40 猛毒
※※※2021/3/21より、本作の大幅改稿版『最愛なる猛毒、致死量の慈愛。』を連載しております。大まかな展開は変わりませんが、【演出】【構成】【台詞】【一話あたりの文字量の改変】等、読みやすさを重視した改稿となっており、また、本作では描かれなかった【糸子と星史のはじまり】を書き下ろしております。読まれる際には改稿版のほうを強くお勧めいたします。※※※
やっぱりチャペルにして正解。白無垢も捨て難かったけど。
決め手はこのフィンガーレスのレースグローブ。実はドレスよりお気に入りだったり……って、ふふ。パパってば腕震えてる。緊張してるのかな。
わたしはきゅうと指に力をこめる。パパの震えが、しずかになる。
扉の先に、バージンロードが広がった。
晴れてよかったあ。ステンドグラスがきれいに映える。
眩しい光のなか、絶え間ない祝福のなか、わたしはパパと歩き出す。
おごそかになんて心の底からなれるものじゃない。花嫁でいてもやっぱりわたしは、わたしのままだったりする。集中、しなきゃ、って頭では思っても、やっぱり嬉しくてそわそわしちゃう。
みんな来てくれた。みんな、懐かしいな。
小学校からのお友達も、中学の先輩も、高校のクラスメイトも、サークルの後輩も、会社のみんなも……嬉しい。
今日の、人生で一番綺麗なわたしを祝福してくれる。
それに、…………
……あれ?
……旭………………どこ?
「……百香、」
パパが小声でささやいた。
気づくと、甲斐くんが手を差し伸べている。
……いけない。ぼーっとしてた……。
わたしは何事もなかったように甲斐くんの手を取り、祭壇前に並ぶ。何事もなかったように式は進行し、讃美歌が流れる。
見落としちゃっただけ……かな?
……うん、そうだよ。だって、きてくれてたもん。さっき、控え室で喋ったもん。
きっとこの、式場のどこかにいるはず。
わたしを、見ていてくれているはず。
「……健やかなるときも、病めるときも、富めるときも、貧しきときも、死が二人を分かつときまで、」
集中しなきゃ。今日のわたしは花嫁。今日から正式に、甲斐くんのお嫁さん。ほら、神父さんが誓約のことばを読んでる。
「命の灯の続く限り、堅く節操を守ることを約束しますか?」
「はい。誓います。」
甲斐くんが答えた。続けてわたしも、答えなきゃ。
「……はい、ちかいます。」
今日からわたしは、このひとの妻。
証を交換しなきゃ。わたしたちの婚姻の、目に見える誓約。結婚指輪。……あ、ふふ。甲斐くんまで手、震えてる。パパとおんなじだ。
指輪をはめたわたしは、同じように彼へ指輪をとおす。
今日からわたしたちは、家族。
このひとはこれから一生、わたしと一緒にいる。
わたしを愛し、守ってくれる。
「それでは、誓いの口づけを。」
ベールがあげられて、わたしの愛する人が見える。
わたしも愛さなきゃ。
守らなきゃ。
一生をかけて、このひとを、
守って、あげなきゃ……
―――――……、
―――― ごめんな、百香、――――
…………っ…、
―――― ありがとう。――――
……あれ……?
なんだっけ……これ……
―――― ゆるして、くれよな。――――
血の……味が、する……
くちづけを終えた、愛する人の顔がみえる。
……あれ? どうしたの? 甲斐くん、
そんな、驚いた顔して……
あれ……?
会場がざわついている。
なに? どうしたの? みんな。
え……
……あれ?
「……え? あれ……? あれ……?」
なんで、
なんで、わたし、
涙が止まらないの。
……だめ……おもいだせない……
「どうして……ももか……あれ……?……もも……か?」
ねえ、どうして、
百香をみてくれないの?
