09 邪険
※※※2021/3/21より、本作の大幅改稿版『最愛なる猛毒、致死量の慈愛。』を連載しております。大まかな展開は変わりませんが、【演出】【構成】【台詞】【一話あたりの文字量の改変】等、読みやすさを重視した改稿となっており、また、本作では描かれなかった【糸子と星史のはじまり】を書き下ろしております。読まれる際には改稿版のほうを強くお勧めいたします。※※※
夜明けまでまだ少し。期待していたわけじゃないけれど、やっぱり、鍵はかかっていなかった。無用心だなと呆れつつ、ありがたくあがる。
バイクの音に誘われたのか、気配を察したのか、百香が二階から降りてきた。
「………おかえり。」
躊躇いがちに迎え入れる。
一晩、留守をしてくれたのだろう。百香はすっぴんで、ひのでの部屋着を纏っていた。
「おなか、すいてない? 何か作ろっか? グラタン、百香が貰っちゃったからさ。」
あどけない笑い方も、どこかたどたどしい。目に見えて無理をしている。
「ひので、どうしてる?」
僕は無遠慮に尋ねた。
「よく寝てるよ。」
取り繕った笑顔が、声をひそめた。
「……ごめんね。喧嘩、させちゃって。怪我、させちゃって。」
躊躇いと、配慮と、優しさ。
三つの交差上で、百香は慎重に言葉を選んでいた。
「もう、だいじょぶだよ。ひのでなら、わかってくれたし。」
彼女の「大丈夫」とは、丸く治めたという意味だ。
きっと夜が明けて、妹と顔を合わせても、殴られることはない。これ以上、僕が被害を受けることはない。理不尽で一方的な兄妹喧嘩も、これにて収束だ。
「ごめんね、旭、……ごめん。ごめんね、」
喋るほどにうな垂れてゆく彼女の笑顔は、限界を迎えていた。
「百香、」
繰り返す謝罪を遮って名前を呼ぶと、泣き出しそうな顔がこちらを向く。
「いつも……ありがとな。俺こそごめん。いろいろ。」
僕の礼と労いと謝罪が、ぎりぎりまで保っていた彼女の線を、ぷつりと切る。
とたんに、百香は破顔しながら大粒の涙を流した。
笑みと号泣、相反する二つの感情を熾したのは、たぶん、安堵だと思う。
「よかったあ……。ももか、旭に……嫌われちゃったかと、おもって、」
手のひらでぐしゃぐしゃと涙をぬぐう。
「ほんとはね、ずっと、お話、したかったんだよ? でも、旭……つめたいし、最近、ぜんぜん、別人みたいで……ちょっと、こわかったし。クラス、誰とも、話さないし。なんか、近寄れなくて……。でも……雨宮さんとは、しゃべるし、」
泣きじゃくって声を詰まらせる百香は、感情のあまり、言いたい事がまとめられずにいるようだった。ここ最近の僕との関係に悩んでいたことだけは、伝わった。
僕は泣きやまない百香の髪に、手を乗せた。
「きらってなんかいないから。」
百香はいよいよ嗚咽だけになって、僕の胸元にくっついた。二階で眠っているひのでを起こさないように、泣いている。
すがる彼女の後ろ頭を撫でながら、僕は、雨宮の体温を思い出していた。
勉強会が終わったのは深夜一時過ぎ。これ以上は運転にも支障をきたしそうだったので、切り上げることにした。さすがに、泊まるほどの度胸もなかったし。
雨宮は駐車場まで見送ってくれた。
「帰ったら殺されるんでしょ、」
僕が誇張した冗談について触れる。身を案じてくれているというより、興味本位のような聞き方だった。
「その点は平気。たぶん家に百香いるから。」
「桂木が?」
「妹さ、百香の言うことだけは聞くんだよ。そろそろ、安全になってる頃合い。」
今更もう面倒になったので、雨宮の前でも『百香』と呼ぶことにした。こいつは僕らになんか興味無いだろうし。いい意味で。
ふいに、雨宮は何か考え込んだ。
口元あたりに指をおいて暫し黙ったのち、口を開く。
「あんた、桂木は邪険にしないほうがいいわよ。」
