39 最愛
※※※2021/3/21より、本作の大幅改稿版『最愛なる猛毒、致死量の慈愛。』を連載しております。大まかな展開は変わりませんが、【演出】【構成】【台詞】【一話あたりの文字量の改変】等、読みやすさを重視した改稿となっており、また、本作では描かれなかった【糸子と星史のはじまり】を書き下ろしております。読まれる際には改稿版のほうを強くお勧めいたします。※※※
久方ぶりの山手線に警戒し過ぎたせいか、目白駅を降りるとまだ一時間以上も余裕があった。会場まではタクシーを使うつもりだったが、予定変更、これまた何年ぶりかの都バスに乗り込む。それでも、やはり丸々一時間早い到着となった。
意外にもゲストはちらほら見える。化粧直しが目的なのか同年代の女性が多い。見覚えの無い顔ばかりのところ、大学からの友人、もしくは転校先での同級生なのだろう。いいや、小中の同級生もいるのかもしれないが、僕があまり女子と関わりを持っていなかったから、覚えていないだけの可能性もある。
受付に立つ女三人もまったく記憶に無い顔だ。そのほうがやり易いけれど。
「本日はおめでとうございます。」
こういう畏まった場面では、特に。
「新婦友人の一ノ瀬と申します。」
僕の礼に受付係も丁寧な礼を返す。
挨拶を済ませると袱紗から取り出した祝儀を、「心ばかりですが」と言葉を添え差し出した。受付係は少々のたどたどしさはあるものの、謹んで受け取ると、芳名帳への記帳を促した。
『一ノ瀬 旭』
「あっ。……あのっ!」
名前を記帳してすぐだった。声に誘われて顔を上げると、受付係の後ろから身を乗り出すように少年が割り込んでいる。
スーツではなくブレザーの制服姿。デザイン性のある眼鏡を着用し、黒髪を若者らしくワックスでセットしている。
「すみませんっ、その、失礼ですが、『みなぐちあさひさん』……っすか?」
絵に描いたような今時の高校生だが、おぼつかない敬語を真摯に使う様子から、悪い子ではない印象だった。むしろ、性根の真面目ささえ窺える。
「はい。皆口は自分の旧姓です。」
僕の返事にぱあっと顔を輝かせると、続けて慌てふためいた。
「あのっ、ちょっ、ちょっと待っててくださいっすね!」
後ずさりながら両手を向ける。きょろきょろと周囲を見渡し、どこかへ駆けて行った。
……なんか忙しい子だな。っていうか高校生? 親戚だろうか。
何者かは不明だが、彼の登場から一連を傍観していた受付係が三人揃ってくすくす笑い、真ん中の女が代表するように、「騒がしくてすみません」と頭をさげる。続けて、左の女が、「よろしければこちらへ」と受付用に設けられた椅子へと手を流した。
お構いなく。把握できない状況下で、とりあえずの遠慮を見せた直後、懐かしい声に呼ばれた。
「まあ、旭くんっ、」
黒留袖の中年女性が、感動の再会とばかりに駆け寄ってくる。実際何年ぶりだろう。
「おばさん、」
百香の母親だと気づくのに、少しばかり間を挟んでしまった。
後方に先ほどの少年の姿がある。やはり親戚か何かで、彼がおばさんを呼んでくれたのだろう。
「よく来てくれたわねえ。あらあ男前になって。」
「ご無沙汰しています。この度は本当、おめでとうございます。」
僕の礼に、おばさんはハンカチを口元に宛がって目を潤ませると、瞼を一度だけ強く閉じ、開くと同時に明るい表情に変えた。
「どうもご丁寧に。百香、喜ぶわ。ひのでちゃんの体調はどう?」
「順調そのものですよ。今日は残念がってました。すみません、僕だけで。」
おばさんは朗らかに笑う。
