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137ヤン・ポトツキ『サラゴサ手稿』

大分長いこと更新しておらず無駄足踏まれた方には大変申し訳なく思っています。

久々に長めの更新したので気が向いたら読んでやってください。

『サラゴサ手稿』自体は大変面白い話です。

 最強寒波が通り過ぎて、小春日和ということで花粉が飛び始めたらしく、なんとなく目がむず痒い

 まあこの暖かさも週末までらしく、また雪が降るなんて予報も出ているので気が抜けない。 徒歩か自転車しか移動手段のない女子高生にとっては雪が降りつつ花粉も飛びつつしている間はなかなかサバイバルな季節ではある。

 まあ梅雨の時期から盛夏を超えての頃までも割と命のやりとりになっている気がするけれど、学校と家の往来だけで命が掛かるとは勉学の道はなかなかに辛いものだ。

 と、そんなことをぼんやり考えていたら、隣から「べくしっ!」と鋭い音が上がる。


「んまっ!」


 といって隣を見ると鼻を真っ赤にさせた栞がずるずると鼻をかんでいる。


「目が痒いし、鼻水もでるしいいことないです……」


「いや、わたしも目が痒いけれどそこまで!?」


「代々我が一族は花粉に弱いのです……」


 そういってチーンと鼻をかむ。


「眼鏡してても花粉から目を守る防御壁にはならないのね……」


「当たり前ですよ、花粉がどのくらいの大きさか知っていますか? べくしっ! ティッシュがなくなった……」


「ほらほら、鼻をかんで、ほらチーンってチーンって……」


 わたしがティッシュを鼻元に持っていくと栞は大人しくチーンと鼻をかんだ。


「ありがとうございばす……」


「これじゃあ読書どころじゃないね……」


「いえいえ、私はつい先ほど長い長い話を読み終えました……」


「マジか!」


「これですよこれ」


 そういって栞は脇に詰んだ本の山をぽんぽんと叩いた。


「え、それ全部読んだって事? 色んな種類の本じゃなくて続き物なん!?」


 そういうと栞は嬉しそうに語り出した。


「昨年から今年にかけて文学界で大きな事件が二つ起こりました。一つはホセ・レサマ=リマというキューバの作家の『パラディーソ』という本の翻訳。もう一つがこのヤン・ポトツキというポーランドの大貴族が書いた『サラゴサ手稿』の完訳です。まあ今年の翻訳文学大賞はこの二つのどちらかが取るんじゃないでしょうかね」


「へぇー……それそんな有名な本なの? 今まで翻訳されなかったのに?」


「そうですねぇ『パラディーソ』は単に難しかったのかどうなのかまだ私も読み切っていないのでなんともいえないのですが、ラテンアメリカ文学界の翻訳されていなかった最後の大物みたいな扱いですね。それに対してヤン・ポトツキの『サラゴサ手稿』の方は四十数年前に一部だけが国書刊行会という出版社の幻想文学大系というシリーズから翻訳されていて、翻訳者の方も大分前に完全に翻訳しきった原稿を東京創元社に渡していて、いつでるのかなとみんな首を長くして待っている間に工藤幸雄さんという翻訳家の方が亡くなってしまい、それから十年以上音沙汰なしだったのですけれど、遂に二〇二二年の年末から今年にかけて岩波文庫から畑浩一郎さんという方の翻訳で、全三巻に分けて出版されたというややこしい経歴の作品なんですね」


「そんなに注目された作品なの?」


「幻想文学大系ではこの『サラゴサ手稿』がキキメの一冊でして……ああ、シリーズもので一冊だけ人気が高かったり発行部数が少なかったりして入手困難なものをキキメというんですけれどこの緑色の箱入りの一冊が工藤訳の『サラゴサ手稿』なんですね。これは父が手に入れて私も読んだのですが、確かに幻想文学って感じなんですが、全六十六日の話の内十三日までしか掲載されていないんですね。で、ポーランド語の本なので読める人もほぼほぼいない状況だったので、幻の幻想文学として名前だけが広がっていたのですが、今回のこの岩波版でかなり歴史的な部分が分かってきて、今までの『サラゴサ手稿』に対する見方がまるっと変わっちゃったんですねぇ」


「そんなに紆余曲折ある面倒くさい本なの?」


「はい。まあ読んでみると分かるんですが幻想文学っぽいのは本当に最初の方だけで、割と初期の方から幻想文学らしさは消え失せるんですね」


「なんか幻想文学だと思い込んでた人にしてみたら詐欺みたいな感じになっちゃったって事なのかしらん? ってか続き読みたかったのに死んじゃった人いっぱいいそうだね四〇年は」


