11 侵蝕
※※※2021/3/21より、本作の大幅改稿版『最愛なる猛毒、致死量の慈愛。』を連載しております。大まかな展開は変わりませんが、【演出】【構成】【台詞】【一話あたりの文字量の改変】等、読みやすさを重視した改稿となっており、また、本作では描かれなかった【糸子と星史のはじまり】を書き下ろしております。読まれる際には改稿版のほうを強くお勧めいたします。※※※
夏服が目に馴染まない。衣替えしたてはいつもそうだ。
朝一番に遭遇する制服姿がひのでなのも、きつい。腰に巻いたカーディガンより短いスカート、釦を外した胸元から覗くペンダント、シャツに透ける濃い色のブラジャー。冬服よりも割増な女くささに、目を背けたくなりながらも正面に座った。キッチンでは母さんが、鼻歌まじりで水仕事をしている。
「旭、」
トーストを半分くらい食べたところで、ひのでが声をかけてきた。
「アメミヤイトコってどんな女、」
齧ったまま少し止まった。
え、なんで? 冷静を装いつつ聞き返すと、ひのでは続けて、「同じクラスだろ、」と聞いてきた。まあ、そうだけど。僕はそのまま答える。
「どんな女、」どんなって、まあ、頭が良い。「顔は?」へ? 「可愛い?」いや、別に。「じゃあブス?」そうでもないけど。「どっちかって言ったら?」ど、どっちかって……
質問どうこうより、珍しく口数の多い妹にたじろいだ。
「私とどっちが可愛い?」
しまいには、真剣にこんなことを聞いてくる。
何言ってんだこいつ。あ然と口を開けていると、母さんが近づいてきた。
「なになに? 朝から仲良しさんねえ。」
にこにこしながら、弁当包みを二つ手にしている。黄色いほうを僕に、水色のほうをひのでに渡して、「何の話?」と輪に入ってきた。
「旭のクラスの女の話。」
ひのでが簡素すぎる説明をする。
「えっ、彼女?」
母さんはおおげさに両手を口元にあてる。違うよ。なんでそうなるかな。
「別に、たいして仲良くないし。」
話を切り上げて席を立つ。もういいの? うん。今日と明日小テストだから、もう出る。大変ね、頑張ってね。お母さん、応援しちゃうから。会話をしながら、母さんは玄関まで見送ってくれた。
母さんは最近、機嫌がいい。
理由は二つ。ひのでが弁当を頼むようになったことと、僕の中間試験の好結果の件。ついでに、僕とひのでがまあまあ喋るようになったのも、たぶん理由。
ひのでは最近、棘が無い。
殴りかかってこないし、他校生と諍いも起こさないし、少しばかりとっつき易くもなってきたし。きっと、僕と百香の関係が安定しているからだと思う。それはともかく、妹が問題を起こさないだけで、我が家はこんなにも平和になるのか。想像以上だったひのでの存在を、痛感した。
「おはよ、旭、」
校門をくぐったあたりで、百香が声をかけてきた。おう、と返してすぐ、別のクラスメイトも続けさまに、「皆口くんおはよー」と挨拶してくる。二人、三人、四人くらい「おはよう」を返し合った。
教室までの道のり。ここでまた挨拶が増える。廊下で待ち構えるのは、他クラスの生徒たちだ。目が合うなり、おはよう、おはよ、おっす、人それぞれな声を浴びせる。
「最近友達増えたよねー、」
感心しながら言う百香も教室に入るなり、目の合う女友達に片っ端から挨拶を返し合った。
そして最近は、決まって最後、彼女でしめる。
「おはよ、糸子ちゃん。」
席まで駆け寄ってきた百香に、彼女は口角をほんのり上げた。
「おはよ、桂木。」
とかれた長い黒髪。眼鏡を消した薄化粧。気さくな態度、艶やかな笑顔。目に馴染まないのは、夏服だけのせいじゃない。
百香と親しげに談笑する、雨宮糸子に近づけないまま、僕は自分の席で予習を始めた。
日常が、狂う。
ことさらに整ってしまった僕の世界は、罅じゃ済まされない域に陥っていた。
穏当な家族。申し分ない成績。消えてしまった孤立者の烙印。学友たちからの羨望、評価、友好。別人のように磨かれてゆく、もう一人の元・孤立者。
すべての根源は、彼だ。
「皆口くん、」
今日も仲村は特進クラスにやってくる。午前の授業が終わればすぐに、僕を昼へと誘う。僕は財布とスマホと弁当包み、お決まりの三つを持って席を立った。