昔のこととはいえ、大事な娘を『巻き込んでしまった』挙句、重傷も負わせたというのに、僕らを一切咎めないどころか、こんな晴れの日に歓迎までしてくれて……この人の器は大きいを通り越して正直おそろしい。きっと彼女は本当に、ただの優しい人間なのだろうけど。
「旭くん、今、時間ある?」
「? はい。まあ。」
周囲に目を配ると、おばさんは少し声をひそめた。
「少しだけ、百香に会ってあげられないかしら?」
僕も声をひそめる。
「い、いいんですかね、そういうの、」
「あの子から頼まれてるのよ。」
抵抗感が生じる一方で、先ほど少年が慌てて僕を呼び止めた件と、すぐさまおばさんがやってきた事と、百香からの頼み、の三つが合致した。断りづらい空気に躊躇っていると、式関係者らしき人間がおばさんを呼ぶ。
花嫁の母親とは色々と忙しいものだ。本来なら、いち友人に割く時間なんて無いだろうに。
頷いて承諾すると、おばさんはまた顔を明るくさせた。
「イヅちゃん、また頼まれてもいい?」
先ほどの少年に声をかける。
「ラジャっすー!」
さいごに辞儀を交し合い、僕は明るく手招きする彼のほうへと歩み寄った。
控え室へ案内中、謎の少年ことイヅくんは、自分が百香の従弟であると自己紹介してくれた。
他にも、自分たちの親は五人きょうだいだから、従兄弟姉妹がやたら多いのだとか、自分はその中でも最年少の高校生なんだとか。
「売るほどイトコいるくせに、女率えげつないんすよ。受付にいたの見たでしょ? あれも全員従姉のねーちゃん達っす。しかも東京在住の男はオレだけだし、マジ肩身狭いっすよー。」
こんな感じで、人懐こく延々と喋ってくれた。こういった類いの人間には慣れているけれど、やっぱり若さってすごい。
「あさひさんのことは、よく聞いてたっす。」
「え?」
「モモちゃん、一人っ子だけど、近所の幼馴染が弟妹みたいだから毎日楽しいって。」
無邪気にえくぼを見せる彼に、高校時代の百香が重なる。同時に、何気ない記憶が突沸した。
「……そういえば俺も、一度百香から聞いたことあったよ、きみのこと。」
あれはたしか……僕と星史が、従兄弟だって判明して……それを告白したとき、だったかな。
「自分の親はきょうだい多いから、従兄弟姉妹がいっぱいいて、一番下はまだ幼稚園児で超可愛い、って。」
あのときの彼女も、今、目の前にいる彼と同じように、えくぼを見せていたんだ。
「そーなんすよ! オレ、めっちゃ可愛がられてたんすよ!」
日差しみたいな声に、いつの間にか自分が暗くなっていたと気づかされる。彼はそんなつもりなかったのだろうけど、助けられた。晴れの日に水を差さずに済んだ。
「モモちゃん超優しいじゃないっすか。他の従姉妹連中とは段違いで女神なんすよー。ここだけの話、ぶっちゃけ初恋だったんすよねー。そのせいで年上ばっか好きになっちゃうんすよ、オレ。フられるか捨てられてばっかですけど。マジ罪作りっすよ、モモちゃん。」
……すごいな、若さって。
底抜けな明るさと物怖じしない距離感に圧倒されつつも、一人芝居みたいに喜怒哀楽を変えるイヅくんが可笑しかった。
甲斐百香、28歳。
旧姓、桂木百香。
本日は、幼馴染の結婚式。
「……! 旭っ、」
面会するなり懐かしい声があがった。親しんだ少女が純白のドレスによって、すっかり花嫁へと変貌を遂げている。久しぶり、の一言よりも先に、「おお」と感嘆してしまったのはそのせいだ。
「なにその反応ー。」
丁寧に施された化粧の下の、あどけないしぐさは百香そのもので、僕を安心させてくれた。
「すげーわ。ブライダルマジック。」
つい、いつもの調子でふざける。
「あはは、超失礼ー。」
百香は座ったまま笑った。椅子がほとんど隠れてしまうくらい、ボリュームのあるドレスだ。
