114ホメロス『オデュッセイア』
20年と40日の旅です。
かなりの大著ですので読み切るのは骨ですが、読んだ後の達成感というものはありますね。
夏休みシーズンですので是非挑戦してみてください。
高いので岩波版を中古で手にするのが良いと思います。
「長い旅が終わった……」
「んま!」
夏休みという奴でありますが、当校では夏期集中授業みたいながっついたイベントはなく、登校日が三日ぐらいあるのにプラスして全員参加の補修日みたいなよく分からない授業がちょこっとだけある程度なので、まあ普通に遊べる程度には休める。
一応の所進学校ではあるけれども、みんなそこまでガツガツした感じではないので、いける所に行くとか近い所がいいとかまあそんなボンヤリした目標しか持っていないモラトリアムしたい連中ばかりなので、暢気なもんだといえば暢気なもんである。
まあ何となくわたしは栞と同じ大学に行けたらなと思っているけれども、栞の志望校を聞いたら失禁する予感がするので聞かないことにしている。
今日は勉強教えて貰うついでに駄弁りたいという、本来の目的がどっちかはさておきとして図書室解放日なのでこうして学校の電気代で冷房の恩恵にあずかれるという理由で来ているワケで御座います。
「で、長い旅ってまたどんな本読んでたんですかい?」
「本当に長い旅でした……その期間およそ二〇年と四〇日!」
「本当に長かった……」
「これです! 先月京都大学学術出版界からでた西洋古典叢書シリーズの最新版ホメロスの『オデュッセイア』です!」
「あータイトルは何となく聞いたことがあ……ファッキンぶアツい!」
「んま! Fワードは禁止ですよ!」
「禁止と言われても……これ何ページあるの?」
青緑色の表紙にいかにもギリシアの古典芸術ですーといわんばかりの図案が配置してある、なんか自分の持っている英和辞典より分厚い本である。
何これ? 人類に読み切らせる気があるの? という疑問が尽きない分厚さである。
「ちょいちょい貰っていたお小遣いをバーンと放出して買っちゃいましたよ! 税抜き四九〇〇円なので五千円オーバーなのでこれは読まずに済ませてしまうともったいないですからね! 因みに岩波文庫から一九九三年にでたものは上下巻で合わせて中古だと千数百円なので読むだけならそちらでもという感じですが、そこら辺はまあまあ色々とこの新訳との因縁もあるお話だったりするので、後ほどじっくりと……」
「もうオススメするのは既定路線なのですね……」
「はい」
栞はにっこにこしながら、凶器のような分厚さの本を大切そうになで回している。
「本文は七一四ページなんですが、本全体でいうと七九六ページあるので、少なくとも今年読んだ本の中では一冊の著作としては圧倒的に分厚いですね。まあ私が勝手に決めている話ではあるんですが、夏休みは短いようで長くもあり、長いようで短くもありですから、いったん勉強のことはちょっと忘れて、分厚い本に挑戦するという月間にしているんですね。それでむかーし岩波文庫版で何となく挫折していたこの『オデュッセイア』をいい機会なので攻略したいと思った訳です!」
「栞は確かにそんなに勉強しなくても、授業聞いてあと自主学習するだけで点数採れるタイプだからいいけどさぁー……わたしは夏休みだととりあえず本読もうかみたいにはならないかなあー。海に山に一夏の恋に燃えたりしたいワケですよ。まあ相手もいないけれど……あとスイカ無限に食べたい」
「んま! 夏といえば読書じゃないですか! 小学校中学校で課題図書とか出されたり読書感想文書いたりするじゃないですか!」
「いやまあ課題図書はまあいいんだけれどさ。小学校の時にどうしても原稿用紙二枚以上埋められなくって悶絶していたときに、お母さんがどこそこの何とか君は夏休みの読書感想文八枚以上書いたって聞いたよ! とかいわれてさ、枚数多く書けばそれで評価されるのってなんかなあって思ったのが何となく引っかかってて、読書感想文にモヤモヤとした感情を抱いていますです」
