曜日の午後、桜井雄峰(さくらいゆうほう)のスマホのバイブレーションが響いた。誰からか分からなかったが、車が欲しい人からかもしれないので、電話に出た。

「はい、桜井でございます」

「私、結子(ゆうこ)よ」

「ああ、結子さんでしたか。珍しいですね、電話してくるなんて。これ、TPホテルからですか?」

「ええ、そうよ。ケーキ、有難う。嬉しくなって電話しちゃったの」

「ちゃんとした形で届きましたか?」

「ええ、きれいなまま届いたわよ。フォークまで付けてくれて有難う。ちょっと前に一切れ食べたんだけど、とても美味しかったわ。実は残りのもう一つも今食べ始めているところなの」

「結子さんにそう言っていただけると、とても嬉しいです」

「白いクリームの上にイチゴとベリーがトッピングされていてとても綺麗よ。ところで、このベリーって何?」

「ベリーを何にしようかと考えていたんですけど、ブルーベリーの生の果実にしました。今の時期だけ生が手に入るんです。ブルーベリーは目に良いそうですから、論文執筆でお疲れの結子さんにはちょうど良いんじゃないかと思ったんです」

「それは有難う。雄峰さんて、気が利くのね……。私、あんまりブルーベリーのこと詳しくないけど、思っていたのとちょっと違うような気もするんだけど……。これがブルーベリーなのね」

「きちんとしたお店で買ってきたブルーベリーですから、大丈夫ですよ」

「そうなんだ。とにかく、仄かな甘みと酸味があってとても美味しいわ」


「良かった。ところで、結子さんの論文執筆は順調に進んでいますか?」

「ええ、もう少し頑張らないといけないけどね」

「それじゃ、結子さんは明日もTPホテルに滞在するんですか?」

「そうね、明日も一日中ここに缶詰めになって書かないと間に合わなくなりそうなの」

「それでしたら、明日、別のケーキを届けましょうか」

「ほんと? 嬉しいわ」

「今度はどんなケーキを作りましょうか? 食べたいものを言ってください」

「そうねえ……、今度はチョコレートが入っているのがいいかな」

「分かりました。今晩特別美味しいチョコレートケーキを作って、明日適当な時間に会社を抜け出してTPホテルのフロントにお届けします」

「有難う。そのケーキを励みにすれば明日も頑張る気持ちになれると思うわ。ケーキの話をしていたら、残りも食べたくなってきちゃった。美味しいから残しておいて後でゆっくり味わおうかしら。でも、もう一口だけ食べちゃおうっと」

 結子は一度受話器を台の上に置いて、残りのケーキの一部をフォークに刺して口に入れた。

「うーん、やっぱり美味しかった」

「そうですか、嬉しいです。明日も結子さんに『美味しい』って言っていただけるよう頑張ります」

「有難う。期待しているわ……」

 そう言った後、結子の声が聞えなくなった。

「結子さん、どうかされたんですか?」

「うーん、何だか気持ちが悪くなってきたわ」

「ええっ、大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃない。もう吐きそう……。それに、口の中が痺れ…てきた…みた……い……な……」

 結子は明らかに()(れつ)が回らなくなっていた。受話器に結子の嘔吐する音が入ってきた。

「結子さん……、結子さん………」


 その後、結子が電話に出ることはなかった。雄峰は慌てて結子からの電話を切り、TPホテルの番号を調べて電話した。

「はい、TPホテルでございます」

「そちらの303号室に宿泊中の白鷺結子さんの容態がおかしいみたいなのです。至急救急車を呼んでいただけないでしょうか?」

「失礼ですが、貴方様はどなた様でしょうか?」

 雄峰は自分の姓名と身分を言った上で、結子との電話でのやり取りをごく簡単に伝えた。

「分かりました。緊急事態なのですね。直ぐに消防署に連絡を入れます」

 雄峰は『自分も直ぐにTPホテルに駆け付ける』と言って電話を切った。

 上司には『知り合いの命が危ないかもしれない』と言って休暇を願い出ると、雄峰の表情が尋常なものではなかったためか珍しくすんなりと受け入れてくれた。パソコンや机の上の書類の始末を慌てて行ない、自分の車の方にすっ飛んでいった。



 結子は受話器を放り出し、部屋のトイレに駆け込もうとしたが入口付近で嘔吐した。それからも吐き気は収まることはなく、胃の内容物が全てなくなるくらい何度も嘔吐したり、激しい腹痛に苦しんだりした。しばらくすると筋収縮が持続的に一定時間続く強直性痙攣が始まり、さらには意識消失も起こった。結子の全身には酷い汗も見られた。

 ホテルのフロント担当者が救急車の手配を済ませてから結子の部屋に駆け付けて来て、何回かドアをノックしたり呼びかけたりしたが中からの応答はなかった。直ぐにもう一人の従業員も走ってやって来た。

「どうしよう?」

「マスターキーで中に入った方がいいよ」

 そのアドバイスを受けて、最初に来た従業員は意を決してドアの隙間から中に向かって大声で言った。

「お客様、緊急事態なのでマスターキーを使ってドアを開けさせていただきます」

 慌てて中に入ってみると、嘔吐物からと思われる異様な臭いがする部屋の中で女性が倒れていた。

「お客様、大丈夫ですか?」

 結子はもう満足な返事をすることができなかった。従業員たちは苦しんでいる結子にどう対応したらよいか分からなかったが、一人は取り敢えず背中をさすった。もう一人は結子に励ましの声を掛けた。

 ただならぬ気配を感じてか結子の部屋の近くの泊り客何人かとホテル関係者たちも部屋の入口近くにやってきたが、ただただ成り行きを見守るばかりであった。皆の願いは救急車が一刻も早く到着することであった。


 従業員たちや集まってきた野次馬たちにとって本当に長く感じられた時間が過ぎた後、ようやくサイレンの音が聞こえてきた。救急隊員たちが部屋に入って来たのとほぼ同時に、結子が再び痙攣し始めた。救急隊員のうち二人は持ってきた担架に結子を乗せ、後から駆け付けていた従業員が先導する形で救急車まで運んだ。部屋に残った隊員から状況説明を求められたホテルのフロント担当者は、雄峰から聞いた内容と自分たちが部屋に入ってからの結子の状態を慌ただしく伝えた。

 説明が一段落したところで、二人は部屋を出てフロントに向かって歩き出した。

「そうすると、白鷺結子さんという方は、あの部屋の中でケーキを食べた後、急に苦しくなったのですね?」

「多分そうなんだと思います。自分の目でしっかり見たわけではありませんが、あの女性と電話で話していたとおっしゃっていた桜井さんという方の話では、そのようです」

「そのケーキはこのホテルで作られたものでしょうか?」

「いえいえ、当ホテルではケーキは提供しておりません。ご自分で購入されたものなのかもしれません。もしかしたら、桜井さんという電話を掛けて来られた方がご存じかもしれないと思います。その方が間もなくこちらに来られるはずですから、お訊きになられたらいかがでしょうか?」

「分かりました。そうしてみます」


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