「ごめんねこのままで。動きづらくてさー。」
「だろうな。体力使うんだな、花嫁って。」
「そーだよー。なのにご馳走、食べれないし。」
「ははは。……あ、」
「ん? なに?」
「本日はおめでとうございます。」
「遅くない?」
会わなかった年月が嘘みたいに、僕らは会話を繋げた。
「ていうか超久しぶりだね。」
「それこそ遅くね?」
「あははー。でも本当嬉しいっ。招待状出してよかったあ。旭が養子に入るって聞いたときは驚いたんだよー。」
「何年前の話だよ、」
「しかも県外行っちゃうし。」
「それは去年。」
「あれ? そうだっけ? たしか義弟さんとお店やってるんだよね。」
「おかげさまでそこそこ多忙でございます。」
「それはそれはお忙しい中、恐縮でございます。」
あの頃の僕らのまま、話し続けた。
「甲斐になるんだな、苗字。」
「うんっ。イニシャル変わらないのー。」
「旦那さんは同僚だって?」
「そうだよー。社内恋愛でございます。えっへん。」
「どこに威張る要素が。」
「なんかドラマ的じゃん?」
少年の僕が、ただネイビーのスーツを着ているだけで、少女の百香が、ただウェディングドレスを纏っているだけ。
たったそれだけの僕らが、仕事とか結婚とか、大人みたいな話を、続けた。
「ひのでにも来てほしかったなあ。最後に会ったの去年だし。」
「あいつも残念がってたよ。」
「もう来月でしょ? 予定日。」
「正確には来週から臨月。」
「やだー! 緊張するー!」
「なんでおまえが緊張すんだよ。」
「するに決まってるじゃん、」
「ひのでは、本当の妹みたいなものだもん。」
―――――……。
失礼致します。会話の最中で扉がこんこんと鳴り、係りの人間が顔を覗かせた。
「はあい。ごめんなさい、今いきまーす。」
そりゃ母親が忙しいんだから、花嫁当人はそれ以上だろうに。返事をする百香を目にして、僕は今さらで当然な納得をする。
「じゃあ、呼んでくれてありがとな。」
状況を察して、部屋を後にすることにした。
「―――旭っ、」
控え室の境を跨いだ瞬間、呼び止められた。
振り向くと、純白のドレスに包まれた幼馴染が佇んでいる。
「わたし、すっごく綺麗でしょ?」
いたずらに、あどけなく、えくぼを見せる。
どうやら、
僕の選択は、間違っていなかったみたいだ。
「おう。惜しいことしたわ、俺。」
「なにそれー。」
僕はあの頃のまま、この美しい花嫁の門出を、心から祝った。
健やかなるときも 病めるときも
富めるときも 貧しきときも
死が二人を分かつときまで
結婚、か。
ぼんやりと窓を眺めているうちに、流れる景色がまもなく目的地だと報せた。最後にこの辺りを訪れたのは、二十歳だったか。時間が経つのは案外、早い。
生まれてから十七年間、十七歳から二十歳、成人してから今に至るまで……。
色々あったような人生も、過ぎてしまうと昨日のことのようだ。風化じゃない。鮮明として。
十七歳の僕の記憶は鮮度を保ったまま、現在の僕にべったりと貼りついている。
妹への劣等感。母からの依存。幼馴染の疎ましさ。取り繕った平穏。唐突に罅割れた、日常。
昇華したもの、解決したこと、変わった環境に関係。年月と共に過去となったものや事柄は数え切れない。だけど、僕の青春時代はまだ終わってくれない。
だからなのかな。
今日という日が待ち遠しくて、仕方なかったよ。
「もしもし?」
『遅い。』
「いきなりそれかよ。」
『七分の遅刻よ。』
「はいはいすみません。今降りたとこ。どっち口出ればいい?」
『出なくていいわ。』
「は?」
『うしろ。』
たぶん、
終わらない青春の原因は、おまえなんだと思う。
