139オルダス・ハクスリー『すばらしき新世界』
ディストピア小説の古典『すばらしき新世界』です。
光文社古典新訳文庫が読みやすいようです。
寒さも底を打ったのか、ここ数日まだ肌寒いものの小春日和といった陽気が続いている。
そろそろ春だなあと思い図書室の窓を開けると、暖かい風が流れ込んでくる。
そして暖かい風にのってヤツらが来た……。
「いえっくしゅん!」
「へくちっ!」
わたしと栞は同時にくしゃみをした。
そう悪魔の粉「スギ花粉」である。
わたしは急いで窓を閉めたけれど、なんだか鼻がむずむずするばかりでなく、目玉かゴロゴロする。
「いやぁ……花粉いやぁ……」
そういいながらポケットの中の目薬をまさぐっていると「急に窓を開けないでください!」と栞が抗議してきた。
「ごめんごめん。わたしもこんなに急に花粉が来ていたとは思わなくってさ」
等といって謝るも、まだ互いに鼻がむずむずしていて二人して鼻をもみしだいていた。
「確か世界で初めて花粉症が観察されたのって、日光の杉並木の通り沿いの人たちかららしいですね」
「ああ、日本に生えている全ての杉を切り倒したい……」
「実際の所、今ある杉の木を伐採した後にはスギ花粉がほとんどでない品種改良された杉を植えることになっているようですよ。それも各地方の天候にあった種類の杉が取りそろえてあるらしいですね」
「へー……杉なんかもう全部切り倒してはげ山にでもして貰った方がすっきりするんじゃないかと思うぐらいには、花粉のこと恨んでいるけれど、一応対策は取られているんだ」
「そうですねぇ……杉が受粉して自然に増えるのがどのぐらいの確率なのか分かりませんけれど、まあ私も花粉には相当参っているので詩織さんの気持ちもよく分かります」
「なんか杉の本数としっかり調べて管理して欲しいよね、マジで」
そういうと栞はふふっと笑って「ディストピア小説みたいなこといいますね」なんていってくる。
「いいじゃん杉ディストピア。政府が管理するなんかそういう壮大な杉の管理社会みたいな? 栞そういう小説書いてみたら受けるんじゃないの?」
「発想は嫌いじゃないですけれど、面白くなる展望がなかなか見当たりませんね」
等と馬鹿話をしていた。
「でも詩織さんがいった話って割とディストピア小説の要件に当てはまっていますね」
「そうなん? ディストピアといわれてもそんなに読んだことないから、なんか監視社会とかそういうのしか思い浮かばないんだけれども」
「ディストピア小説の三原則みたいなのがあって、第一に国民の婚姻、生殖、子育てへの介入。第二に知識や言語なんかへの監視や介入。第三に文化、芸術、学術の取り締まり。みたいな感じで管理された世界がディストピアの要件みたいな感じですね。だから杉の生殖活動を取り締まっていくのは杉の木にしたらディストピアって事になりますかね」
なんていう。
「はあー日本もディストピア化してますなあー」
「まあ今割とそういう社会分断みたいなのがネットとかの普及で起こり始めているみたいな指摘をする人はいるみたいですけれど、ディストピアにも大まかに二つ方向性が分かれていて、ソヴィエトとか冷戦の東側諸国式の超監視社会と西側諸国をモデルにした、一見栄えているんだけれど何も自由がない仮初めの天国みたいな作品に分かれていますね」
「へぇそんなんあるんだ」
「激しい弾圧や拷問が伴うソヴィエト式というとジョージ・オーウェルの『一九八四年』が全体主義の恐ろしさを描写していて、仮初めの天国なんかの代表作はオルダス・ハクスリー『すばらしき新世界』が代表作ですね」
「へぇなんか管理社会とか全体主義ばかりがディストピアだと思ってたんだけれど、流派? みたいなのがあるんだ」
「折角なのでどっちも読んで貰いたいのですけれど『一九八四年』はちょっと長いのでオルダス・ハクスリーの『すばらしき新世界』読んでみて欲しいですね」
「まあ栞がオススメしてくれるなら……」
栞は背筋を伸ばして手を口元に当てわざとらしくコホンと咳をつくと「ハクスリーはイギリスの華麗な一族といわれる超名門の一族です」と始めた。
「おじいさんは生物学者で「ダーウィンの番犬」ともいわれた進化論の推進者で父親は文芸誌の編集者、母親のおじいさんは教育界各社で、長兄はこれまた有名な生物学者で後にユネスコの事務局長になります。他にもおじさんおばさんも学者だったり文学の道に進んで功績を残したりしています。極めつきはハクスリーの一人っ子は生物学者でノーベル賞まで取っちゃうという、なんだか嘘くさいまでに華麗なる一族です」
「なんかラーメンのトッピング全部乗せみたいな人たちだわ……」