売店寄っていい? 「いいよ。なに買うの、」飲み物忘れた。「俺、余分にあるよ。」いらねーよ。どうせカフェオレだろ。「ご名答。」あんなのでよくメシ食えるな。「余裕余裕。お寿司でも平気。」きもちわる。
馴れ合いの会話を繰り広げながら、教室を出た。
仲村の『お願い』は、人身売買だった。
人聞き悪いなあ。仲村ならきっとそう言うだろうけど、僕からすれば立派な人身売買だ。
「来月の第三金曜、俺んちに来てよ。」
選択の末、『お願い』を選ぶと、彼はそう命じてきた。いちいち日取りを指定するあたり、嫌な予感しかしない。訝しく頷いて了承した。
「やだなあ、警戒しないでよ。変なことはしないからさ。」
笑い飛ばす仲村を、信用できるはずがない。でも、このときは雨宮の身には代えられないことが、優先していた。
「それと、もう一つ。」
仲村は澄まして、人差し指を唇におく。
「そいつとの時間を全部、俺にあててほしい。」
雨宮を指して、『お願い』を追加した。何を言っているのかすぐには理解できず、困惑したまま固まった。
「思った以上にクソブスが近づきやがって、ぶっちゃけ気に食わないんだよね。だから今度からは、俺と昼休みを過ごしてよ。誰よりもきみを優先しちゃうからさ。」
はにかんで頬をかく。そして僕の返答を聞くよりも先に、雨宮を睨みつけた。
「二度としゃしゃり出んなよ。」
辛辣に釘を刺され、雨宮はもう一度、額を床にこすりあてた。跪いて従順に告げる。
「承知致しました。セージさま。」
僕なんか、いっさい見ていなかった。
アメミヤイトコってどんな女? 今朝の妹の質問に、僕は即答することができなかった。
少し前までなら、きっと簡単だった。
「地味で目立たない奴」「意外と口が悪い奴」「からかうと面白い奴」「一緒に居て楽な奴」……尽きない説明が、いくらでもできた。だけど、もうできそうにない。
僕と仲村の契約が成立して以降、雨宮は変わった。
三つ編みをといて長い髪をなびかせ、眼鏡を外して薄化粧を施し、あれだけ逃げ回っていた百香にも、友好的に接するようになった。そして、映写室に現れなくなった。今では教室で、百香と弁当を広げている。
百香と親しくなることで、自然と、他の女子生徒とも言葉を交わすようにもなった(ハブられる覚悟でいた百香にとっては誤算だったのだろう)。相変わらずクラスでは「おとなしい」立ち位置だが、話しかければ気さくに対応する意外性もあり、更には垢抜けた様変わりもあってか、最近では『孤立者』から『優等生』として見直され始めてきた。
僕の知る雨宮糸子はもういない。
地味だけど小奇麗にまとめた容姿も、豊富な悪口も、からかったときの反応も、いつもの掛け合いも、映写室での時間も。
「今、何考えてるか当ててあげよっか、」
仲村に覗き込まれて我に返った。
彼は今日もまた飽きもせず、大きなカフェオレにストローを刺して咥えている。
「心此処にあらず。元気ないじゃん。」
やらしい笑顔で探りを入れてきた。
「五限、数学だからさ。鬱になってた。」
僕は視線をごまかした。
「んー。ま、見逃してあげる。」
仲村はパックを置いて背伸びをした。満ち足りた溜め息をもらす。
「今週末、楽しみだね。」
六月ももう半ば。僕らの関係も、変わり始めた。
当初は人身売買とみなしていて、僕は昼休みの一時間、たっぷり警戒しっぱなしだった。
絶対こっちからは口を開かないし、極力視線も合わせないし、話しかけられてもそうとう冷たくあしらっていたと思う。
それなのに、仲村は常に笑っていた。いつもどおり人懐こく、馴れ馴れしく。
暴虐の影を微塵もみせず、雨宮を盾に脅してもこない。昨夜のテレビの感想、よく聴く音楽、贔屓にしているチーム、発売日を控えたゲーム、そんなたわいのない話ばかり振っては、たとえ僕がどんな反応をみせようと、楽しそうにしていた。
徐々に、うしろめたさみたいなものを感じ始めた。ちゃんと会話をしない自分に、嫌気がさし始めた。
だからまずは、形だけでも返事をしようと試みた。「ああ」とか「まあ」とか頷くだけじゃなくて、ちゃんと内容に添って、話に触れて、彼の言葉を引用したりしてみた。