甲斐百香 28歳 四月二十八日生まれ AB型
旧姓 桂木百香
東京都豊島区出身
会社員の父・桂木香輔と専業主婦の母・百絵との間に長女として産まれる。
幼少期より面倒見がよく、友人も多く生活態度も良好。地元の小中学校に通い、穏やかな少女時代を過ごす。
都内の私立高校を卒業後、都内女子大に進学。大学卒業後は一般企業の受付事務に就職。
職場恋愛を経て三歳年上の同僚と結婚。
今夜は父が揃って家を空けるというのに、こんなに晩くなってしまうとは、迂闊だった。
帰りに、雑貨屋なんて寄ったりするから。
別に会話が弾んだわけじゃないし、別れを惜しんだつもりもない。やっぱり、ただの迂闊だったのだ。あの男は関係ない。原因は寄り道、雑貨屋だ。
あたしらしくない、衝動買いなんてするから。
駆け足で帰宅しリビングへ直行する。
「ただいま。」
ひのでは絨毯の真ん中辺りで横たわって、テレビを観ていた。
しかし様子がおかしい。意識はあるけれど、身体だけ一時停止しているような違和感のある体勢。表情も固い。
大方を察して、彼女の足元でしゃがみ込む。
「……脚、つった……」
やっぱり。
「最近……寝起き、いつもだ……。」
「まあ、妊婦あるあるよね。」
あたしはひのでの足裏を手のひらでぐっと圧した。妊娠後期は何かと身体が忙しない。
痛みが治まるとひのでは、絨毯へ放るように足を伸ばした。手足だけでなく、彼女は全体的に細いから、三十五週を迎えた胎がやけに目立つ。
「遅くなって悪かったわ。」
短時間とはいえ、来週には臨月の彼女を一人放置してしまったのが、職業柄うしろめたくなった。
「さっきまで八重さんがいてくれたから。」
ひのでは首を振って、父が夕飯の用意をして行ってくれたと、キッチンを指した。
「糸子、今日の香水って、」
続けて、あたしにも指をさす。
しまった。今は嗅覚が過敏になっているんだった。
「ごめん、きつい?」
「いや、そうじゃなくて。いつものと違うなって思ったから。」
もう一度首を振る彼女に、原因不明のむず痒さが生じる。
「あんたって、兄貴よりずっと男前ね。」
「え、」
「あたしが香水つけてることさえ気づかなかったわ、あの男。」
言わなかっただけかもしれないけど。渇いた笑いを当て所もなく落として、洗面所へ向かった。
産前産後の彼女を雨宮家に置く理由。そんなもの、細かい事を挙げればきりがないけれど、これといった決定打もまた、ない。
彼女の母……庭木陽には、既に新しい家庭があること。そもそも戸籍上の親は、父の皆口ひずるだけであること。皆口の実家に若手は不在だってこと。よって縁戚からの助力は望めないこと。父一人娘一人家庭での産後生活は、あまりに無謀なこと。
たまたま、あたしたちがルームシェアをしていたこと。
そこに更に付け足すのなら、なぜかうちの父達がやたら乗り気であったり、あたしの職業だったり父の職業だったり、なぜかひのでと父達の馬が妙に合っていたり……
つまりきりがないどころか、成るべくして成った状況なのだ。
顔を洗って部屋着に着替える。鞄をしまう際に、本日持ち歩いていたエコー写真を取り出した。
早くこの子に会いたい。素直にあたしは思う。
もしかしたら、母親以上に想っているかもしれない、と、不安になるほどに。
だから、今日のあいつの発言には少々むっとしてしまった。男なら、ましてや独身ならば仕方がないと、理解はしていようとも。
「写真、ありがと。」
リビングに戻ってすぐエコー写真を返した。ひのでは「急がなくてもいいのに」と言いつつも、受け取るなりじっと写真をみつめた。そんな彼女を、あたしはみつめる。
「「よくわからない」、ですって。」
「……え?」
「あんたの兄貴の、その子に対する感想。」
お門違いだと重々承知で、あいつの腑に落ちない発言について愚痴った。ひのでは一瞬だけ真顔を向け、またエコー写真に視線を戻す。
「男だし……しかも独身なら、それがふつう、じゃないかな。」
そしておもむろに言った。あいつを擁護するでもなく、あくまで一意見のように淡々と。本当はあたしも理解しているのと同じ思いを口にする。
それ、母親が言う? あたしは小さく吹き出した。
「……ごめん。」
「なんで謝るのよ。」
「なんとなく。」
なんだかすっきりして、彼女と同じように絨毯へ足を伸ばす。
「あんたは会わなくてよかったの?」
今度はあたしがおもむろに言った。
