EP 10
鬼の涙と、砕けたキャンディ
ワシントンD.C.から夜行列車とバスを乗り継ぎ、ニューヨークの暗いセーフハウスに逃げ帰った時、坂上は泥と血に塗れたボロ雑巾のような姿になっていた。
「ハァ……、ハァ……ッ」
鍵を内側から何重にもかけ、コートを床に投げ捨てる。
洗面台に直行し、蛇口を全開にして氷のように冷たい水を頭から被った。
指の間にこびりついたキングの血。彼の首の骨が折れ、命が指先から逃げていった時のあの生々しい感触が、いくら石鹸で洗っても、いくら爪を立てて皮膚を擦っても、決して落ちない。
翌日の夕刊には、『海軍の重鎮アーネスト・J・キング少将、宿舎で強盗に襲われ凄惨な死』という見出しが躍った。
陸軍の頭脳・マーシャル。
航空隊の父・アーノルド。
海軍の冷血漢・キング。
アメリカの巨大な軍事力を牽引するはずだった三つの巨大な柱は、これで完全にへし折られた。
残されたアイゼンハワーやニミッツといった「現場の優秀な指揮官」たちがどれほど足掻こうと、彼らを統括し、莫大な予算と物資を割り当てるトップがいなければ、アメリカ軍の歯車は決して噛み合わない。
さらに、坂上が放ったプロパガンダによって、街では孤立主義者と参戦派が血みどろの抗争を繰り広げ、議会は完全に麻痺している。
作戦は、これ以上ないほど完璧な大成功だった。
アメリカは今、自らの血を流しながら内部から激しく崩壊しつつある。
だが――。
「……あ、あぁ……」
洗面台の鏡を見上げた坂上は、そこに見知らぬ化け物の姿を見た。
落ち窪んだ眼窩。血走った青い瞳。土気色の肌。
広島のカレー屋で、客に笑顔を向けていた温和な親父の面影は、もはや細胞の欠片ほども残っていなかった。そこにいるのは、返り血を浴びて嗤う、ただの醜い殺人鬼だ。
坂上はふらつく足取りで、机の引き出しを開けた。
中に入っているのは、マフィアから奪ったコルト・ガバメント(M1911)。
重たい鉄の塊を手に取り、スライドを引いて薬室に弾を送る。
チャキッ、という冷たく乾いた金属音。
安全装置を外し、坂上はそのまま、黒光りする銃口を己のこめかみにピタリと押し当てた。
(……もう、終わりにしよう)
引き金を引けば、全てが終わる。
キングの怨嗟の声も、アーノルドの家族の泣き顔も、泥臭い血の感触も、吐き気も、不眠も、全てがこの一発の銃弾で吹き飛ぶ。楽になれる。
引き金にかけた人差し指に、ゆっくりと力を込める。
銃口の冷たさが、心地よかった。
「……明子。真奈美」
無人の部屋に、掠れた声が響いた。
最期に思い出すのは、やはり二人の笑顔だった。
自分が死んだ後、あの1980年代の広島で、二人はどうなるだろうか。
『……お父さんが途中で投げ出したら、誰が私たちを守るの?』
不意に、銃口を当てた脳の奥で、真奈美の声がした。
幻聴ではない。それは、坂上自身の魂の底に残っていた、父親としての最後の「執念」だった。
俺がここで死ねば、誰がこの後の歴史の尻拭いをする?
誰が、残されたアイゼンハワーやニミッツを消す?
誰が、アメリカの反撃の芽を完全に摘み取り、原爆から広島を守る?
「……っ!!」
坂上は弾かれたように銃を床に投げ捨てた。
ガァン! と重い音が部屋に響く。
「あぁあああああッ!! ああああああッ!!」
坂上は床にうずくまり、頭を抱えて獣のように泣き叫んだ。
死ぬことすら許されない。
どれほど心が壊れようと、どれほど自分が醜い怪物に成り果てようと、愛する家族の未来を確約するその日まで、俺はこの血塗られた地獄を這いずり回らなければならないのだ。
特戦群の鬼が、孤独な暗い部屋で、ただ一人の父親として声高に泣き叫んでいる。
ふと、床に放り出されたコートのポケットから、何かが転がり落ちた。
いつも精神安定剤代わりに持ち歩いていた、安物のコーヒーキャンディの袋だ。
先のキングとの死闘の最中、床に叩きつけられた衝撃で、袋の中のキャンディはすでに粉々に砕け散っていた。
坂上は、血まみれの手でその砕けたキャンディの欠片を拾い上げ、口に含んだ。
甘さは一切ない。ただ、鉄の味と、血の味と、己の涙のしょっぱい味だけがした。
「……待っていろ、アメリカ。お前たちの牙は、俺が全て叩き折る」
1939年が終わろうとしていた。
やがて訪れる1941年の真珠湾攻撃、そして太平洋の泥沼の戦いに向けて。
完全に人間性を捨て去り、真の「悪鬼」へと変貌した坂上真一の、孤独で絶望的な暗躍は、さらに深い闇へと突入していく。
【第二章:摩天楼の錆びた血 完】