だしぬけな発言に耳を疑った。
忠告か助言か、どちらにしても雨宮らしくない。それ以前に百香に関しては、相手にするのが億劫なだけで、邪険にしたつもりもない。
「ああいう類いの女は、些細なことでも袖にされてるって感じるものよ。少し寵愛してやるくらいでもいいと思うわ。」
寵愛って……なんか卑猥な響きだな。
それはともかく、なぜ急にそんなことを言い出すのかが気になった。
「一応言っておくけど、俺たち、一度もそういう関係になったこと無いから。」
今も別に、痴情のもつれだの男女の諍いじゃなくて、こっちが気を遣うのをやめただけだから。あくまで今が自然なかたちなのだと、僕は主張した。
「少なくとも、桂木はそう思っていないでしょ。」
「まさか百香の肩持ってんの? 女目線で同情してるわけ?」
僕は引き気味に苦笑した。
「んなわけないでしょボンクラ。」
雨宮も気色悪そうに否定する。
「嘘でいいのよ。投資だと思いなさい。」
「とうし?」
寵愛が投資。雨宮は念を押した。
「不要な好意は、使えるわよ。」
今度は僕が考え込んだ。先ほどの雨宮を真似るように、口元に指をおく。
暫し黙ったのち、おもむろに雨宮を抱きしめた。
今度は衝動でも、せつな的でも、なくて。
雨宮の提案が非道だなんて、これっぽっちも思わなかった。
むしろ、どうしてこの手を見逃していたのだろうと、悔やむくらいだ。おかげでなかなか寝付けない。白んできた窓を眺めながら、睡魔を待った。
僕は百香に、感謝と労いの言葉をかけ、謝罪をし、髪を撫で、抱きしめた。
そうすることで彼女は安堵し、涙し、これまでの苦悩や不安を打ち消した。
そこにある僕の心情がどんなものであろうと、いいんだ。結果的に、桂木百香という女を利用しようと。
百香は優しい女だ。
お節介なまでに尽くしてくれるし、何より、対ひのでの盾とするには打ってつけだ。
そんな彼女に、少し優しい声をかければ、たまに触れてやれば、寵愛を与えてやれば、その利便性は計り知れない。
さすが、賢い女は目の付け所が違うな。
潜り込んだ毛布のなかで、緩んだ顔がなかなか元に戻りそうになかった。
二度目の抱擁にも、雨宮はまったく抵抗しなかった。
そっと解放してみたところ、愛想のない視線を向けてくるだけで、動揺さえしていない。下の名前で呼ばれたときは赤面したくせに、どうも羞恥の基準が判らない。
「今度は何よ、」
呆れるようなため息をつかれた。
「つまりこういうことだろ?」
僕は肩をすくめた。
「だからって、実演しなくてもいいわよ。」
「いやあ、何事も予習は必要だろ。」
真夜中の駐車場は声がよくとおる。反響する会話が、ひと気の無さを実感させた。
「テスト順位良かったらさ、続きさせてよ、」
「? つづき?」
安定して大真面目な彼女は、思うように察してくれない。自滅して、変な空気になってしまいそうだったので、急いでヘルメットを被った。
「冗談。お礼にメシでも奢らせて。」
「結果、出してから言いなさいよ。クズ。」
エンジンをかけ、手のひらを向けてアクセルを踏む。
ミラー越しに映る雨宮は駐車場を出るまで、ちゃんと佇んでくれていた。
気づくと、白み始めていたはずの窓から陽気が射している。いつの間にか眠っていたらしい。
頭のなかを整理して、昨夜の出来事が夢であったか否かを確認した。
夢も現実も、両方正解だ。となれば……今日は平和な土曜日ということか。
時刻は正午過ぎ。だいぶ寝過ぎたな。
下階から聞こえる生活音に誘われて、階段を下りた。
キッチンでは百香が食器を洗っていた。隣ではひのでが、洗い終わった食器を布巾で拭いている。
「おはよ。」
目が合うなり、百香はにこやかに声をかけてきた。