「五分以上待たせるんじゃないわよ、ボンクラ。」
久しぶり、雨宮。
「……うお。髪、無い。」
「語彙、悪化してるじゃないの。」
無くなってしまったトレードマークの三つ編みからの、軽やかなショートボブにまずは突っ込む。もう一つのトレードマーク、眼鏡は健在で安心した。
「え? 化粧してんの?」
「礼儀知らずは相変わらずね、グズ。」
ついでに、口の悪さも御健在のようだ。
「だいたい時間指定したのあんたでしょ。……っていうか、まだ式の途中なんじゃないの?」
無駄に真面目なのも、相変わらずだ。
「いいんだって。顔は出したから。」
「どうしようもない男ね。」
「はは。そう言うなよ、」
どうしようもないかもな。だけど僕には、どうしようもなくないんだ。
今日という日は、今日だけは最優先だから。
「それじゃあ、行くとしますか。」
ちゃんと十年、待ったのだから。
正確には十年と半年だけど。そんな根気強い俺を、今日くらいは認めてください……なんて意味も込めて、調子に乗って手を差し出してみた。
「行きたい所ある? 記念すべき初デート。」
「プランくらい立てておきなさいよ、無能。」
素っ気なく言い捨てられ、無論、手もスルーされ、あの頃と同じように僕だけが笑った。
「浮腫も無いし、体重の増え方も理想的ね。胎児のほうも順調。少し小さく生まれるかもしれないけど、充分範囲内よ。」
エコー写真を見せながら雨宮は説明してくれた。白黒の、扇を逆さにしたような中に、歪な風船みたいなものが見える。これが人間だといわれても正直ぴんとこない。
「言われてもよくわかんねーよな、こういうの。」
冗談めかして率直な感想を言った。
「それ、妊娠中における夫婦喧嘩原因の一発言。」
まじか。これで? 悪気なんて微塵も無かったのだが、なるほど、妊婦ってのはそれほど繊細な生き物なのかと考えを改めた。
「まあ、あの子にはマタニティブルーなんて無縁みたいだけど。」
フォローのような雨宮の発言も、おそらくただの率直な感想だ。
たしかにそうだな。またもや一転した考えと、繊細とは無縁と評された妹に、笑いを漏らす。
「ひのでが母親だもんなあ。」
そしてしみじみと空を仰いだ。
樹齢を重ねた桜の木が、まだ緑を残しつつ枝を広げ秋の空を狭くしている。頬を撫でる風はか弱いのに、頭上の草木は時折騒ぎ揺れる。これだけ樹に囲まれているんだ。風を感じないのも当然だろう。
心地良い秋の日和、僕らは懐かしい区立公園のベンチに座っていた。
念願叶ったデートとはいえ、彼女の仰るとおりグズで無能でボンクラな僕は待ち合わせ後の予定も立てておらず、とりあえず駅を出た。
そしてとりあえず歩いた。腕も組まず手も繋がず、これが三十路前の男女のデートなのか、いやそもそもデートであるのかも怪しいぞと自問自答している内に、南口から程近い緩やかな坂を並んで歩いていた次第だ。
身体が記憶していたのだろうか。彼女とこの坂をのぼるのは、二度目だ。
僕らは相談も決定もなく、二人揃って自然と公園へ向かった。
そして今に至る。
「あの子はあれで、結構しっかりしてるわよ。」
妹について、感慨に耽る僕へ雨宮が言う。
「身内みたいな言い方だな、」
「身内みたいなものでしょ。」
飾らない返事に、雨宮に対しての懐かしさと、妹に対しての羨ましさがせめぎ合う。流れに乗って、もう一つの感慨へと話題を変えた。
「百香も結婚だもんなあ。」
「そうね。」
雨宮はやはりあっさりと返事をする。その素っ気ない反応が十年前の彼女そのもので、僕は降参のような観念のような、音の無い溜め息を溢した。
「百香のやつ、「わたし」、だってさ。」
「桂木じゃないみたいね。」
