190ハリエット・ビーチャー・ストウ『アンクル・トムの小屋』
前回次は日本の文豪でとのたまいましたが、日付的にこちらの方がいいかなと思い変更しました。
因みに太宰の『斜陽』か『人間失格』を扱うつもりでしたが、この『アンクル・トムの小屋』もよい作品なので是非……。
十一月も末になってくると、朝方と夕方が寒い。
昼頃は厚着をしていると汗ばむこともあるので、制服とはいえ着こなしが難しい。
時間も十五時を過ぎてくるとなんとなく物寂しい感じの暗さがのし掛かってきて、十七時にはもう真っ暗だ。
わたしは図書室に襟元を押さえながら、うっそりと入っていくと、部屋の半分だけ電気のついた窓際のいつもの席で、栞がボンヤリと佇んでいた。
本を読んでいないのは珍しいなと思ったけれど、机の上には本が置いてあるのでさっきまで読んでいたのだろう。
「おっす! 栞、黄昏れちゃってどうしたのさ?」
そう声を掛けると、栞がこちらを振り向き「いやあ急に暗くなってくるから目のピントが合わなくなって、部屋の明かりになれるまでボンヤリしていました」と珍しくボンヤリしていたという。
「今日は何読んでますの? わたしも今度アニメになるっていうから『この本を盗む者は』っていうの読もうと思って借りられないかなーって」
「ああ、深緑野分ですね、ありますよ」
そういって本棚の奥にとててと早足で立ち去ると、すぐに戻ってきた。
「自発的に本を読もうとするのは良い傾向です!」
「えへへ、褒められちった」
わたしは照れながら栞から本を受け取った。
「そういう栞センセイは何読んでいたの?」
「うーんそうですね、それでは栞クイーズ! 一八六三年の今日、十一月十九日にあった世界的な出来事と言えば何でしょうか!」
「えっ!? 突然歴史問題? 世界的な出来事って何だろう……」
「分かりませんか?」
「えーと幕末で何かあった!」
「まあ幕末なら常に何かしらのイベントはあったかと思いますが、世界的に有名になったのはリンカーンによるゲティスバーグの演説ですね」
「あー「人民による人民のための人民による政治」だったね、あれ今日なんだ……」
「そうです。奴隷解放宣言が出されましたね。ということで私が読んでいたのはハリエット・ビーチャー・ストウによる『アンクル・トムの小屋』です」
「確か小学校に置いてあったなあーわたしは読んでないけれど、栞センセも意外と子供向けの本読むんじゃないですか、えへへ」
「んま! 小学生が読むようなのは抄訳だったり翻案された物で、完訳は二種類しかないんですよ。一冊は五二八〇円もする単行本で、もう一種類は光文社古典新訳文庫ででた上下巻の作品で、文庫で割とキッチリと文字が詰まっていて上下巻合わせて本文だけで一〇〇〇ページを超えています」
「んまっ! そんなに……」
「しかもキリスト教的考え方が深く横たわっていて割と難解です」
「うへぇ一〇〇〇ページって何よ、一〇〇ページの十倍じゃん!」
「そうなんですよ、元々新聞連載で短期連載の予定だったのが好評を得て二年ぐらいの長期連載になった本です。凄いのは当時のアメリカが三千万人ぐらいの人口だったのに対して、最初に印刷された五千部が二日で完売して、一ヶ月で三十万部、その後一気に百万部を超えてアメリカ初のミリオンセラー本となりました」
「はぁー難しい内容なのにそんなに売れたんだ」
「凄いのはこれが八年で二十二カ国語に翻訳されて海外でも飛ぶように売れたそうです。十九世紀の末には日本を含む四十八カ国語に翻訳され、哲学者のラルフ・エマーソンによれば「『アンクル・トムの小屋』は世界を一周した」なんて言っていたそうです。まあもっとも当時は国際的な版権の管理団体のような機構が整備されていなかったので売れた割には後々生活に困窮することになるのですが」
わたしは、思わずほへーっと間抜けな声を上げると、そんなに売れていたのかと驚いた。
「『アンクル・トムの小屋』は二つのストーリーラインで構成されていて、優れた文学には必須のエンタメ性も備えています。南北戦争前夜に発刊されたことも売り上げが凄かった一因と言われていますが、二つのストーリーラインが流れるわりとテクニカルな形式になります」