すると仲村は、こっちが恥ずかしくなるくらい嬉しそうな顔をみせた。
もっともっと話を膨らませてくる。広げてくる。褒められた子供みたいに、はしゃいで、どこまでも会話を繋げた。
不覚にも、疎ましくなれなくなっていた。それどころか正直楽だった。
僕のどんな態度にも、本音にも、順応する会話が。ありのままを受けとめる、仲村星史という器が。
次第に警戒も薄れ、僕の態度や反応には人間味が帯び始めた。
それでもなお、『友だち』になることだけは拒んだ。雨宮にした仕打ちは忘れない。僕から奪った時間を、狂わされた日常を赦すことはできない。
薄れた敵意と譲れない信念を携えて、僕は彼と名前の無い関係を保ったまま、馴れ合い、笑い、親しんだ。
『帰りは十時ごろになります。夕飯、先に食べててね。』
終礼が済んだころ、母さんからメッセージが届いた。やっぱり年甲斐もなく、若い絵文字を駆使している。彼女の使った分と、同等の絵文字で返信しなければならないのが、親子間のきまりだ。
文面に悩みながら下駄箱で立ち止まっていると、身に覚えのある香りが漂ってきた。
ひのでが愛用している香水だ。
反射的に振り向いて、思わず息を飲んだ。
「あ、」
雨宮がいた。
まさかと周囲を見渡したけど、他に生徒はいない。信じられないが、香りの所在は彼女だ。
「今、帰り?」
色々と混乱して、どうでもいい声をかけた。雨宮は首を一回だけ縦に振る。
「たまには乗ってく?」
鍵をちらつかせると、今度は首を横に振った。
長い髪が一緒に揺れて、また香りが漂った。久しぶりの対面に、ついつい凝視してしまう。睫毛が以前より長い。唇も薄ピンクに艶めいている。そして鞄には、見覚えのあるウサギのストラップがぶら下がっていた。
「それ、百香とおんなじ、」
言いかけたところで、雨宮は密着すれすれに接近してきた。視線を合わせず僕の手に、隠すように何かを握らせる。紙みたいだ。
「……明日の分の小テスト答案です。今朝の分は間に合わなくて、申し訳ありません。」
離れる間際に彼女は囁いた。
呼吸が止まった。
油断すると意識が飛んでしまいそうなくらい、わけがわからない。
なんだよ、これ。頼んでねえぞこんなの。
ていうか、なんだよ、その喋りかた。言いたいことも聞きたいことも止め処ないのに、口が動かない。
「糸子ちゃんおまたせー。あれ? 旭も一緒?」
揃って立ち尽くしていると、百香が走り寄ってきた。咄嗟に紙を隠す。
「百香たちねー、これからデートなんだよー。お洋服みにいくのー。」
空気も読まず雨宮の腕にしがみつく。雨宮は「はしゃぎすぎ。」と指摘しながらも、まんざらじゃない笑顔を浮かべた。
「そうだ、みてみて。旭がくれたウサギ、色違いみつけたから糸子ちゃんにプレゼントしたんだよ。オソロなの。」
百香は嬉しそうに、雨宮の鞄で揺れているウサギをつついた。
目の前が停止した。ほんの数秒、でも、僕のなかではずいぶん長く。
停止した世界で選んだ。
今、一番正しい発言を。もっとも相応しい表情を。作らなくては、窺わなくては。
「なんだよ、見せ付けやがって。」
二人のようすを、笑い飛ばしてからかった。
「うらやましいでしょー。」
百香はまた、はしゃいで笑う。雨宮も「もう。」なんて笑う。
この場の雰囲気が守られる。
上手に生きれるんだな、俺たち。遠ざかっていく背中にうったえて、再び母さんへの返信に悩みはじめた。
あんなふうに笑うのか。
髪を洗うさなか、雨宮の顔が浮かんだ。掃うように、乱暴に泡立てると、頭皮がひりひりした。シャワーをぬるめに濯ぐ。両手で顔面をぬぐって鏡を見た。
僕がいる。十七歳、高校二年生、それ以上説明しようのない、僕。
無駄に考えてばかりいるな、こいつ。知識も経験も足りないくせに、一丁前に。……ああ、足りないから考えるのか。面倒くさい生き物には変わりないか。品定めもそこそこに風呂を出た。
着替えてタオルを被ったままキッチンに向かうと、リビングではひのでがテレビを観ていた。ソファで膝を抱えている。流し台には茶碗や箸が水に浸かっていた。
「夕飯、食ったの、」
声を掛けると、小さく頷いた。