「まあ読書感想文も課題の名前通りに読書したときの自分の感想みたいなものを書くのか、ブックガイド的な書き方をすればいいのか、お勧めレビューがいいのか、褒めていいのか貶していいのか、どういうものが求められているのか、大人が何を求めているのか私もよくわかんないなと思いながら書いてましたねー」
「へー栞でもそうなんだ! だから小学校の六年間の内同じ内容少しずつ変えて使い回したり、そんな本ないみたいな本でっち上げて書いたりするとかあるあるだよねー!」
「いや……それはないですけれど」
「そうか……違う文化圏の人か……」
「まあ架空の本のレビューとか評論をするみたいな分野もあるにはありますけれど、読書感想文ででっち上げたという話は中々聞かないですね」
「絶対そこそこいると思うけれどなあー」
「どうですかね……まあ読書感想文の話はおいておくとして『オデュッセイア』は分厚いには分厚いですが、文章の密度は叙事詩であるので、どちらかというと薄いので、そこまで手こずりはしないですね。ただ文章や言い回しは古い感じはないんですが、やたらと格調高いというか難しい言葉が多いのでその点では文章量以上に難易度は上がっているので、物語小説をサクサクっとよむという感覚ではいかないですが、たまには脳味噌に汗を掻くような読書をすることも重要だと思うのですよね」
「うーんなんだかよく分からないけれどもどんなストーリーなの? ギリシャ神話だって事だけは知っている」
「トロイの木馬ってあるじゃないですか。あの逸話はご存じですよね?」
「はいはい。なんか戦争してて退却したと見せかけて、デカい木馬の中に兵士がみっしり詰まってて、敵のお城の中に引き込まれたら夜中に抜け出してやりたい放題したって奴でしょ? 世界史でちょこっとだけ話は聞いたかな」
「はい。そのトロイの木馬を発案したのが誰あろう大英雄オデュッセウスなんですねー」
「あら? じゃあそのトロイの話が『オデュッセイア』? なの?」
「いえ、それは『イリアス』という話で、オデュッセウスが幼子テレマコスを残してトロイ戦争に出兵するのが忍びないということで、狂った振りをして参戦を拒むのですが、息子を人質に取られて仕方なく参戦し、トロイを攻め滅ぼすまでが『イリアス』の内容ですね。そこから苦難の帰還が始まるのですが、女神や魔女などに囚われたりして中々帰れません。アテナの力を借りてなんとかかんとか帰り着く目処がつくまでに二〇年掛かっています。そして逞しく育ったテレマコスがアテナの導きでオデュッセウスを探す旅に出る所からが『オデュッセイア』の始まりです。そこからオデュッセウスが帰還し、オデュッセウスの資産である牛や豚、葡萄酒などを毎日宴会に使って浪費し、最愛の妻ペネロペイアに無理に婚約を迫る街の有力者達一〇八人とオデュッセウスはもう帰ってこないと求婚者達に取り入って裏切った召使いや婢達を、テレマコスや、主人の留守中も忠実に仕えていた豚飼いや牛飼い等と共に皆殺しにして、ペネロペイアを取り戻し、皆殺しにされた有力者達の親族と一戦交える事になったときにアテナの仲裁で和解する所までの四〇日間が『オデュッセイア』の内容です」
「ストーリーは割と単純なのかな?」
「そうですね。アリストテレスは『詩学』という今でいう創作論や物語論の元祖みたいな著作の中でこの物語について『ある男が長年故郷を離れ。ポセイドンににらまれてひとりぼっち。家では求婚者達によって財産が食い潰され、息子の命が狙われている。彼は嵐に遭ったが帰還して、幾人かに正体を明かして求婚者を攻撃、自身は無事で敵を滅ぼした』と要約していますが、やっぱり万学の祖は違いますねぇー、要約もスマートです」
「ほーん。それでそれは面白いの?」
「映画の『スター・ウォーズ』あるじゃないですか」
「ありますね」
「あのシナリオってジョーゼフ・キャンベルという人が纏めた古今東西の神話の構造を解析した『神話の力』という本があるのですが、その本に強く影響を受けて作られた宇宙神話なんですよね。本当にざっくりというと『男は大切なものを失い、艱難辛苦の旅の末に目的地にたどり着き宝、または女を手に入れる』というのが基本だという話なんですが、もうまんまこれですよね『オデュッセイア』というのは。物語の基本ってやっぱり旅だと思うんですよね」