「まあ分かりやすくするために物語の形式からいきましょうか。いわゆる枠物語というヤツで『千夜一夜物語』とか今までにお勧めした中だとボッカチオの『デカメロン』なんかがそうなんですが、メインの物語の中で枝葉が分かれて枠の中に枠が出来るように話の構造が多層化していくのが枠物語なんですが、まあこの作品もそれなんですよ。というか『デカメロン』から大きくインスパイアされていて十日ごとに第一デカメロン、第二デカメロンと話が区切られて、第五デカメロンまであるんですね。いやあ長い話です」


「なんか聞いているだけで難しそうだわ……理解出来るのそれ?」


「ええ、こんがらがるポイントは確かにありますけれど、割と本の中で振り返りがあるのでそこまで理解が進まないという感じではないですね」


「なるほどん。で、どんな話なの?」


「サラゴサ攻包戦という戦闘が終わって、フランス人将校が町中でたまたま入手した手書きの紙束を、もう元の持ち主に戻ることはないだろうと思い持って歩いていたところをスペイン人に捕まるのですが、たまたまその紙束を目にしたスペイン人将校が「自分の先祖に関する話だ」といってお礼をいい、フランス人将校に翻訳してお話を聞かせるというのが話の枕です。その内容はワロン人衛兵隊長の任を拝命したアルフォンソという青年がスペインのマドリードに向かう中で、悪魔が住むといわれるシエラ・モレラ山脈でおつきの人たちとはぐれる所から始まります。そこには悪名高い山賊が二人吊されている悪魔が集会を開くといわれる場所があるのですが、誰もいない宿に泊まった後、目が覚めたら絞首刑台に吊されている二人の間に横たわっていた……というところから始まります」


「ヤヤコシイ……でも幻想文学ってかんじは確かにする……」


「その後も魔術を操る兄妹とかが出てくるんですが、ここら辺までが工藤訳の範囲なんですが、この後はフランスやスペイン、アメリカまで話が広がっていき、当時の宮廷や町中での話、教会や騎士団の話なんかが多重構造で語り手を変えては話が続くんですけれど、最後にひとまとめに収斂していくんですね。こういう回収力の強い話を私は腕力が強いとよくいうんですが、正に腕力の強い話でした」


「割と現実的な話が続くわけ?」


「そうです。魔術的な話や幽霊話もなくはないんですが基本的にその登場人物が実際に体験した人生の話ですね」


「それが一番最後に一気に纏まると……」


「です」


「ですかあ……」


「お話は岩波版で全ページ合計すると一四〇〇ページ越えるので、ちょっと脇に置いておくとして、この本がなにゆえそこまで伝説的な話になったのかというお話してみましょうか」


「お願いします……」


「ヤン・ポトツキは十八世紀から十九世紀にかけて活躍したポーランドの大貴族です。どのくらい大貴族かというとポーランドの二大名家の一つというぐらいで広大な宮殿や何百もの村や街を所持する大資産家でもありました。そしてポーランドがロシアに征服されて国が解体されたりするなかで、ロシアの女帝エカテリーナに仕えつつ、ヨーロッパ中やモンゴル、果ては入国は果たせなかったものの清国にまで脚を伸ばしたという冒険家でもありました。ポトツキは民俗学や言語学に興味を持っていて、旅行記や論文などを出してこちらの方面で成功したいという思いがあったようですが、時のロシア政府からはあまり重要視されずに上手くいかなかったようです。そして地下出版という形で『サラゴサ手稿』を読んだ人たちがちょっと楽しくなればいいという理由で分割して出版するのですが、ここからがややこしくなります。この『サラゴサ手稿』はフランス語で書かれているのですが一八〇四年版と一八一〇年版の二つがあるんですね。この原稿が長いこと見つかっていなくて、工藤訳のポーランド語版が唯一の全話収録版だったのですが、それすらも入手困難でした。このホィエツキ版といわれるバージョンは全六十六日の話で纏まっているのですが、原文が手に入らなかったこともあったり、ホィエツキがちょっと欲目を出したりしたのもあってかなり修正や削除が多くなっています。で、一九五八年にロジェ・カイヨワという著名な学者によって原稿の一部が発見され、ポトツキにの国際会議が開かれるのですが、この原稿だけでは話が全然纏まらなくって二〇〇二年になってポーランドのポズナニというところで古文書の調査をしていた二人のフランス人によってポトツキの直筆原稿が見つかるわけなんですが、ここで複数のバージョンがあることが判明するのです。これによってようやく『サラゴサ手稿』の全容が解明されるわけです。ここでようやく原作は全六十日とプラスエピローグの一日の話でホィエツキがどれだけ手を加えていたかなんていうのも分かったんですね」