「どんな話なの?」
「長い話なので掻い摘まんでお話しすることは難しいのですが、シェルビー一家という裕福な農場主の元、比較的奴隷達は良い待遇で暮らしていたのですが、ある時投機に失敗したシェルビー氏は奴隷を何人か売ってお金を得ようとします」
「人が人を売るってかなりエグい話ね」
「話は前後しますけれど、当時は黒人奴隷の繁殖牧場だったり、黒人奴隷が体を壊すと医者じゃなくて獣医に連れて行かれたりと滅茶苦茶でした。教会でも黒人は言葉を喋る家畜だから奴隷制は神の教えに背いていないとする所もあったそうです」
「グロい……」
「さて、シェルビー氏に話を戻すと、奴隷の中でもリーダー的存在だったトムと、利発な子供のハリーが売りに出されます。アンクル・トムは妻や子供達に別れを告げ粛々と準備を進めますが、隠れて聞いていたハリーの母親イライザは狂乱し、その日の晩の内に屋敷から逃げ出します」
「対照的な反応だね」
「まずハリーの母親と父親は別々の主人の下近所で働いていますが、従順だった父親の方は非人道的な扱いを受けるにつけ、逃亡しカナダへと逃げることにします。そこにイライザの逃亡が重なり途中で落ち合い一緒に逃げることにします」
「なんでカナダなの?」
「カナダは当時イギリス領だったのですが、アメリカが奴隷制を維持しているのに対して十九世紀の頭にはイギリスやヨーロッパでは奴隷制が廃止されたんですね。なので逃亡奴隷はカナダを目指しました」
「へーで奴隷商人? と追いかけっことかするのかな?」
「そうですね、そしてアンクル・トムの方は南部に売りに行かれる途中、蒸気船から落ちた女の子を川に飛び込んで救い出し、感謝した親がトムを奴隷商から買い取り、かなり自由な環境で扱わられることになり、川に落ちた少女エヴァンジェリンのお気に入りになります」
「へーシェルビー氏? の所でも思ったけれど、なんか黒人奴隷って鞭でビシビシ叩かれて血反吐を吐いて働かされるみたいなイメージあったけれどそんなこともないんだ」
「南部と北部で全然扱いが違います。エヴァの家は南部ですが奴隷達はかなり自由に生活させて貰っていましたが、トムは今の家ではよくして貰っているけれども、家族のいるシェルビー家に手紙を出して早く妻や子供達と一緒になりたいと訴えます」
「家族の絆って奴隷になっていてもやっぱりあるんだね」
「そうですね、テーマの一つに奴隷の家族の絆というものはあると思います」
「で、イライザの方はどうなるの?」
「最終的に夫と合流して家族でカナダへと渡り、逃亡に成功しますが、その頃アフリカ人はアフリカにいた方が幸せだろうという運動があり、リベリアという国に奴隷達を返そうという事業が行われるのですが、現地に帰った元奴隷達はマラリアなどにやられてかなりの人数が犠牲になり、またアメリカ人として迎え入れないと言うことにも反発が起こり、ストウも後々ここは間違いだったと書き直したいというようなことを言っていたようです」
「ふーん結構なやらかしだったんだなあー。トムおじさんはどうなるの?」
「色々あって、解放奴隷になるサインをしてやると約束していたエヴァの父親が喧嘩に巻き込まれ死んでしまい、奴隷に対して冷たい母親が売りに出してしまいます。エヴァも明言されてはいませんが結核か何かで亡くなっているんですね、そして悪魔のようなプランテーション経営者に、奴隷の監督官にさせるために競売で買われてしまいます」
「なんだか雲行きが怪しくなってきたね……」
「ここから先は是非読んでいただきたいのですが、シェルビー家では旦那さんが亡くなって、遺産を整理しお金を捻出して、登場時にはまだ子供だったジョージ坊ちゃんが早馬で駆けつけてアンクル・トムを買い戻しに向かうのですが……という感じでお話は収束していきます」
「えーそこ教えてよ! 一〇〇〇ページある本なんでしょ? もはや人類の読む本じゃないって!」