「ほあーん。じゃあそれ知っていれば何となく神話っぽい話になるんだ?」
「実際そんな簡単にいかないですが、まあ型というか類型に嵌めることは出来ますよね。テンプレートといいますかそういうベースにはなります」
「すごーくベーシックな話なんだ『オデュッセイア』って」
「ですねぇーホメロスの真作と言われる作品は先ほどの『イリアス』と『オデュッセイア』の二作なんですけれど、今のホメロス研究によると『オデュッセイア』はホメロスの作品ではなさそうという説が優勢らしいのですが、まあそこら辺は歴史ロマンの類いですかね。評価も『イリアス』に比べるとやや劣るとはいわれているようですが西洋古典文学の最高峰という評価は覆らないんじゃないですかね。実際読んでみると最初の方は設定飲み込んだり、動きがやや少ないので読み進めるのがちょっと難しいのですけれど、後半は一つ目の人食い巨人キュクロプスに捕まったり、人を遭難させるセイレーンの歌から逃れたり、海の怪物に仲間を食べられたり、キュクロプスの父親であるポセイドンの怒りを買って大嵐に遭ったり、空腹に耐えかねて食べてはいけない神聖な牛を食べた仲間が一人残らず海に消えたりと、まだまだ色々な挿話があるのですが、男の子だったら絶対好きだなぁという冒険に次ぐ冒険で飽きさせません。最後は好き放題傍若無人に振る舞う求婚者達にどう復讐するか策略を練り復讐するという、復讐譚でまたハラハラさせられたりと素朴ではあるものの結構な冒険譚に満ちています」
「冒険かあーまあ二〇年と四〇日じゃあ確かに読み終わった後『長い旅だった』ってなるかもね」
「後の世に与えた影響も凄くて、今年発刊されてから丁度一〇〇年目にあたるジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』という難しくて長い作品があるのですが、これがプルーストの『失われた時を求めて』と二十世紀の最も偉大な長編二作としてあがるんですが、タイトルがまず『オデュッセウス』を英語読みした『ユリシーズ』で『オデュッセイア』が二四の挿話で構成されているのに対して『ユリシーズ』が一八挿話あるんですが、それぞれに『オデュッセイア』に対応したタイトルが与えられていて、レオポルド・ブルームという冴えないおじさんのアイルランドはダブリンの一日を描いた作品なんですけれど、ガッツリ影響されてますね。私も『ユリシーズ』はまだ読んだことないのですが、夏休みに挑戦したい本の一つですね」
「情報が多い……」
「まあ一つ一つ内容や、影響について話していくと図書室から閉め出されるまでいても全然足りないので、ちょっとだけ面白い話として日本の昔話と不思議な対応を取る話がありまして『百合若大臣』というお話がありまして、これが不思議なほど『オデュッセイア』に似ているんですねぇー」
「『百合若大臣』ってなんか女の子同士がイチャイチャする系のお話なんですの?」
「んま! 淫ら!」
「淫ら!」
栞は水筒を取り出して、スポーツドリンクだかお茶だか分からないけれど、ごくごく飲み出して一息ついていた。
ごくごくという音に合わせて喉が動くのが何となくかわいらしくて、ニヤニヤしながら眺めていたら、なんだか不審者をみる視線を浴びせかけられる。
わたしも氷らせたペットボトルのスポーツドリンクを飲む。
完全には溶けていないので凄く甘いジュースになっているけれど、これは後半味が薄くて素っ気ない感じになるなと思いつつ喉に湿り気を与える。
「百合若という武者の復讐譚ですね。百合要素は特にないです」
「なんか残念」
「意外とそういうの好きなんですね……」
「嫌いではないです」