「何が、」
「兄貴。せっかく東京来たのに。」
「……。どうせ産まれたら来るだろうし。」
確かにそれもそうか。納得と同時に、今日のあいつについてまた思い出す。
「そういえばあいつ、出産祝い何贈ろうって意気込んでたわよ。」
「……。……あいつ、センス無いからな……。」
大方察するわ。もう一度、小さく吹き出してしまった。
あたしからは何を贈ろうかな。兄に期待できないならせめて、あたしくらいこの子の期待に沿えるものを贈りたい。しかし彼女の物欲は思った以上に難しい。たいてい聞いても、「特にない」か「別にいい」なのだ。
だけどこっちも引き下がれない。後にも先にも、贈り物を渡す相手なんて、いないだろうから。
「あたしからは何がいいかしら? 出産祝い。」
だから今日もまた、手応えがないとわかっていても聞く。
ひのでは珍しく悩んだ。
「特にない」も、「別にいい」も言わず、少々の沈黙を漂わせたのち、
「ボールペン。」
ぽつりと言った。
「糸子がずっと持ってる、あの白銀のボールペンが欲しい。」
表情が出る間も待たずして、ひのでは続けた。あたしは暫しきょとんとしたあと、少し呆れて「変な子。」と溜め息まじりの笑いをこぼした。
「いいわよ。お祝いとは関係なしに、あげる。」
彼女は相変わらず読めない。そういう意味では充分、あいつの妹だ。
「……でも、交換条件。」
あたしもひとのこと、言えないけれど。
「交換条件?」
「ええ。ひので、頼まれてくれるかしら?」
言うなり、あたしは雑貨屋で衝動買いした、包みをひらいた。
がちゃん
狭く集中した圧迫感がほんの一瞬のみで、痛みはほとんど感じなかった。ただ、やはり耳という位置での行為のせいか、突き刺す瞬間の音には正直、身構えた。
あとは単純に違和感。左の耳朶に乗る微かな重みと、じんわり帯びてくる熱。
「できたよ。」
ピアスホールの開通を、ひのでは淡々と報告する。
「ありがと。」
あたしも大きな反応はせず、感謝だけ伝える。
「七生さん、卒倒するんじゃないかな。八重さんは笑いそうだけど。」
父達それぞれの反応を、ひのでは的確に言い当てた。
「三十路前の娘に対しては、妥当な反応だと思うわ。」
大いに同意しながら、『交換条件』の品であるボールペンを彼女に渡した。
高二の夏から十年以上、詰め替えては使い続けている白銀のボールペン。
ひのでは受け取ると、まるで抱きしめるみたいに、きゅうと両手で握った。
「どうして、急にピアスなんて、」
そして唐突に聞いてきた。
「気の迷い。」
あたしは即答する。
ひのでは「え?」と聞き返す。
「冗談。」
「……らしくない。」
拗ねるようにそっぽを向くひのでの耳には、あたしのピアスホールなんかとは比べ物にならない数の、点状の傷がみえた。
正確には傷痕だ。かつて彼女を飾った数多くのピアスホールが、ほぼ鎖されている。
唯一、左耳朶のひとつだけを除いて。
「ここだけ、残しているのよね。」
たった一つだけ、樹脂ピアスが刺しっ放しの左耳に、あたしは意地悪く触れた。
「これだけは塞がない。」
ひのでは無抵抗に、触られながら答える。
「最初に……あけたピアス、だから。」
まっすぐ見据えてくる彼女に、思わず手を離した。
「……ねえ、ひので、」
やっぱり兄妹だ、よく似ている。あたしを見る顔つきが、おんなじ。
……だから、なのかもしれない。
「そろそろ、あたしにだけは教えてくれない?」
これも気の迷いなのか。
あの男と同じ瞳へ見据え返しながら、あたしは口を開いた。
「胎の子の父親。」
みつめるほどに錯覚する。
この、うつくしい、皆口ひのでという女に。
ひのでは、読めない表情をあたしに向けながら、やがて静かに唇を動かした。
「モモカ。」
「………。」
「……冗談。」
張り詰めていた空気がとけ、あたしもひのでも、いつもの二人に戻る。
「冗談が面白くないのは、兄ゆずりのようね。」
素っ気なく言い捨ててやると、そんな態度には不相応に、ひのでは小さく笑った。
「何がおかしいのよ、」
じゃっかんむきになって、聞く。
「糸子、さっきから旭の話ばかり。」
「……。」
「ねえ、糸子、」
……ああ。
本当に、あの男は、
「旭のこと、愛してた?」
消えてなくならない。
あたしは微かに笑う。もうむきになるのはおしまい。余裕を見せて、ひのでに向けてお姉さんぶって、笑う。
「あんたたちって本当に兄妹だわ。」