「ながっ!」


「ここまでが基礎の話なんですが、一八〇四年バージョンと一八一〇年バージョンの二つがあるという話はしましたがフランスのガルニエ・フラマリオン社から二つのバージョンが同時に発行されるのですが、どうして二つのバージョンが同時に出されたのかというと、出版社からは新しい最終版だけ出すか、二つの案を折衷したバージョン一冊でよくないかといわれたのですが、研究者の反対に遭ったのですけれど、確かにこの二つのバージョンではかなり話が違うようで、岩波文庫から出たのは一八一〇年版なんですが、一八〇四年版だと、全話を通して背骨のようにストーリーを横断する「さまよえるユダヤ人」というエピソードが入っているそうで、これは後の版では一切が削除されているという大胆な再構成がされているようです」


「もったいなーそんなにガッツリ書いていた原稿消しちゃったの? しかも手書きなんでしょ? パソコンポチポチで消したり書いたり出来る時代じゃなかったのによくもまあそんな書き直ししたね」


「逆に言うと現代だったらゴミ箱に入れてまるごと消去していたかも知れませんね。そういうことでフランスではそういう二種類の版がでて、岩波文庫ではこれを底本にフランス語から翻訳されたわけです」


「そら長い旅だったわなあ……」


「そして『サラゴサ手稿』がミステリアスなのはヤン・ポトツキの最後にも関係があるんですね」


「大貴族で大金持ちだったんでしょ? 暗殺されたとか?」


「いえ、彼は体調の悪化や精神的に不安定なことになっていたとか色々理由は推測されるのですが、拳銃自殺をしました。その方法がまた変わっていて、銃はあるけれど弾はない。なので部屋にあった砂糖入れのチェストの銀製の留め金を外して弾丸状に削った後、教会でその弾丸を清めて貰い、自室でその弾を込めた拳銃で頭を撃ち抜いたそうです……」


「かわいそ……でもなんか滅茶苦茶伝説になるわその死に方は……」


「そうなんですよね。それに『サラゴサ手稿』は生前は完璧な形で出版されることはなく、作者の仄めかしはあったけれど、地下出版で少部数しかでていなかったけれど評判はよかったとかで、作者についてはほとんど知られることがなかったため色んな作家がエピソードの一部を取り出して自分が書いた作品であると名乗ったりして裁判に発展したりしていますね」


「はひー確かに幻の作品といわれるだけあるわぁー」


「そうですね、まあお話の方も面白いですし、一日の話は大体岩波文庫版だと三〇ページ程度で短めに区切ってあるし、色々とバリエーションに富んでいるので詩織さんも楽しめると思いますので是非挑戦してみてください!」


「うーん……興味はあるけれど三冊かあ……」


「まあまあそう言わずに……」


「あれ。そういえば話変わるけれどくしゃみ止まったね」


「ら、本当だ。目のかゆみも止まった……へくちっ!」


「駄目だ……本の話しているとき以外はすぐに気になっちゃうタイプだったわ」


「もう! 詩織さんが黙っていてくれれば……へぶちっ!」


「おーよしよし、お鼻かみましょうねー」


 そういって詩織の鼻元にまたティッシュをあてがうと素直にチーンとかんだ。

 そうして無言で三冊の文庫本をこちらに向けてすいーっと渡してきたのでわたしは受け取らざるをえなかった……。

 わたしもその本を手にした瞬間「へっくしゅん!」とくしゃみをしてだらしなく鼻水を垂れ流してしまった。

 全く乙女の体調というのもなかなかに幻想的なもんであるなと適当なことを考えながら手にしたティッシュを鼻に当てたらぬるりとした。

 あ、これ栞の鼻かんだヤツだったわ……もう頭が花粉で朦朧としてきた。

 多分長い不思議な話を聞かされたためだろうと思い二人してぼんやりと見つめ合っていた。

大貴族のボンボンが書いた本なんてそんなに面白いのという向きもあるかも知れませんが、やはりそれなりの教育を受けているのでがっつり教養も見識もある人が書いているので大変面白い話です。

できる限り次のお話までは間を開けないようにしたいと思うのですが、言い訳でしかないのですが最近何かと変な用事が入るのでどうなるかはその時次第でございます。

今回話が複雑すぎて内容には踏み込んでいなかったのですがガイブン界隈では結構な事件として受け止められた全訳発売で、その話題性に恥じることのない面白い作品でしたので是非お手に取ってみてくださいませ。


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― 新着の感想 ―
[一言] 出版までの過程でもう本が一冊つくれそうな気がします。(笑)
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