素っ気なさの中に、柔らかさがにじむ。
「大人になったんだよな、あいつ。」
大いに同意して、頷いた。
控え室で面会した幼馴染は、僕が望んだ桂木百香そのものだった。
名塚月乃を知らない未来を生きて、成長を遂げた百香。
名塚月乃の存在しない人生を歩み、大人になった百香。
僕らが出逢わない世界で、普通の女の幸せを掴んだ、ふつうの女の子。
羨ましいとか悔しいとか、そういうのじゃないのだけれど、どうにも、もやもやした。
「今さら何言ってんのよ。あたしたちが仕立てた結果じゃない。」
今度は素っ気なさの中に棘を生やして、雨宮は睨んできた。
違うんだって。僕は思わず息を深くつく。
後悔も恨み節もない。むしろ万々歳の結果だ。……ただ、思い知らされたんだ。
「俺だけ、高二で留まってるみたいでさ。」
痛感した。過去にしがみ付いたままの、自分を。
負け犬面になっていた顔を両手でばちんと叩く。参った気持ちが抜けきれないまま、へらっと頬をゆるめた。
「なんつーのかなこれ。中二病ならぬ、高二病?」
「何よそれ。」
「今考えた。」
「たわけ。」
これこれ、これだよ。こういうのが嬉しいあたり、まさしく高二病なんだ。
僕がたわけた事をぬかして、雨宮が遠慮なく罵って、僕だけが笑って……
言葉を選ばない、雰囲気を守らない、顔色を窺わない、身を削らなくて済むこの掛け合いが、堪らなく楽しくて、
「……なあ、雨宮、」
彼女が、けっこう好きで。
「この十年間で、なんかあったりした?」
「なんかって何よ、」
いいや。実はかなり好きで。
「恋愛関連。」
十七歳の僕が消えてくれない。
あの罅割れた日常に心臓を浸したまま、まだ彼女を、雨宮糸子を愛している。
軽やかなショートボブに、品を残した薄化粧。一応健在な眼鏡は、少しだけ流行をおさえている。
綺麗になったもんだなあ、下の上さまも。
二十八歳の雨宮糸子は、今日までの間、恋をしたのだろうか。
誰かを好きになったり、恋人ができたり、失恋したり……僕の知らない誰かの前で、知らない雨宮糸子になって、涙を流したり、赤面したり、浮き足立ったり、もしかしたら笑顔をみせたりしたのだろうか。
「あったとしても、あんたにだけは言わない。」
真横で、大真面目な顔がじっとみつめていた。
こっちまで真顔になってしまう。そして口が開いてしまう。もはや間抜け面だ。ぽかんと、半分ほど幽体離脱しかけたあたりで目が覚めて、脳内ではものの数秒で、今のやりとりがリピートする。
そして笑いがこらえられなくなる。また僕だけが吹き出す。
「あんたはどうなのよ、」
一人でツボに嵌っている僕に、雨宮は素っ気なく質問し返した。
「あったとしても、おまえにだけは言わない。」
「そう。」
「えっ。そこは気にしろよ。」
「塵ほども興味ない。」
「興味を持て少しは。関心を持て、俺に。」
「あたしの今一番の関心は、あんたよりあんたの妹。」
「やめろ。普通に傷つく。」
「それと、あんたの姪。」
「……え?」
女の子なんだ、ひのでの子。素で驚く僕に雨宮は、なんで知らないんだと素で呆れた。……そうか、女の子か。姪……か。性別判明により、唐突に自分が伯父になるという実感が沸く。
予定日一ヶ月前にしてようやく、妹の出産という現実を呑み込む。
「旭、」
茫然としていようと、容赦なく脳を鷲掴みにする呼び掛けに、たじろいだ。急に名前で呼ぶなよ、怖えな。雨宮糸子の声で生成される「あさひ」の破壊力には、未だ慣れない。
「だってもう皆口じゃないでしょ。」
そりゃそうですけど。だからって、ほら……もう少しこう、何かを転機にって言いますか、欲を言えば恥じらい的な演出とかあってもいいんじゃないですかね?