「そんなわけで幼少の頃から教育は徹底していて、知的エリート階級だった上に人柄も温和で誰にでも好かれるタイプで人気者だったという欠点探すのが難しいタイプの人だったようですね」
「いるんだねそういう天から二物も三物も与えられた人って……」
「で、一時期フランス語の先生なんかもやってたんですけれど、その時の教え子の一人がジョージ・オーウェルだったんですねぇーつながるディストピアの系譜……」
「話が出来すぎている……」
「作品の流れにいってみましょう。西暦二四五〇年の世界です。このとき西暦は既に使われておらず、フォード歴というアメリカの自動車王のフォードがT型フォードを生産した年を起点にした紀元が使われています。そんな感じなんで、十字架の頭は全部切り取られてTの形をしているし、オー・マイ・ゴッド! だとかいわゆるFワードなんかも全部「フォード様」となっています」
「フォードって世界史で出てくるあの流れ作業つくて大量生産発明したとかならうあのフォード?」
「そうです。そのフォードです」
「なんで?」
「この世界では自然生殖が一切なくなっていて、フォードの発明したベルトコンベヤー式の施設でボカノフスキー方という方式で受精卵を分割して人間を大量生産する事によって世界を維持しているという設定になっています。これがディストピア三原則の生殖の管理になりますかね。人間は一つの受精卵から一人だけ作られるアルファ・ダブルプラスという階級からベータ・マイナスという一般階級の下にガンマ、デルタ、イプシロンという大量生産された単純作業に従事する被差別的な階級まで分かれています。イプシロン・モンローというのが最底辺なんですが、モンローとは知的障害者に対する蔑称らしいですね」
「うわー管理社会でたー。ディストピアっぽくなってきた」
「ベルトコンベアーで瓶詰めの胎児達がゆっくりと流れていく間にそれぞれの階級にあった言葉を延々と流して深層心理に規則を植え付けていきます。アルファ達はデルタやイプシロンを穢らわしいものとしてみて、知的エリート層としての考えを植え付けられます。一方下層階級には自分たちはアルファやベータと違って大変な勉強をすることもなく、楽な単純作業に従事するだけでいいということを吹き込まれるので、意外とどの階級でも不満なんかはないのですよね」
「あー政府に厳しく縛り付けられているというわけでもないんだ」
「規則に逆らえないよう生まれたときから決められているんですね。でまあ主人公は下層階級を作り出すときにわざと培養瓶の中に毒物を入れて不完全にする作業があるのですが、間違ってアルファなのにアルコールを入れられてしまったことから、体格が悪く、その劣等感により規則に反することを言い出す孤独なはぐれものに育ちます」
「おっ! それで社会体制をぶっ壊すっていうそんな感じの物語になると……」
「いえ、世界統制官という世界に十人しかいない管理者に目をつけられてロンドンから遠くの島へと文字通り島流しに遭うんですが、それはいったん置いておきましょう」
「戻ってきて復讐……とかでもないのか……」
「この世界ではストレスがたまったらソーマと呼ばれる薬物で気持ちよくなってストレス発散したり、特定のパートナーを持たずに性交渉をすることが奨励されているんですが、主人公は休暇を取ってその時好きだった女性と、世界の文明が届いていないニューメキシコの野蛮人居留地に観光に出かけます」
「そこは征服されなかったの?」
「めぼしい資源もなくて土地も荒れているので放っておいてもいいという判断らしいですね。この土地では口に出すのもはばかられている自然生殖で人間は増えており、母親という言葉が酷く卑猥なものとしてタブー視されている新世界とは全く別の世界になっています」
「おかーさんダメなんだ……」
「で、まあそこで十数年前に主人公の上司と旅行に来ていたのだけれど、大雨ではぐれてしまい原住民と暮らすことになるベータの女性が出てくるのですが、うっかりやらかしてアルファとの間に子供を作ってしまって産んでしまうわけですよ。これがいわゆる「文明化」された世界からきた女性には耐えられないのですが、息子は息子で小さい内から新世界についての話を聞かされつつも、原住民達の信じる土着の神やキリスト教の信仰などをうけて育ちます」
「へー教育を受けた野蛮人みたいな?」