冷蔵庫にサラダとハンバーグ、鍋には豆のトマト煮を確認して、夕飯の支度を始めた。ハンバーグをレンジにかけている間に、食器や飲み物を出す。テレビからの賑やかな音を聴きながら食べ始めた。
「私、モモカが好き。」
唐突に、ひのでの声がテレビと混じる。不意をつかれて、ハンバーグの溶けたチーズに油断した。水を含んで舌を冷やしつつ、ひのでのほうを見た。膝を抱えたまま、テレビと向かい合っている。
こっちに話しかけてるんだよな? 箸を止めて窺った。
「世界でいちばん好き。」
……うん、まあ、知ってる。生返事をして食事を再開した。
二人して、またしばらく黙った。
妹は、長い茶髪を無造作にくくっていた。根元には何本か、細い束が編み込まれている。エクステってやつか。髪洗うの大変そうだな。足先には、手とは異なる柄のペディキュアが施されている。あの、プリントみたいな模様、どうやってんだろ。
女子高生という手間のかかる生き物を観察しているうちに、どことなく、不機嫌になっている妹に気づいた。
「ブスだった。アメミヤイトコ。」
案の定、拗ねた言いぐさでひのでは呟いた。
「化粧も下手だし、ださい女。私のほうが断然可愛い。」
むくれながら毒づく。
「はあ。」
僕はあたり障りない相槌をした。
内心、また雨宮か。とか、なんで雨宮? とか、彼女の謎の対抗意識に首を傾げたりもしていたけれど、表情には出さなかった。
「なんで、あんなのがいいんだろ。」
ぎょっとして箸を止めた。
「え、俺に言ってる?」
そこで初めて、ひのでがこっちを向いた。は? と怪訝に眉をしかめる。
あー、いや、なんでもない。続けて続けて。苦笑いで愚痴を促した。
「モモカが、最近あいつとばっかり遊んでる。」
ひのでは遠慮なく不満を口にした。「最近いっつも一緒にいる。」「二人で買い物なんかも行く。」「勉強も教えてもらってるみたい。」「私と遊ぶ時間、すごく減った。」「私がモモカにあげた香水、つけてた。」「むかつく、アメミヤイトコ。」「ブスのくせに。」
恥ずかしげもなく連発する嫉妬の数々に、僕はようやく事態を把握した。
わが妹ながら、案外面倒くさい奴だな。
「それとなく言っておこうか? おまえとも遊んでくれって、」
「だめ。」
兄として(しかも珍しく。)粋な計らいをしたつもりだったのに、まさかの即答である。今度は僕が「はあ?」と眉をしかめた。
「モモカ、楽しそうだから。アメミヤイトコと一緒だと、いっぱい笑うから。」
投げやりにソファに寝転ぶ。髪を束ねていたシュシュを床に捨てて、爪をいじりだした。
「むかつくけど、モモカちゃんが喜ぶほうが、いい。」
器用に描かれたネイルの表面を撫でる。不規則に、いろんな指をいろんな指で。しだいに動きが鈍くなってきて、やがて寝息をたて始めた。
僕は音をたてないように食器をさげて、テレビを消した。乾燥機からタオルケットを引っ張り出してきて、妹にかける。僕より背が高いくせに、長い手足はソファからはみ出ることなく、すっぽり納まっていた。心地よさそうに寝ていやがる。
やっぱり妹は難しいと、あらためて思う。
僕は暴力が嫌いだ。
というより苦手。
振るわれるのも振るうのも、他人に怪我をさせるのも、怖い。他人同士の殴り合いも、フィクションの映画でさえ、まともに見れない。吐き気がするんだ。仲村への嫌悪も雨宮への執着も、すべてはそこからだった。
こんな僕にした原因がこいつだ。ひのでだ。
年子の、妹。同じ父と母、同じ材料で産まれた、この世で限りなく僕に近い存在。
睦まじくもない。かわいいだなんて思えない。全てにおいて勝れない。暴力的で幼稚、激情家で傲慢。この十五年間、何度殴られ何回蹴られたかなんて、数え切れない。
だけど妹なんだ、僕には。たったひとりの、きょうだい。
残念ながらどうにも最近、ゆとりが生まれてしまった。わが妹ながら面倒くさい。
予定より三十分以上も晩く、母さんは帰ってきた。このくらいの時間帯になると「ただいま」は言わず、自分で鍵を開けて入ってくる。
「あら、起きてたの。」
まずはテーブルの僕に声を掛け、次にソファで眠るひのでをみつけて、「あらあら、」と声をひそめた。静かに買い物袋を片付けようとする彼女に、爆睡してるから大丈夫だよ。と普通の声量で言った。