ひのでが不思議そうに小首を傾げる。素直な分、この子のほうがかえって読めない所も多いけれど、あいつよりずっと可愛げがある。
だからあたしも晒す。
「あいつは毒よ。今も昔も。」
この子にだけは、出来る限りの本音を。
消えない。消えてくれないの、あの男は。
「もう十年よ。全然抜けきれてくれないわ。」
きっとこれから先の人生、
ずっとあたしのなかに居続ける。
ずっとあの人と生きて、
永遠にあたしの願いを叶える。
そのくらい当然でしょ。じゃなきゃ割に合わないわ。
旭、
あたしの 猛毒
「――――糸子、」
呼び掛けに視線を戻すと、正面で座るひのでが大きな胎を撫でている。
「けってる。」
慈しみのなかに残る少女の顔に、胸が高鳴る。
同時に、手の甲に薄っすらと残る古傷に、胸がしめつけられる。
彼らを、守ってくれた、痕。
胎を撫でるその手に、あたしは手を重ねた。
「……楽しみね。」
その瞬間、胎動が返事のように二人の手へ伝わり、あたしたちは顔を見合わせて吹きだした。
笑顔の延長で、ひのでは目をほそめた。
「私、この子に、……りぼんの付いたドレス、着させたい。」
どこか遠慮がちに言う。
「大きくなったら、一緒に目一杯おしゃれして……おでかけしたい。一緒にケーキ食べたり、恋愛相談や内緒話だって……したい。」
おずおずと連ねる言葉と一緒に、視線が泳ぐ。
「せっかく、女の子……産むんだから。」
「そうね。できるわよ。」
肯定すると、ひのでは視線を留め目を丸くした。
唇が、かすかに震えている。でも、また笑う。
「そのときには、……あなたにも一緒にいてほしい。」
なにそれ。あたしも笑う。
「ええ。楽しみ。」
でも大変よ。
まずは出産。人生一番の大仕事が控えてるわ。しかもそれで終わりじゃないんだから。四時間おきの授乳、夜泣きに寝かしつけ。眠れない日々の始まりよ。
まあ、やる気だけは満々の子育て経験が怪しい男二人ならいるから、好きなだけ扱き使ってちょうだい。あたしもおむつくらい替えるし、哺乳瓶くらい、洗うから。
あたしは散々お姉さんぶって、彼女の大きな胎を撫でた。
「……早くこの子に会いたい。」
素直にあたしは思う。
それはもう悔しいことに、こんなにも待ち遠しくて、
狂おしいほどに、愛おしい。
雨宮糸子 28歳 八月一日生まれ O型
東京都渋谷区出身
実親は年の差夫婦。出生後すぐに実父を亡くした影響もあり、実母は産後鬱の末育児放棄。
異母兄である雨宮七生と、彼のパートナー・八重伊織、二人の『父』のもとで育てられる。
退学後、高卒資格を取得し看護大学に進学。
看護師資格と助産師資格を、4年次同年度に取得。
卒業後、異母兄が院長を務める産婦人科に就職。
早くこの子に会いたい。
蠢く胎を撫でながら糸子は言った。
私はそれが、うれしい。
胎動が静まると、糸子は夕飯の支度をすると言って立ち上がった。
手伝う、と、同じく立ち上がろうとしたところ、いいから休んでなさい、と言いつけられまた絨毯に座り込む。結局糸子は一人でキッチンへ向かってしまった。
食器の音を背に、ベランダの窓硝子に映る自分を眺める。
臨月を控えた大きな胎。
硝子に映っているのは、私じゃないようで、紛れもなく私。
そして映っているのは、私だけじゃ、ない。
若者を騙すのは簡単だった。
素性を隠して近づくのも、交際関係に持ち込むのも、何事も無かったかのように音信不通にするのも。
悪い子ではなかった。底抜けな明るさとか物怖じしない距離感とか、今時の若者を地で行っているような子だったけれど、性根の真面目さは明白だったし。
だから、結果的に弄んでしまったことに罪悪感が無いと言ったら、嘘になる。
だけど目的を果たすためには、手段など選んでいられなかった。
胎の子はいともたやすく手に入った。
この子には、この、胎の子には、
モモカの血が流れている。
どうしても欲しかった。
彼女と同じ血、同じ肉、同じ骨……たとえ僅かな、微量なものだとしても、私の愛する人の遺伝子を持った存在が、欲しかった。
『おにいちゃん。おねがいが、あるんだ。』
少女の私が兄に懇願した、たった一つの望み。
『モモカちゃんと、……家族に、なってほしい。』
なぜ兄にそれを願ったのか。答えは、兄に告げたとおり、私が彼女の家族になりたかったから。
そして、もうひとつ、
モモカに、兄との子を産んでほしかったからだ。