思案した言い分を頭に羅列したが、一瞬たりとも逸らさず真面目な顔を向けてくる彼女に圧し負けて、諦めた。
「ひのでは、あたしに任せて。」
何食わぬ顔で、じっとみつめながら雨宮は言う。
こっちの気も知らないで、やさしく言う。
「命にかえても『母子共に健康』を伝えるわ。」
こうやって、彼女は僕を裏切るんだ。どうせならそのうしろに、「それが仕事だし」くらい付け加えてもいいのに、絶対言ってくれない。
「おおげさだな。」
「それだけ命懸けなのよ。出産って。」
優しい音を残す声に耐え切れなくて、わざと背伸びをしながら立ち上がった。見上げた先で枝葉が騒がしく動いている。なのに、やはり風は感じない。
感じるのは気配だけだ。背にしみる雨宮糸子の存在。懐かしいな。少年の僕が後部座席に彼女を乗せて、中古の原付二種を走らせていた日々が蘇る。
消えないな。
いとしい日々が、消えてなくならない。
「……言葉を借りるなら、あたしも充分、その高二病患者だわ。」
振り払おうとしていないだけかもしれないけれど。
ベンチに座ったままの雨宮は僕を見上げていない。品の良い姿勢で、眼鏡越しの睫毛を伏せている。
……あーあ。
デートなんだけどな。
言われたとおり十年、正確にはプラス半年、待ったんだけどなあ。
「雨宮。おまえさ、」
やはり出てきてしまうか。むしろ、出してしまうか。
引き摺り出してしまおうか。彼女の前に。
「星史のこと、好きだった?」
彼を。
視線が重なる。みつめ合うほどに思う。
彼女を愛しているのだと。
地味で、口が悪くて、他人嫌いで、育ちはまあまあ良くて、食事作法だけは完璧で、なぜが洗浄綿を持ち歩いてて、無駄に真面目で、褒められるのが苦手で、素っ気なくて、全然笑ってくれなくて。いつだって、容赦なんて無い。
「そうね。愛していたのかも。」
ほら、さっそく容赦ねーな。
「だって、ほとんど自己愛でしょ、庇護欲なんて。」
そのくせなんだよその顔、
「彼は、あたしよ。出会ったときからずっと。」
せっかくのデートなんだ。そんな、泣きそうな顔すんなよ。
無理して笑おうとすんなよ。
すっげーブスだからな、雨宮糸子至上、最高に。
「それなら、俺も命にかえて任せてもらおうかな。」
雰囲気をぶち壊して顔を覗き込む。不意を衝かれ、真顔で目をまるくする雨宮から、一瞬で哀愁が晴れた。
「当然でしょ。」
それどころか偉そうにふんぞり返る。目を据わらせて、素っ気なく、どこまでも容赦ない。
「光栄に思いなさいよ、」
やっぱり僕は、こんな彼女がけっこう好きだ。
「死ぬまで任させてやるわよ。」
ああ。
僕の青春は、
「死ぬまで? 冗談、」
終わりそうにない。
「死んでも、だ。」
軽薄に笑って、ふざげて手を差し伸べた。
やわらかな体温が、やさしく触れる。
僕の手をとって、立ち上がって、向かい合った雨宮は、
「粋がってんじゃないわよ、クソガキ。」
いたずらに笑って、僕の額を指で弾いた。
健やかなるときも 病めるときも
富めるときも 貧しきときも
死が二人を分かつときまで
命の灯 続く限り ―――――
新幹線を四時間、特急に乗り継ぎ二時間。ようやく最後の改札をぬけた。
東京滞在は三日間だったが、移動だけで半日以上費やすのだから、体感的には一泊ってところか。自宅が駅徒歩圏内なのが救いだ。
正しくは、自宅兼、職場だけど。
生成色の壁に貼り付けた、赤茶煉瓦のタイル。扉と同じ素材の、木製の窓枠。暖簾ではなく看板として掲げられた『せきと』の店名……。
開業して一年経つが常に思う。どう見ても和食中心の料理屋じゃねえよな。
『本店と同じような外観はガチ感あって可愛くない』、
……というのが、あいつの主張だった。
かわいくないって……当然僕は鼻で笑ったが、意に反してそのふざけた主張が採用され、悔しいことに大当たりし、軌道に乗るのは予定より早かった。今では常連と呼べる顔も多く、客層も驚くほど広い。