「だーめーでーす! 面白い本なのでちゃんと読んでください! その代わりトリビアをご紹介します」
「おっ! 良いですな、聞かせて聞かせて!」
「ストウ一家は一時ワシントンに滞在していたそうなのですが、その時リンカーン大統領に面会して、その時「ではこの小さなご婦人があの大戦争を起こしたというわけですな」と言われたそうです」
「影響力スゴ!」
「……という証拠不明の逸話が残されているのですが、リンカーンに会ったかどうかすら証拠がないそうです」
「んまっ! なんか面白そうと思ったけれどダメじゃん!」
「まあそれだけ影響力があったと言うことですね。本も出版されてから絶賛と大批判の真っ二つに分かれて、「反トム文学」と言われる、奴隷は楽しく幸せにやっているという内容の反論本も出されたりしたり、捏造だとも言われたそうですが、後になって証拠となる逸話を披露して反論しました」
「例えばどんな何ですの?」
「アンクル・トムは二人の人物を足して割った造形で作られていたりとか、プランテーションで過酷に扱われている奴隷を実際に目撃しているだとか、登場人物には全て元となる人物がいて、あったエピソードもほとんど事実だと話します」
「うわー実話を元に再構築? って感じなんだ、エグい話多いなあー!」
「そうですね、そんな歴史的な話でトルストイなんかからも絶賛された『アンクル・トムの小屋』ですが、今のアメリカではほとんど読まれてないそうです。奴隷制度が過去の物になったのと、十九七〇年代の公民権運動の時に、白人に粛々と従っているトムの姿勢が、白人に媚び諂う黒人だと非難されて「アンクル・トム」はそういった意味のスラングになります。因みに白人に諂う先住民族は「アンクル・トマホーク」それの中国人バージョンが「アンクル・トン」です」
「なんか政治的にかき乱されているんだなあー面白い話なら面白い話でそれだけで評価されてもいいんだろうけれど……」
「今でも南部の州では本屋に『アンクル・トムの小屋』が置いてあると嫌がらせを受けたり、そもそも置いていないことが多かったり、教科書でも習わないと言うことで、読む人はごくごく限られた一部の人だけらしいですね」
「あれだけ大ヒット飛ばしたのにね」
「あと単純に難しいらしいです。日本語訳はかなり注釈が細かについていて分かりやすいんですが、翻訳者の方も「自分は英語を忘れたのではないか?」と悩むほどだったそうです」
「そんなに……」
外に目をやるとすっかり外は暗くなっていた。
今日は結構栞の話がガッツリ聞けたなと思い、ちょっと嬉しくなった。
「秋の日はつるべ落とし」
「そうですね、もう立冬も過ぎてますしこれからドンドン暗くなるのが早くなるばかりですね……さて目も慣れたことですし、何かまた読もうかなあ……」
「栞、もうそろそろ下校の時間だよ」
「んまっ! 目が慣れる間にそんなに時間が経っていたとは……」
わたしは借りた本を胸に抱き「栞はこの本は読んだの?」と聞くと当然のように「読みましたよー」と帰ってきたので、帰りがてらその話でもしようといい、きゃいきゃい言いながら図書室を後にした。
廊下はすでに真っ暗でちょっとだけドキドキした、栞が何故か自然と手を繋いできたのでわたしも握り返したけれど、このドキドキが伝わらないか、なんとなく恥ずかしくなって「わたしも『アンクル・トムの小屋』読もうかなー」なんて迂闊な発言をしたら、闇の中でも爛々と光る栞の視線が目を直撃した。
さて、一〇〇〇ページ読むか、どうにか逃げるか……それが問題だ……。
ストウ夫人と表記されるのが一般的かと思われますが、ストウ一族はアメリカで大活躍した一族で、人間ストウ夫人に光を当てるとそこも輝くのですが、あまりにも長くなりすぎてしまうため今回はオミットしました。
ウィキペディアでも読めるので気になった方はそちらを読むか、光文社古典新訳文庫の太書きを読んで頂けたらと思います。
次回がいつになるかわかりませんが、また気長に待って頂けたらなと思いますのでよろしくお願いいたします。