「そうです。基本的にアルファやベータは白人で、それ以下は黒人をはじめとして有色人種っぽい表現がされているんですが、この村では白人の外見を持った子供は逆にのけ者扱いにされます。そして新世界では禁止されている、たまたま原住民達の聖域にあった数百年前に作られたシェイクスピアの本を読んで自分を慰めるわけですが、このとき観光に来ていた主人公が、母親とその子供を上司へのカウンターとして連れ帰るのですが、後半はこのミスター・サヴェッジ、つまりミスター・野蛮人が主人公になります」
「じゃあ元々の主人公は島流しになったままフェードアウトしちゃうんだ」
「まあそんなところです。で、野蛮人君は何か考えを表すときにしつこいまでにシェイクスピアからの引用をして様々な人と対峙していくわけですが、いったん新世界に野蛮人の事が知られると大勢の見世物になってしまうわけです。世界統制官は科学的に意義のある人物だからと特に弾圧はしないのですが、野蛮人君は自分の信仰なんかをもって高潔に生きるために人里離れた灯台に住み着くわけです。そしてどうなるかというところは読んでみてのお楽しみです……!」
「なるほど、新世界をぶっ壊すって話ではないんだ……」
「ええ、余談として二十数年後の未来の話も出てくるんですが、新世界は強固に守られていますね。薬と自由な性交渉、様々な快楽を与えてくれる文明の利器……そういったもので大量生産大量消費が深層意識にすり込まれているなんとなくイイカンジがしなくもない社会において厳格な階級社会になっているのはもうブラック・ユーモアなんですが、はぐれものの前半の主人公のような極めて希なケースを別とするとみんな幸せなんですね。そういう真綿にくるまれながら暖かい生活をしているけれど、死ぬ時期までコントロールされている社会が果たしてどんなもんなのかというのが『すばらしき新世界』の問う所なんですが、前半の主人公にしても野蛮人にしても、わりと自分勝手なところがあって、管理社会に対するカウンターパートとしての野蛮人は人類として純粋で高潔……というわけでもなくて出てくる登場人物はみんな胡散臭いところがあるんですよ、そういう所も見所の一つですかね」
「へぇー安定した世界ではあるわけなんだ」
「因みにタイトルもシェイクスピアからの引用なんですが、しつこいまでに野蛮人君はシェイクスピアの引用をします、そこら辺は読んで貰えれば分かりますけれどなかなか興味深いところでもありますね」
「なんていうかディストピアなんだけれど、この前オススメして貰った『ハーモニー』みたいなタイプの作品なのかな?」
そう言うと栞は手を打って嬉しそうに「そうですそうです」という。
「健康であることを強制されるのもディストピアの一つですね。ナチスは健康増進政策に凄い力を入れていて、一見するといいことのように感じますけれど、その内容は不健康な人や障害者なんかを物理的に取り除いてしまうという裏があるわけですよ。世界って割と単純なようでいて複雑なんですね」
「そうかあー健康で居続けるのも大変だなあー。まあ栞がそこまでオススメしてくれるなら読んでみますかね……」
「内容としては大分前に読んだザミャーチン『われら』に近い部分があるんですが、ハクスリーは読んだことないと否定していたようです。一方ジョージ・オーウェルは「影響された」といっているらしくてディストピア界隈でも色々とあるようですね」
「ディストピア界隈っていうほど作品あるのか……」
「実はたくさんあります……!」
わたしはそれ以上突っ込むと読む本が無限に増えそうだったのでとりあえず『すばらしき新世界』を借りることにした。
「しかし健康でいなければいけないって強制されるのも辛いねぇ」
「まあ健康でいること自体はとってもいいことだとは思うのですが、国に介入されると途端に息苦しくなりますね」
「息苦しいといえばこの花粉いつまで続くんだろう……」
栞は苦笑しながら。
「健康になるためのナノマシンとか、管理社会になるとしても注射したくなりますね」
といったので二人して空笑いした。
本当にこの花粉なくなるための杉ディストピア社会実現しないものかとぼんやりと考えていた。
ディストピア化する社会という題材を撮ると社会や政治の話になるのでここでは措きますが、分かりやすい本だと鴻巣友季子『文学は予言する』という新書は中々読み応えがありました。
ディストピアだけの話ではありませんがかなり紙幅をとっているので、興味のある方は参考に読まれてみるといいと思います。
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ネタ自体はたまっているのですが少々立て込んでいるのでどうなるか分かりませんが、早めに更新できたらなと思っていますので気長にお付き合い頂ければと思います。
では次の更新で!