ひのでからは挨拶も笑顔も無かったけれど、睨んでこないし殴りかかってもこない。まあ、平常どおりである。昨夜の喧嘩は、すっかり無かったことになったらしい。
「ごはん、食べるでしょ? 何飲む?」
「牛乳。」
「目玉焼きとオムレツ、どっちがいい?」
「目玉焼き。」
寝起きで動きがにぶい僕に比べて、百香は手際よく食事の用意をしだした。たぶん百香は僕よりも、我が家の台所を熟知している。
あっという間に、遅い朝食もとい、ほとんど昼食が食卓に並んだ。
トーストとベーコンエッグ。じゃがいものスープとサラダ。牛乳。全部、一人分だ。
「俺だけ?」
一人ぼっちの食卓についてたずねた。
「私たちはさっき済ませた。」
意外なことに、返事をしたのはひのでだった。目を合わせず淡々と言う。
「百香たちも、寝坊しちゃったんだよねー。」
対照的ににこにこしながら、百香は僕の正面に座った。
ひのでは同席せず、テレビをつけてソファに座る。
「ポタージュおいしいでしょ。百香の自信作。」
「手間かけてるよな、これ。」
「そうでもないよ。これはねえ……」
食事を摂る僕相手に、百香は尽きることなく話を振った。
スープの作り方、月曜からの中間試験のこと、母さんの帰宅時間、最近話題になったニュース、夏休みへ向けてのダイエット……めまぐるしく変わる話題すべてに、僕は律儀に対応した。頷いたり、相槌を入れたり、時々質問や談笑を練りこんだり。
百香は気分良く喋り続けた。ここ数日のわだかまりを、清算するみたいに。もしくは、しばらく空いてしまった分を、取り戻すように。
「モモカちゃん。テレビ、始まる。」
ほどなくして、ひのでが呼びかけてきた。
百香は表情を輝かせると、そそくさとソファのほうへ移動する。騒がしくなった画面には、男性アイドルグループの姿があった。バラエティ番組のようだ。
「○○くんかっこいいなー。」
特定のアイドルを指して、百香ははしゃいだ。
「ひのでは誰推し?」
女子特有の質問が始まった。つい聞き耳をたてる。
「私は………べつに。」
だろうな。
わかってはいたけれど、面白い返答は期待できなかった。
「えー。しいていえば? しいて、」
「……このなかには、いない、かな。」
「ひのでのタイプって、わかんないなー。」
百香はひのでの隣に座って、えいえいっと頬をつついた。彼女にしかできない芸当だ。
「このひと、微妙だよ。顔、良くないし。」
先ほど百香が「かっこいい」と賞した人物を指して、ひのでは目を据わらせた。
「顔っていうか、雰囲気が好きなんだよねー。イケメンじゃないのは認めるけど。」
否定されて怒るどころか、同意して百香は笑った。
やりとりの途中で、ひのでがすすっと体勢を崩して、ごく自然と、百香の脚を枕に寝そべった。
「趣味悪いよ、モモカちゃんは。」
「悪いかなあ。」
百香もごく自然に、会話を続ける。
「悪いよ。男見る目、無い。」
えー、ひどーい。百香はまた笑いながら、ひのでの頬をつついた。
妹に膝枕を許す幼馴染と、幼馴染に寄り添う妹を、横目で眺めた。
どう贔屓目に見ても異様なその光景は、甘ったるいくらいに和やかで、あくまでふつうに過ごす二人に、胸焼けを覚えた。幼いころは、なんとも思わなかったのに。
ごちそうさま。食べる速度を上げて早々平らげた。
「今日はずっとテスト勉強?」
食器をさげる僕に百香が声をかける。
「じゃないと月曜やばいし。おまえは大丈夫なの?」
「ううん。超ピンチだよ。」
暢気に言うことじゃないだろ。指摘すると百香は、「だからこれ観終わったら、おいとまするつもり。」だと弁明した。
「帰っちゃうの?」
すかさずひのでが割って入る。
「うん。帰るよ。」
「なんで?」
「お勉強しないとだから。」
「私もする。うちで一緒にしよう。」
「でも百香、教科書とか持ってきてないし、」