いや、有り難いんだけど。普通にうまくいってるんだけど……だけど! 個人的には新潟の本店みたいな、昔ながらの味がある舗を目指したかったわけだ。
そんな不毛な思いに毎度毎度、そして遠路遥々帰ってきた今日も胸を絞めつけながら、『CLOSE』の札がぶら下がる扉を引いた。(この札だって本当は『支度中』がよかった。扉だって引戸がよかった……)
「あれー? 意外と早かったじゃん。」
カウンター席で寛ぎながら、星史は出迎えた。
テレビを点け、テーブルにはカフェオレ、手には菓子パンらしき物を持って口をもくもくさせている。
「傷心旅行はいかがでした?」
そして悪い顔を向けてくる。
「過去の女達にふられに行くとかさぁ、ドM過ぎない?」
「知ってるか? 移動って案外疲れるんだよ。」
よって面倒くさいのはスルーします。素通りしてキャリーバックを開く。床がキュッキュと良い感触で鳴った。艶も保っているし、休業中も掃除は欠かさなかったようだ。
「ねー。お土産はー?」
褒めてやりたいところだったが、面倒くささが上回る。星史は隣でしゃがんで僕の手元を覗きこんできた。
「その前に……その手に持ってるのはなんだよ、」
「ねんりんやのバームクーヘン。陽さんから送られてきた。あと、冷蔵庫に五十番の肉まんも入ってるよ。それは仲村の親からね。」
「色々突っ込みたいけど、まずバームクーヘンは筒食いするもんじゃねーから。」
不在の三日間、こいつの食生活がおそろしく不安になった。しばらくは野菜を多めに摂らせよう。といってもきっと冷蔵庫は空だ。仕入れがくるのは明日だし……やはりあとで買い出しにはでないとだな。
「イヨさん元気だった?」
荷物を整理する傍らで、星史は聞いてきた。
「おう。ついに猫飼い始めてた。」
「わ。ついにか。」
洗濯物を分けたり、すぐにしまえる物は片付けたりしながら話し続けた。
「また渋い名前つけてたよ。文和って言ってたかな。」
「賈詡の字かあ。」
思わず手を止めてしまった。
似たような会話を十年前、別の場面で別の相手と交わしたのを、思い出す。
「……そのさ、あざな、って何?」
十年前と同じ質問をする。
「旭くん、少し本読んだほうがいいよ。」
十年前と同じような返答が、違う相手から返ってくる。
とたんに、はあー……と大げさな溜め息をつきながら膝を崩した。しゃがみ込んで頭を抱える。半分悪ふざけで半分本気の、僕らしくない大袈裟なリアクション。
「あ。その様子だと東京で何かあったね?」
あったよ。大有りだよ。むしろ今だよ。
……なんでまた、よりによっておまえが、あいつと同じ台詞を吐くかな。しかもこのタイミングで。
理不尽な偶然が僕を、らしくない方向へ導いていた。
「雨宮……すげー綺麗になってた。」
顔をあげて告げると、星史は星史で、らしくない反応を見せた。
「ふーん。」
冷静なまでの真顔である。先ほどまでの面倒くささはどこに行った。
「いや何か言えよ。「ブスじゃん」とか、「どうせブスでしょ」とか、「ブスだから伸びしろあるだけ」とか、おまえ言うじゃん、いつも。」
「だって言ったら怒るじゃん。」
ぐうの音も出ない正論に続き、「ていうかブス連呼してるのそっちだし」と、畳み掛けてくる。今度は完全本気のリアクションとして、長く深い息をついた。
うなだれる僕の正面で、星史もしゃがみ込む。
「おれさー、きみの激動の十年を一番近くで見てきたつもりだけど、ほんっと変わらないよね、旭くんって。脈無しの女に惚れ続けるとか、気持ち悪い通り越して可哀想だよ、逆に。」
更には死体蹴りですか。辛辣すぎるだろ。ていうか本当よく喋る男だな、こいつ。
うなだれたまま彼の話を聞く。
「いやさ、社会的には成長してると思うよ? 仕事は真面目だし、資格も取ったし、舗決めたときだって面倒な申請とか一通りやってくれたじゃん? おれ絶対無理だもんそういうの。だから充分成長してると思う。」
今度は飴と鞭ですか。
「なのに根本は高二のまんまだ。」
