172ロベルト・ボラーニョ『アメリカ大陸のナチ文学』
ずっと以前から取り上げたかったロベルト・ボラーニョの作品です。
ボラーニョ・コレクションは全体的に薄いのですが、絶筆の『2666』が分厚すぎて10年以上経って未だに手が出ていません。
良くないですね.
「今日さ歴史の授業で「映像の世紀」見たんだけどさぁー」
今日も今日とて厚めの文庫本を読んでいる隣の栞に話しかける。
「あー今シリーズいっぱいありますよね。無印の後にも新とかバタフライエフェクトとか……楽しい話もありますけれど基本重いですよねー」
「そうそう。そうなんよ! で、今日見たのがナチスの強制収容所の話でさあ、モザイクなしでしたいがゴロゴロ映されてて軽く鬱になったわ……」
「生き残った人たちもガリガリに痩せていましたよね……」
「まあそんな感じなので、なんか楽しい本はないかなと思ってさ。極上のエンタメ本みたいなの? そういうのないかなーと思って……」
栞は桜色の唇のしたに人差し指を当てて「うーん」と唸ると、ああ思い出したといった感じで書架の方へ向かい一冊の本を取り出してきた。
「ロベルト・ボラーニョ『アメリカ大陸のナチ文学』です」
「へー丁度いいタイトルの本があったねというかエンタメしているの?」
「胸ワクワクの冒険小説というわけではありませんが、ナチスに関わりのある本としてはとても楽しめますよ!」
「ふーん。文学史みたいなヤツなん? わたしそういうのはあまり読んだことないし、興味を持てるかどうかも分からないなあ……」
「この本はチリを中心とした南北アメリカ大陸でここ一世紀ほどの間に書かれたナチスに関係のある文学をものした三〇人のプロフィールが載っています。読んでいるとすぐ分かっちゃうんですが、これ全員架空の人物達です。ボラーニョが亡くなったのが二〇〇三年なんですが、取り上げられている人で一番後まで生き残っている人で二〇四〇年没という人までいます」
「あー完全に創作物ですよーって分かっているタイプの本か、なんか似たようなことやっている人いたよね、南米の人でなんか幻想文学書いている人」
「ボルヘスですね。架空の評論とか書いたりしています。あとはスタニスワム・レムという人の『完全な真空』という本は丸々一冊存在していない本の評論なので、まあそれなりにある分野ではあると思うんですが、ボラーニョの作品はひと味違いますね」
「ほうほうどんな感じ?」
「ナチと無関係な感じの作家なんかもちょと出てきますけれど、大体は戦時中のナチスを持ち上げてたり、戦後もナチに肩入れしている人の話で、生まれから亡くなるまでの簡単なプロフィールを書き出しています」
「結構凝っているというか面倒くさいことしているんだね……」
「割と実在の著名人とかとの交流が書かれていたり、その人を介しての繋がりなんかも書かれているので、矛盾しない文章を描くのは作家の力量の面目躍如といった感じです」
「じゃあわたしには全然分からないネタばっかりになりそう……」
「私でも分からない部分多いので気にすることはないですよ。ボラーニョはチリの生まれでそれまでラテンアメリカといえばマジック・リアリズムだったりラプラタ幻想文学という幻想文学だったりが中心を占めていたところから脱却して、徹底したリアリズムの作家として登場し、十年ぐらい前に大ブームになった人ですね」
「そんなブームになるほど凄い人だったんだ」
「です。日本では亡くなった後ですが『通話』という本でデビューして、ボラーニョ・コレクションというほぼ全集のような文庫に出たばっかりのに改めて『通話』を改訳してから全八巻で発売されています。これはその中の一冊ですね」
「力入っているねえ」
「とにかく暴力表現が生々しくて軍事政権下の時代の話とかも多いんですが、これがまた鬱屈としていて明るい日差しの中で行われる圧倒的な暴力といった感じがして凄いんですよね」
「で、その『アメリカ大陸のナチ文学』だったっけ? はどんな感じなの?」
「出版された経緯から話すと分かりやすいかも知れません。八〇年代中頃極貧の中で作家を目指していたボラーニョは様々な出版社に原稿を送りつけて行きます。その中で『ナチ文学』もあちこち送りつけるんですが、その後ボラーニョ作品を全て手がけるナラグラマ社のエラルデという編集者の人の眼にとまり、出版したいと打診したのですが、当時極貧で電話も持たずにいたボラーニョは手紙が届いた時点で、別な出版社ともう契約を結んだといってエラルデはガックリくるんですが、他に原稿はないかと聞くと何作かありそれの原稿を全て引き受ける形でアナグラマ社から出版されます」