「旭の借りればいい。」
ひのでは百香にくっついたまま引き止めた。
「だめだよ。旭だって勉強するんだから、」
「いいよ。俺の教科書使えよ。」
今度は僕が割って入った。
「使え、って、旭はテスト勉強どうすんの?」
「あー………問題集買ったんだ、昨日。あと、ノートとか、結構、まとめてたし。」
とっさに嘘をつく。ちょっと無理があったかもしれない。
「旭もこう言ってるし、一緒に勉強しようよ。ね、モモカちゃん、」
まさかひのでの駄々が、助け舟になるとは思わなかった。便乗するように僕は、「時々、お茶とか淹れてくれると助かるんだけどな、」と、優しい語調で言った。
押しの一手にすっかり気を良くした百香は、じゃあいつでも声かけてね。と、顔をほころばせた。
なるほど、ああいうのも寵愛なのか。
部屋に戻るなり、先ほどの行動を振り返った。
思ったほど難儀ではないな。もっとこう、身を売る覚悟をしていただけに、拍子抜けするような、肩の荷がおりるような……どうもすっきりしない。
おそらく、この正体不明な悶々の原因は百香じゃなくて、ひのでだ。
机に着き、僕は深いため息をついた。
ぼんやりする頭のなか、今しがたの甘ったるい光景だけが、鮮明に浮ぶ。
ひのでの百香に対する慕い方は、盲目の域だ。
どうしても、昨夜の暴虐な彼女と、先ほどの甘ったれた妹が一致しない。
殺意も、女のにおいも無い、ただの大きいだけの子ども。
嫌悪でも恐怖でもなく、ただただ不思議だった。
幼いころからそうだった。
僕や母さんとは距離を置くくせに、百香にだけは執着する。彼女に対してだけは別人になる。一緒に出掛ければ、絶対手を繋いでいたし、別れの時間になれば駄々をこねていた。
常に触れていたいとか、片時も離れたくないとか、妹の幼馴染に対する想いは理解し難い、未知の領域だ。
なかなか勉強モードにならない頭を切り替えるために、雨宮から手渡されたプリントを広げた。彼女の作戦通り、ひたすらこれを暗記するわけだが、やはりどうみても、範囲と見合う量じゃない。
まるで、確実に出るであろう要点だけを厳選したような、まさにヤマを張る、といったまとめ方だ。
賭けてみるか。足掻いてみるか。今更疑うわけにもいかないし、疑ったところで他に手も無いし。
これで少しでもいい結果が出せれば、万々歳だ。
プリント左上から字列を追う。時々ペンを走らせ、時々文字を隠し、僕はひたすら暗記に没頭した。
少しでも、いい結果を。
できたら、程度でしかなかった期待が衝撃に変わるなんて、夢にも思わなかった。
初日の世界史と現代文、二日目の化学、三日目の物理と英語。試験用紙が配られるなり、何度も見返し目を疑う。
ヤマが当たるなんてもんじゃない。
こんなの、まるで、
「おまえ、予知能力でもあんの?」
ストローを噛みながら僕は聞いた。
「んなわけないでしょ。」
雨宮も、ストローを咥えたまま不機嫌に答える。
「だって、ヤマ当たりすぎるからさ。俺至上一番出来たかも、今回。」
試験最終日の放課後、僕らは五日ぶりに映写室に集まっていた。
今日に限っては昼休みではなく、弁当も持参していない。
そもそもあとは帰るだけなのに、なぜ集合しているかというと、その理由は、雨宮の不機嫌の原因ともリンクする。
「そんなことより、あのバカ女なんとかしなさいよ、」
人差し指を向けて、雨宮は苦情を述べてきた。
話は二日前に遡る。
試験初日。つまり休み明けの月曜日、終礼が鳴るなり事は起きた。
「雨宮さん。このあと時間あるかな?」
百香が親しげに、雨宮に声をかけてきたのだ。
「……え、……は…あ?」
「よかったら一緒にお勉強しない? 百香、明日の数学自信なくて……。迷惑じゃなかったら、教えてほしいんだ。」