私とモモカ、二人の遺伝子を持った、二人の血が混じる存在が欲しかった。
女の私にモモカとの子を作るのは不可能だ。だから兄は、私の唯一の希望だった。
この世で限りなく私に近い存在。
血も肉も骨も、すべて同じ材料から出来ている、性別だけが違う兄。
……彼女を愛した日から、何度悔んだだろう。
私がおまえだったらよかったのに
旭。
おまえが憎たらしくて妬ましくて羨ましくて、愛しくて仕方なかった。
絶え間ない劣等感と一条の光。殺意と紙一重の最愛。
幼稚な私に、その愛憎を受け容れるのは難しく、理解なんてできるはずなかった。おまえとの差を思い知るたび、正体不明の激情に襲われた。そして傲慢におまえを踏み躙り、暴虐に走った。
どうやっておまえの妹でいればいいのか解らなかった。
でも今なら、少しだけわかる。
……ああ、動いた。胎動を感じながら、私は胎を撫でて思う。
受け容れなくて、理解なんてしなくてよかったんだ。
私は私のまま兄の妹として、幼稚な頭で傲慢に考え、激情の赴くまま暴虐を振舞えば、よかったんだ。
あの日、兄は言った。
『俺は、なんにもしてないよ。』
十年、私は考えた。
この子を宿し、ようやく気づいた。
兄は何もしていない。生きていただけだ。
生きているだけで毒だったんだ。
言い訳も、言い分も、信念も、理由も、葛藤も、選択も、兄なりにあったのだろう。しかし、そんなもの無意味だ。
生きていただけ。
存在していただけで、私たちの日常に罅を入れた。
モモカを狂わせたのは名塚月乃なんかじゃない。
糸子の祈りの底にいるのは仲村星史なんかじゃない。
私がこの子を慈しむ理由は……桂木百香だけじゃない。
遺伝子による風評被害、及び直接的被害を、私は日々こうむっている。
これはどのメディアも取り上げてくれない、実に深刻な現状だ。
私には二人の愛する女がいる。
ひとりは、母性に飢えた幼い私に、母以上の愛を注いでくれたひと。
もうひとりは、これから先の人生で、共に母となってくれるひと。
二人とも、私と同じ遺伝子の男に巣食われている。
この世で限りなく私に近い存在に、蝕まれている。
彼女たちは、私のなかに兄を見ている。
……それでいい。
きっと私も、彼女たちごと兄を愛しているから。
……ごめんね
胎に向けて告げる。
胎から出てきたら、外で逢えたら、ちゃんとあなたを一番にするから。
一番に、最優先に愛するから。
きっと、そうなってくれる、はず……だから。
………。
窓硝子のなかの私がボールペンを握っている。
ためらいの無い腕が、その白銀の鋭利な先端を、喉に突きたてた。
……そんなわけ
そんなわけあってたまるものか
私は
あんな女になんてならない
「ひので、食事にしましょう。」
呼びかけられて腕をおろした。硝子から目を逸らす。
振り向くと、食卓が彩り良く配膳されている。八重さんのご飯は好きだ。最近は私の身体を考えるあまり、栄養バランス重視になり過ぎだけど……
「そろそろジャンクな物が恋しいんじゃない?」
心を読むかのように糸子が言う。
「うん。マックのポテト食べたい。」
「妊婦あるあるね。」
あけすけに笑う糸子を前に、私は兄へ、ざまあみろと、ほんの少しだけ勝ち誇りながら席についた。
皆口ひので 26歳 三月二十一日生まれ B型
東京都北区出身
父・皆口ひずる、母・陽の長女として産まれる。第二子であり、兄は皆口旭。
幼少期より勉学と運動、両面において優秀な生徒であったが、対人関係における好き嫌いが激しく、またその目立つ存在から喧嘩や暴力沙汰が尽きない学生生活を送る。
立て続く暴力問題により十五歳で高校を退学。
十六歳でかねてより常連兼サロンモデルとして親交のあった美容室にて、アシスタントとして就職。
翌年、ネイリストの資格を取得。
二十二歳の秋、友人・雨宮糸子と同居を始める。
現在、第一子を妊娠中。
妊娠を機に雨宮糸子の提案によりマンションを引き払い、彼女の実家に移り住む。
来月、出産予定。
長い間、お読みいただきありがとうございました。
後ほど、活動報告にて今一度感謝の言葉を申し上げたいと思います。
どうぞいらしてください。(2019/9/7)
※追記:2019/10/18より本作の続編となる『アメカレ』連載開始しました。
本作の登場人物がメインではありませんが、ご興味をお持ち頂けましたらどうぞご覧下さいませ。




