EP 9
震える照準と、泥臭い死闘
深夜のワシントンD.C.、海軍VIP用宿舎。
みぞれ交じりの冷たい雨が、石造りの外壁を黒く濡らしていた。
坂上は、雨水用の排水管を音もなくよじ登っていた。
指先の感覚が麻痺するほどの寒さだが、特戦群の過酷な訓練に比べれば造作もない。問題なのは、肉体ではなく「精神」だった。
(……大丈夫だ。相手は家庭を顧みない傲慢な暴君だ。殺しても、誰も悲しまない)
頭の中で呪文のように繰り返し、精神安定剤(言い訳)を飲み込みながら、3階の窓枠に手をかける。
部屋の中では、海軍の重鎮アーネスト・J・キングが、葉巻を咥えながら一人で海図を睨みつけていた。周囲の警護は廊下に二人、外に四人。窓からの侵入は完全に死角だ。
坂上は懐から、ピアノ線を束ねて作った特製の絞殺具を取り出した。
計画はこうだ。背後から一瞬で頸動脈と気管を同時に切断に近い形で圧迫し、悲鳴を上げる隙も与えずに絶命させる。強盗の仕業に見せかけるため、金品を奪って逃走する。数秒で終わる仕事だ。
音もなく窓を開け、闇に溶け込むように室内へ滑り込む。
絨毯の上を滑るように進み、キングの背後わずか一メートルの距離まで肉薄した。
その時だった。
『パパ……いやだ、パパ……ッ!』
不意に、あの雨の葬儀で聞いたアーノルドの娘の幻聴が、脳内に響き渡った。
「……ッ!」
坂上の手が、ほんの一瞬、わずかコンマ数秒だけ硬直した。
特戦群の鬼としては、あってはならない致命的な「隙」だった。
その微かな空気の揺らぎを、歴戦の海軍将校であるキングが感じ取った。
「誰だッ!!」
キングが猛獣のような反応速度で振り返り、デスクの上の灰皿を坂上の顔面に向かって全力で投げつけた。
「がっ……!」
坂上は間一髪で首を捻って躱すが、その隙にキングは引き出しから護身用のコルト・ガバメントを引き抜こうとしていた。
撃たれれば終わりだ。銃声が鳴れば外の警護が雪崩れ込んでくる。
坂上は理性を捨て、獣のようにキングへ飛びかかった。
「この野郎ッ!」
キングの巨体が坂上に激突し、二人はもつれ合って床を転がった。
スマートな暗殺劇など、そこにはなかった。
あるのは、生きるか死ぬかの泥臭い、醜い殺し合いだ。
坂上がキングの銃を持つ腕を全力で押さえ込み、関節を極めようとする。しかし、キングは初老とはいえ、海軍で鍛え上げられた分厚い筋肉と、何より異常なまでの「闘争心」を持っていた。
「舐めるなァッ!」
キングの太い指が、坂上の眼球を直接抉り取ろうと顔面に伸びてくる。
坂上はそれを頭突きで迎撃し、キングの鼻柱を叩き割った。ゴキリという骨の砕ける嫌な音と共に、生温かい血の飛沫が坂上の顔に降りかかる。
「ぐおおおッ!」
血まみれになったキングが、獣のような咆哮を上げて坂上の首を絞め上げてきた。
その両目に宿っているのは、傲慢な暴君の冷酷さなどではない。
ただ純粋な、「生への強烈な執着」だった。
(……こいつは、死にたくないんだ。俺と同じように)
至近距離でキングの目を見開いた瞬間、坂上の頭の中で『相手はクズだから殺してもいい』という安い正当化の防壁が、音を立てて崩れ去った。
どんな悪人であろうと、傲慢であろうと、一つの命だ。燃え盛るような生存本能を持ち、この世界にしがみつこうとしている一人の人間なのだ。
「が、はっ……!」
酸素を絶たれ、坂上の視界が明滅する。
このままでは殺される。
坂上は残された最後の力で、右手に握り込んでいたピアノ線を、キングの太い首に巻き付けた。
「……死ねェッ!!」
声にならない絶叫と共に、両手で思い切りピアノ線を引き絞る。
「ご、ぎっ……!!」
キングの目が見開き、口から血の泡が吹き出す。
それでもなお、キングの手は坂上の首を離そうとせず、その爪が坂上の首筋の肉を深く抉った。
生きたい。生きたい。生きたい。
言葉なきキングの絶叫が、血まみれの指先から坂上の肉体へと直接流れ込んでくる。
「あああああッ!!」
坂上は涙と鼻水を流しながら、己の魂を削り落とすようにして、さらに強くワイヤーを引き絞った。
やがて、キングの巨体が痙攣し、ゆっくりと力が抜けていく。
坂上の首を掴んでいた手が、ドサリと床に落ちた。
アメリカ海軍の冷酷なる頭脳は、血と汗と泥にまみれた宿舎の床で、完全にその機能の全てを停止した。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ……!」
血まみれの部屋の中。
坂上はキングの死体の上に馬乗りになったまま、荒い息を吐き続けていた。
手には、皮膚に深く食い込んだピアノ線の感触と、他人の命を力ずくでねじ伏せた生々しい熱と重みが、べっとりとこびりついている。
「……あ、あ……」
もはや、言い訳は通用しない。大義名分も通用しない。
自分は、生きようと足掻く人間を、自らの手で惨殺した。ただの、狂った殺人鬼だ。
坂上は、血塗れの自分の両手を見つめながら、声にならない悲鳴を上げて暗い部屋の中でうずくまった。
窓の外では、冷たいみぞれが、彼の壊れた魂を嘲笑うかのように降り続いていた。