あどけなく笑う百香に、雨宮は目をまるくするばかりだった。状況が把握できないのか、圧され気味に、半開きの口からは声が出ていない。
百香は構わず、ぐいぐい距離を縮めた。
「駅前のサイゼ行こうよ。百香、自転車だから二人乗できるし。勉強みてもらうお礼に、ドリンクバーごちそうさせて。」
蚊帳の外に徹してはいたが、内心はらはらしていた。経験上、このままでは間違いなく雨宮の罵詈雑言が炸裂する。そろそろ見てられない。
百香か、雨宮か、どちらに声をかけるべきか悩んだそのときだった。
「……あ……ああああたし、きょ、今日は……い、いい急いでるから!」
視線を外して声を震わせながら言い切った雨宮は、鞄を掴んで一目散に教室から出て行った。
ぽかんと取り残された百香と一緒に、僕もぽかんとする。
そういう反応でくるか、と思う反面、そういえばああいう奴だったなと、懐かしくもなった。
試験二日目の終礼後も、百香はめげずに声をかけてきた。
彼女なりに策を練ったのだろう。初日よりも更に馴れ馴れしく(きっと本人としては友好的に)腕に触れてきた。
「雨宮さん、一緒に帰ろ。」
両手で包むように、雨宮の肘あたりを掴む。女子同士なら寛容される程度の戯れではあったが、雨宮は「ひいっ、」と変な声をあげた。
「やだなあ、百香、チカンみたいじゃん。」
まったく動じない百香に比べ、雨宮は赤面しながら腕を振り払った。
「おっ……おお親がむむむ迎えにきてるからっ!」
そしてまた一目散に逃げてゆく。
二日連続で拒絶された百香は、「むう…」と唇を尖らせた。
「なに企んでるんだよ。」
下校する道すがら僕は聞いた。
百香はくるくると鞄を振った。
「人聞き悪いなあ。百香、雨宮さんと仲良くしたいだけだもん。」
「それ、女子の間でやばいんだろ、」
僕は意地悪くむしかえした。
「んー、そうかもだけど、旭のお友達なら、百香も友達になりたいし。」
なんだそれ。引き攣りそうになった表情を、なんとか保つ。
「それに百香ね、反省してるんだよ?」
「反省?」
「お説教してきたのは旭じゃん。うん。やっぱり百香も、ああいうの良くないって思う。」
両手で拳をぐっと握り、一人で納得するように大きく頷く。そんな百香の様子に僕は、はあ、と微妙な態度をとった。
「本音言うとね、最悪ハブられても、旭と雨宮さんがいればいいかなー、って感じなんだ。」
あけすけに笑う幼馴染からは、やはり厄介な女の烙印を消せそうにない。
確信を表情に出さぬよう、むしろ無理に笑って、平和的にその日を終えた。
そして試験最終日の今日。
この二日間を踏まえたのか、雨宮は終礼が鳴るなり教室から飛び出した。慌てて逃げるようにというより、極力目立たないように、こそこそと早足で出てゆく様子を、僕は目撃していた。
「ねえ旭、雨宮さん知らない?」
しばらくして百香が声をかけてきた。
「さっき帰ったみたいだけど。」
僕が言うと、百香は不思議そうに腕を組む。
「でも、靴がまだあるんだよね。ねえ、連絡とれないかな?」
連絡先知らないんだよ。即座に嘘をつくと、意外だと残念がられた。
「靴あるなら、まだ校内にいるだろ。玄関で待っててみろよ。」
話を逸らして提案すると、百香はそれだと賛同し、足早に教室から出て行った。
面倒なのに絡まれたな、あいつも。
同情と憐れみから、僕は自販機でパックのジュースを二つ買ってから、映写室へと向かった。
雨宮はやはり映写室に避難していた。
どうやら、トイレに寄って帰ろうとした矢先、自分の下駄箱前で百香が待ち伏せていることに気づき、帰るに帰れなくなってしまったらしい。
いつもは使っているパイプ椅子も広げず、床に座り込んで参っていた。
「まあ、あいつのことだから、一時間も待てないって。」
半分責任がある事実は伏せて、僕もこの籠城に付き合うことにした。