結局鞭じゃねえか。
言いたい放題で遠慮が無いな。言葉は選ばないし、雰囲気も守らないし、顔色だって窺わない。しかも平然と辛辣で、このうえなく面倒くさい。
……まあ、当たり前か。
「一緒にいる分には全然飽きないけどね。」
家族なんてそんなものか。
顔をあげると、透明色の笑顔が真正面にあるもんで、つられて笑ってしまう。
「……俺はいつになったら、クソガキから大人になれるんだろうな。」
参ってるのに笑ってしまう。
「えー。おれやだよ? 旭くんがテレビの政治家やアイドルに文句つけたり、近所の幼稚園建設に反対! みたいな爺さんになるの。」
「大人の基準おかしいだろ。」
辛辣で面倒くさくて、世話ばかり掛けやがる、この、新しい家族との生活は、言葉を選ばない。
雰囲気を守らない。
顔色を窺わない。
身を削らなくてもいい。
出来損ないの、高二のままの僕でいられる。
「いいじゃん。アタマ高二のまま死ぬとか、最高に贅沢。」
「最高に頭沸いてるの間違いだろ、」
「たしかに。」
頭沸いてるよ、まじで。
クソガキ時代の話、本気にして、なまえ捨てて。
「でもおれ、このふざけた人生が、けっこう好きだよ。」
二人で生きて。
「産まれてよかったって、思うよ。最近。」
「やめろよそういうの。」
「おや? 照れてます?」
「……ほら土産。」
「あ、わーい。……ってカフェオレじゃん。いつもの。」
「そ。いつもの。」
「今飲んでるんですが。」
「おう。後でも飲め。」
「ワーイチョーウレシー。」
「だろ。」
「あはー、ひどー。……あ!」
「?」
「忘れてた、」
僕はきっとこれから先の人生で、
この透明色の家族に朱を塗る。
「あのさ、旭くん、」
この世で限りなく近い存在を、染める。
二度と手放さないよう、命にかえて、汚す。
「おかえりなさい。」
死ぬまで、蝕む。
なあ 雨宮
俺の青春も 罅割れた日常も
終わりそうにないよ
「おう。ただいま。」
おまえに任された 最愛を蝕みつくすまで
健やかなるときも 病めるときも
富めるときも 貧しきときも
死が二人を分かつときまで
心眩ます月であれ
透明色の星であれ
朱で蝕む旭であれ
命の灯 続く限り
晴れ間を願い過ぎ去った
雨の祈りを叶えよう ―――――
鍵をかけて舗を出る。外観を眺め、いつものように僕はうなる。
やっぱり和食の店じゃねえよなあ。
いつも言うよね、それ。隣で星史が笑う。
おう。一生言ってやる。たまには、言い返してみる。
一生かあ……
「めんどくさい男、」
「お互いさまだろ。」
二人で歩き出す。
海風が香るこの町での生活も、一年が、経つ。
一ノ瀬旭 28歳 五月十三日生まれ A型
東京都北区出身
出生は愛媛県
父・名塚ひずる、母・陽の長男『名塚旭』として産まれる。
近親者の犯した殺人事件により、出生後まもなく東京に転居。戸籍名を『皆口旭』に改める。
五歳のとき両親が別居。北区に移り住み少年時代を過ごす。
十七歳で高校を中退後、『せきと東京店』に就職。業務の傍ら一ノ瀬依世の下、板前の修業を積む。
二十歳の十月、調理師免許取得。
また同年十一月、成年養子縁組により一ノ瀬依世の養子となる。
戸籍名を『一ノ瀬旭』に改名。
二十七歳の春、暖簾分けで愛媛にて新たな『せきと』を開業。店舗を任される。
一ノ瀬星史 28歳 九月十二日生まれ AB型
東京都北区出身
出生は愛媛県
父・名塚暁、母・月乃の長男として生を受けるが、母が妊娠中に父を刺殺。のちに出産後自殺。生後四ヶ月で養子に出される。
特別養子縁組により、父・仲村君依、母・りたのもと、『仲村星史』として東京で育てられる。
十七歳で高校を中退後、親族である藤代佐喜彦の経営会社で事務雑務のアルバイトを始める。のちに正規雇用となったが、二十六歳で自主退職。旭と共に愛媛県で『せきと』を開業する。
また、二十歳の十一月に成年養子縁組により一ノ瀬依世の養子となる。
戸籍名を『一ノ瀬星史』に、改名。