「お客さんから貰ったの。食べる?」
上着を脱ぎながら、テーブルに置いたばかりの箱を指す。開けてみると、ちょっと高級そうなプリンが並んでいた。
「貰おうかな。」
「じゃあお母さんも一緒に食べる。」
二人で箱を覗いてプリンを選んだ。味はプレーンと、苺と、抹茶の三種類。迷わず抹茶に手を伸ばすと、母さんが目をまるくした。
「旭は苺選ぶと思ったのに、」
意外、と言わんばかりの顔をする。大好物じゃない、いいの? 念を押すようにきいてきた。
「そうだけどさ。ひので、抹茶食べれないじゃん。」
黒蜜とか餡子とか、和菓子全般だめじゃん、こいつ。スプーンを咥えたまま指摘して、蓋をはずした。ひとくち食べると、抹茶の味が広がった。正面では、母さんが目をぱちくりしている。僕は視線を逸らした。
「それに、ひのでも好物なんだよ、いちご。」
視線を合わせるのが怖くなった。プリンだけに集中していると、三口目あたりで底に沈んだ蜜に辿りついた。思ったとおり、風味の強い黒蜜だ。選んで正解だったなと噛み締めていると、息を吐く音が聞こえた。
顔をあげると、母さんが笑いをこぼしている。
「なに笑ってんの、」
「だって、」
ひのでが寝てなければ爆笑していそうなくらい、堪えている。
「旭が、『お兄ちゃん』してるから、」
口元に手を添えて母さんは言った。
「そうよね、なんだかんだ言っても、お兄ちゃんなのよね。成長、しちゃうのよね。」
ゆったりと、落ち着いた口調になってきた。
「あたりまえだろ。」
身体の力が勝手に抜けた。何年分と、ぜんぶ。
「そうよね。あたりまえよね。」
さみしいんだ?
「まあ、ちょっとはね。」
でも、ちょっとはまだ子供だよ。
「あら、ずっと子どもよ、お母さんには。だからずっと愛しちゃう。」
平然と恥ずかしいことを言うもんだな、母親って。
たじろぎそうな自分をごまかして、「ひのでも?」と訊ねた。
「あたりまえでしょ。」母さんは即答する。
ひのでも、旭も、……子どもはみんな、よ。
子どもはね、愛されていればいいの。愛されるべきなのよ、子どもは、みんな。
「母さん、」
僕だけプリンが空になった。母さんのほうは、まだほとんど残っている。
「ひのでの話を聞かせてよ。」
母さんがまた目をまるくした。
「ひのでの?」
うん。ひのでの、ちっちゃい頃とか。
「いきなりね。」
聞いたことないからさ、聞きたい。
そうねえ……。母さんは、ゆっくりと口に運ばれてゆく一すくいを、飲み込んでから語り始めた。
ひのではね、ちいさな赤ちゃんだったの。
予定日より一ヶ月も早く産まれて、二千グラムもなかったのよ。保育器に入れられて、一緒に退院、できなくて。あなたと違って、よく病気する子だったわ。肺炎にもなったし、大晦日に熱出したこともあったっけ。
「可愛かったんだな、」僕はちゃちゃを入れた。母さんが、眉を八の字にして笑う。
「手間が掛かったり掛からなかったり、極端でむずかしい子だったわ。」
夜泣きはしない。好き嫌いもない。外で駄々もこねないし、走り回りもしない。
でも人見知りが激しくて、幼稚園の先生にはまったく懐かない。予防接種はお父さんとならおとなしく行く。
それ以上に大変だったのが、思春期。小学校のトイレでピアスはあけるわ、受験の時期に髪は染めるわ、上級生だろうと他校生だろうと暴力沙汰は起こすわ。何度菓子折りを持って行ったことか。と、母さんはため息で締めくくった。
「たくさん泣かされたけど、仕方ないのよね。この子だって、母親を選べなかったんだから。」
スプーンを持つ手が完全に止まっている。
妹のほうに視線を流して、遠くを見た。
「あたしの子だもの。二度と手放すもんですか。」
本当にもう、このひとは。
ことさらに整ってしまった世界は、居心地がよかった。
見るのはきれいな所だけでいい。汚い疵は塗り潰してしまえ。
目を閉じろ、背けろ。見極めて上手に生きるんだ。だから殴られない、縋られない、羨望も平和もぜんぶ手に入る。ゆとりだって、生まれる。
ここには嫌なものが、ひとつも無い。
なんて穏当なんだろう、ほんの少し、捨てただけなのに。
蝕まれてゆく。足元から胸のあたりまで走るきしみに、耳を塞いだ。