「案外、女子には弱腰なんだな、」
からかいながら、彼女と同じように床へ直に腰をおろす。いつもより景色が低い。
「女子というより……桂木百香は、調子狂うわ。」
「近寄んなメス豚! くらい期待してたんだけど、」
「どれだけあたしを俗悪だと思ってんのよ。」
まあまあ。宥めつつパックを手渡した。
機材を背もたれに並んでジュースを飲み、テストの手応えを報告し、百香に関しての苦情を受け、そして今に至る。
合流してから二十分弱。僕らは隣り合ったまま、ぼんやりと座っていた。
中間試験が終わった開放感からか、退屈さえ心地良い。少なくとも僕は、の話だけれど。雨宮は違うのかもしれないな。
ちらりと様子を窺うと、雨宮は唇を鎖したまま無気力に座っていた。
ほんとう、華の無い女だな。
置物みたいな彼女を、いくらでも見ていられる気がした。
「桂木って、」
みつめていると、珍しく雨宮のほうから口を開いた。なんだ、また百香の話になるのか。どうでもいいと言わんばかりに相槌をつく。
「少し、セージさまに似てるわ。」
適当に流すつもりだったのに、首が勢いよく雨宮方面に動いた。
彼女との間で、仲村の存在は禁句のままだったのに、こんなふうに登場するなんて。いや、それよりも似てるか? あの二人。僕は険しい顔をした。
「だから調子狂うのよ。」
雨宮は全然、僕のほうを向こうとしない。空になったパックを手にしたまま、視線を遠くに投げている。
「あたしのじゃないセージさまに、似てる。」
やがてぽつりと呟いた。
ほとんど独り言だった。置物の、人形みたいにぼんやりと座ったまま、しずかな瞬きを数回繰り返す。
小奇麗に結わかれた三つ編みが胸の辺りまで垂れていて、やけに艶を帯びている。そこはかとなく儚い横顔は、どんなに眺めても振り向きそうにない。
無性につまらなくなった。腹立たしいくらい、面白くない。
僕は視線を、彼女の下半身まで落とした。横座りしたスカートのプリーツが、脚に沿って形を乱している。
「雨宮、」
呼んで、おもむろに姿勢を崩した。
記憶に甘ったるく残る妹を模して、真似て、雨宮の脚に擦り寄る。
膝枕から見える、より低くなった景色で、彼女を仰いだ。
「俺は、狂う?」
寝そべって問う僕を、雨宮は見おろしていた。
避けもせず、動揺も無く、顔色一つ変えず、首を傾げる。
「狂うって、」
「調子。」
「べつに。」
「つまんねーの。」
膝枕のまま会話を交わした。
「重いんだけど。」
やっと文句らしきことを言われる。
「え、それだけ?」
「それだけって何よ、」
「もっと無いの、他に。」
「だから重い。」
「困らない? こういうの。」
「尋常じゃないくらい迷惑だわ。」
「おまえ体温高いなー。」
「会話になってないわよクズ。」
「ははは。」
僕だけが笑った。雨宮は笑ってなかった。
いつもどおり、いつもどおりの僕ら。それなのに全然、面白くない。
なあ、雨宮、
「俺のこと、邪険にしないほうがいいよ。」
仰向けのまま手を伸ばした。指先が彼女の頬にふれ、ゆっくりと膚を滑る。
おもしろくない。つまんねーよ。
「皆口、」
見おろす雨宮が、僕の手を取る。
「体温低いわね、あんた。」
指先を握るなり真面目に言う。会話になってねーぞ。僕が笑う。
「お互いさまでしょ、」
握られた部分がじんわり温まってきた。
やばい、なんだか急にすごい眠い。試験期間だったし、無理もないか。
「一時間したら起こしてよ。」
仰向けの姿勢から横向きになって、身体じゅうの力を抜く。制服の生地を、頬がぎゅうと捺した。
プリーツんとこ、絶対寝跡つくわよ。雨宮の忠告が聞こえたけれど、睡魔に抗えそうにない。……今なら、なんとなくわかるな。ひのでのこと。
おちてゆく意識のなか、秒針が頭にこだました。