「まあ話を戻しましょう。ざっくりいうと蒙古襲来の討伐隊の大将に選ばれた百合若が、帰りに部下の策略で無人島に置き去りにされるものの、神託が下り生存していることが伝わり、裏切った部下に言い寄られている奥さんの神頼みでなんとか帰還して、最終的に『オデュッセイア』と同じく弓の大会で誰も引けなかった弓を引いて、自分こそが百合若であると名乗り出て、裏切り者を処刑して妻を取り戻して、京に上り将軍になる……というような話なんですが、実際の所『オデュッセイア』読んだ後にこの話を知ると完全に翻案だろうとしか思えなくて、明治時代に『オデュッセイア』が知られるようになると坪内逍遙らがポルトガル人が日本にたどり着いたときに伝わった話が元になっているに違いないといっていて、タイトルからストーリーラインまで完全に一致しているので、間違いないなんていっているのですが、民俗学者の柳田国男なんかは『同じストーリーラインをもつ話は古今東西いっぱいある』と反論するんですよね。で、一五一四年にすでに『百合若大臣』の話についての記述があるようで、種子島に鉄砲が伝来するよりかなり前からある話だということで中々決着がつかないんですが、中央ユーラシアに伝わるテュルク系の叙事詩『アルパムス』という物語がかなり似ているらしくて、こっちが起源なんじゃないの? とかなんとか混迷を極めているようです。因みに『アルパムス・バトゥル』は平凡社東洋文庫ライブラリーから出版されているようですが、この話については『オデュッセイア』の解説読むまで全く知らなかったですね。そもそも同じモチーフや同じ特徴を持った敵が出てくる話って全世界で百個以上あるようなので意外とそこら辺は『神話の力』の領域になってくるのかも知れませんね」
「やっぱり凄いテンプレ話だったのか……」
「まあ一概にどうのこうのといえないですが、確かににた話は良くあるようです。ということで夏の一大チャレンジで『オデュッセイア』読んでみませんか! 今から読めば一日一歌ずつ読んでも二四日で読み終わるので、少しペースを速めれば休みが終わる前に完読できますよ! 一つの話は三〇ページ前後ですし無理なくいけますぞ!」
「なんで最後ムックみたいな口調に……まあでも八〇〇ページもあるんでしょ? そんなの読み切る人類って存在するの? ああいたわ目の前に……」
「ということで、今年の課題図書にお勧めです!」
そういうと栞はわたしの手を取り、青くて分厚い本を載せてくる。
うわー……重いなぁ……紙の束ってこんなに迫力あるのか……。
速攻で断ろうとしたけれど栞のやたらとキラキラしている目を見たら断れなくなってしまった……。
まあ最初の三話ぐらい読んでお茶濁すかなと思ったけれど、どうせ図書室にしょっちゅう来ているし、少しずつ読んでいけば終わるのかな……終わらないのかな……悩ましい……。
わたしは夏の『長い苦難の旅』に既に漕ぎ出しているのかも知れなかったが、まあ似た話もみんな帰還に成功しているようだし……うーん……読んでみるか。
栞のこの視線には逆らえない何か魔力のようなものがあるのだなあとボンヤリと思っていた。
西洋古典の最高傑作の一つなので情報の取捨選択が難しかったので、ちょっと変則的な方法に逃げ込みました。
翻訳の話なんかも入れたかったのですがそこまで踏み込むと一万字は超えそうなので、層で無くても最近長くなりがちなので読む方も飽きるだろうと思いバッサリいきましたがそれでも長くなってしまいました。
前書きと後書きも長くなりがちなのでこの辺にしておきます。
ご感想や、雑談何でも結構ですので、何かあればお気軽に感想欄に投げて頂ければ励みになります。
それが面倒でしたら「いいね」ボタンぽちっと押して頂けるとフフってなりますのでよろしくお願いいたします。
私事ではありますがコミケの原稿入稿しましたので、気が向いた方はお立ち寄り頂ければと思います。
本当は『羅生門』のパートを8ページの漫画にしたものを載せたかったのですが作画の方が原稿データを紛失してしまったため今年は断念しました。
まあ印刷物が見つかったらそのうちスキャンしてどっかにあげられればなと思います。
サークル「八十堂」C100(土)東ペ-29bです、参加される方おられましたら立ち話にでもお立ち寄りくださいませ。
結局長くなってしまいましたが、ではまた。