「へーラッキーだったね。自分の才能が分かる人に出会えて」
「正に運命ですね。『ナチ文学』で最後の一人として書かれているのが「忌まわしきラミレス=ホフマン」という話なんですが、この話だけ伝記調ではなく「僕」の視点から見た作品になっていてカルロス・ラミレス=ホフマンという男の正体を暴いていくといったような、ちょっと探偵もののような終わり方になっています。そしてこの最後の一章からスピンオフのように出された『はるかな星』という作品にされているのですが、ここで彼はカルロス・ビーダーという名前で登場します。そもそも『ナチ文学』の方でも多くの偽名を使っていたんですが、カルロス・ビーダーの恐るべき犯罪と文学に名を残していく一代記になっています」
「恐るべき犯罪……」
「はい。それは『はるかな星』を読んでいただくとして文学の方は飛行機から煙を出して、飛行機雲で空に詩を描くというスタイルで一躍有名になります。元ネタの人がいるようでその人は五機の飛行機を使ってニューヨークの空に詩を描いたそうで、YouTubeにも動画が上がっているそうです。飛行機五機を平行に飛ばして雲の濃淡で文字を書くというパフォーマンスなので、カルロス・ビーダーのやり方では詩を描くことは不可能らしいのですが、それを踏まえた上で、お話の上では大成功したという事になっています」
「空に詩を描くかあ、なんかメルヘンな感じがするね」
「実際にビーダーが描いた詩は、全然メルヘンでも何でもなくて、死について書かれているんですがこれが受けるんですねぇ」
「なんか暗そう」
「まあ後のことは『はるかな星』に譲るとしまして、この『アメリカ大陸のナチ文学』はそんなに厚い本でもないですし、短めに話が切られているので詩織さんでも読みやすいと思いますよ!」
「アウシュヴィッツの話が暗くて怖いからエンタメの本が欲しかったんだけれど……まあ栞がオススメしてくれるんだったら、まあ読んでみましょうかね……」
「いいと思います。ボラーニョは先ほどもいった通り容赦のない暴力表現がよく出てくるのですけれど、その目を背けたくなる所に読み応えが詰まっているともいえます。軍事政権下で様々な思いをした人々の思いや世相なんかが反映されているんですよね」
「重苦しそうだなあ……ボラーニョ? だったっけ? の実体験みたいなものも反映されているのかな?」
「そうですね。軍事政権下を逃れて兄と共にメキシコに逃げていたそうなんですが、色々と耳に入ってくるものはあったでしょうからね。ラテンアメリカ圏全体にいえることですが暗い影の部分が濃ければ濃いほど生まれてくる文学に深みが与えられるという歪なものがそこにはあるようです。大変つらい話ですね……」
「そのおつらい話をわたしに!?」
栞は両手と首をぶんぶんふりふりしながら「暗い部分はあるけれど全体を通してそんな感じというわけではないですよ!」といってくる。
「まあ物語自体大体が作り話だけれど、こういう完全に作り話を読ませようとさせる本って今まで読んだことないから新鮮ではあるかな?」
そういって手に取ってパラパラめくってみる。
「もう一つ作品の特徴としては、ナチ文学と銘打っている割には普通の小説を書いている人はほとんど出てなくて詩を書いている人がほとんどなんですよね。詩集をガリ版出て自作して売ったりする話なんかも出てきます。ベンガル人が一生に一冊は自分の詩集を出すことが目標といわれているんですけれど、南米の人もそういう傾向が強いみたいです。ボルヘスも自分は詩人だといっていましたしね」
「詩かあー詩もよく分からないジャンルだなあ……まあいいやそんなに分厚くないから読んでみるよ!」
「映像の世紀で取り上げられることがほとんどない南米の歴史を追体験してみてください!」
「ハイ、ワカリマシタ」
ナチ文学がなんなのかはよく分からなかったけれど、栞がススメてくる本だから多分間違いはないのだろう。
小春日和なので図書室の窓を開けて空気の入れ換えをすると、栞と同時にくしゃみが出た。そうか、もうスギ花粉の時期か……と嫌な季節の変わり目に気づき窓を再び閉めると本を一ページ一ページめくっていった。
架空の人物史、書評集に加えて出版された本の一覧と出版社まで一覧を作っているところが極めて巧妙です。
円城塔の解説文が載っているのですが、此処ら辺の矛盾のなさや錯綜する情報整理するだけでも滅茶苦茶大変とのことで実際にそうだと思います。
『はるかな星』についても取り上げたいと思います。