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113マシャード・ジ・アシス『ブラス・クーバス死後の回想』

珍しいというか初めて取り上げるブラジル文学です。

ブラジルの作品というとパウロ・コエーリョ『アルケミスト』が大ヒットしたぐらいで他にイメージのない人が世界的に見ても大多数だと思いますが、中々豊かな文学的ド嬢があるようです。

 家のすぐ近くに大きい公園がある。

 そこには屋根付きのベンチが何カ所かあって、時々栞とそこで駄弁ったりしている。

 大抵は栞が本の話をしているのだけれど、そうでないときは大抵勉強を教えて貰っている。 まあ栞のことなので現代文だの古文だの、後は小論文みたいなのから漢字までやたらと出来るので、国語の勉強は凄い分かりやすく、且つちょいちょい脇道に逸れすぎて文学がどうのこうのという話しになったりして、軌道修正しないといつも通りの本の話しになってしまう。

 まあそれでも「こいつ急にレベルの高い話しだしたな……」と時折ついて行けない難しい話をされることはあるものの、基本的には分かりやすく丁寧に教えてくれる。

 わたしも現代文は何となく点数は採れているのだけれど、古文とかは何度も教えて貰わないとすぐ忘れてしまうし、小論文については最近になって先生から調子が上がってきたなと褒められるようにはなってきたけれど、まだまだ高得点連発というわけにはいかない。

 でも国語自体は点数それなりに採れるようになってきたので、まあわたしも日々成長しているようではある……多分。

 で、栞大先生はユートーセーであられるので、文系の科目だけではなくて、理系の化学だの数学だのも本人は「ついていくだけで大変」とはいっているものの、上位成績者であるのもまた事実である。

 今日は数学を教えて貰っていたけれど、というか数学が出来なさすぎるので、数学をメインに教えて貰っていたけれど、栞大先生としては苦手科目らしく、教えて貰っているときにドツボにはまって時々固まってしまうこともある。

 でも考えればちゃんと正しい答えが出力されているので、どう考えても出来る人だとは思うのだけれど、本人は「教えていると自分の頭の中でしっかり整理が出来る」といって、嫌がらずに教えてくれる。

 我々は屋根付きベンチで数学の勉強会……といいつつ一方的に教えて貰っているだけだけれど、疲れたので木の陰になっている人工の小川に足を浸してちゃぷちゃぷと涼を取っていた。


「いやぁー風があるから耐えられるけれど、日向はキッツいなあー」


「まあ今日は比較的涼しいから私も耐えられますけれど、やっぱりここまで来たら詩織さんのお部屋で勉強した方が快適だったんじゃないですか?」


 栞の疑問も最もだったけれど、図書室は本日管理人不在で締め出しを食らったので栞の家に行くのが最適解だった気がするけれど、自分でもよく分からない脳内の接触があって、たまには外でといってしまったのが運の尽きだった。

 栞が控えめながらも、わたしの部屋に上がりたがっているのが分かったけれど、わたしの部屋は樹海にも似た混乱の元になっているので人をあげるわけにはいかないのである。

 特に栞には見せられない。


「まあ、小川で水遊びしながら大自然を感じるのもいいじゃないですかぁー今日は風もあるし、割と涼しいかんじではあるし……」


「んーまあいいですけれども……」


 栞はなんとなく膨れて、どこか遠くに視線を投げやっているけれど、わたしが部屋の片付けをしていないのが悪いので申し訳ない限りである。


「でもさ、ほら街路樹みてみなよ。ぼんぼりだか提灯だかよく分からないけれど、今年は久しぶりにお祭りやるみたいだし、お祭り気分味わうのもええのとちがいますか?」


「なんですかその言い方……まあ確かにお祭り気分が全くないというと嘘になりますねえ」


「どうせわたしは休みの間ぐうたらするぐらいしか予定ないから一緒にお祭りに行ってみない? 栞の浴衣姿とかチョー見たい!」


「んま! 浴衣は確か一、二着合ったとは思いますけれど、なんかちょっと気取っているみたいで恥ずかしいですね……それより詩織さんの浴衣の方が私は見たいですよ!」


「えー恥ずかし……。ってか家に浴衣なんかあるかな? あれって買うと結構高いんでしょ?」


「まあ生地だけ買っちゃえばお小遣いでどうとでもなるみたいな話は聞きますから、一緒にお揃いの柄の浴衣でも作ってみません?」


「あーそれいいかもー。栞が浴衣着てる所見たいし、なんか眼鏡の女の子のうなじってちょっとエロい感じするしいいかも。ナンパとかされちゃうかしらねぇー」


「んま!」


 栞がとんでもないというように声を上げてなんだか恥ずかしそうにしている。


「いいねーお祭り。暑い時期にはいいと思うなあ……なんかそういう感じの小話ないの?」


 栞は両のこめかみに人差し指を当てて「ぬーん」とうめき声を上げている。


「そうですね……お祭りとはあんまり関係ないんですが、最近読んだ本だ本の中でちょっと珍しい感じのだとブラジル文学なんていうのがありますね」


「えっ。ブラジルって文学あるの? なんか暑くてラテンの血が入ってて、サンバとか踊っているイメージしかない!」


「偏見が過ぎる」


 栞は苦笑いしつつ、続ける。


「北朝鮮でさえ白南龍って作家ってがちょっと前にすこし話題になったぐらいで作家という職業あるんですから、そりゃブラジルにも文学や作家ってものはありますよ」


「へーイメージない。話の流れからするとサンバとか踊り狂うような本なん?」


「いえ、割と哲学チックな本ですね。マシャード・ジ・アジス『ブラス・クーバス死後の回想』という本なんですが、これが中々面白いのです。亡くなったのが二〇世入ってすぐの一九〇九年とかなんで完全に古典の部類に入るのですが、ブラジルだと断トツで人気のある作家らしくて、没後一〇〇周年の時には大統領まで行事に参加したぐらい盛り上がったそうですね。ネットですぐに写真というか肖像画ですかね? 見つかるんですけれど、アフリカ系の血を引いているので褐色の肌をしているんですが、西洋的でなんかやたらと知的な顔立ちをしているんですよ。今でいう所のイケオジってやつですかね? カッコいいおじさまです」


「栞の口からイケオジなんて出てくると思わなかった」


「ブラジルって南米では一番遅くまで奴隷制度が残っていたので、お針子をしている白人の母親と、黒人の血を引く塗装職人の父親としてお金持ちの家に住まわせて貰う代わりに労働力を提供するアグレガードという身分だったそうですが、ポルトガルの離島から奴隷船に乗ってブラジルにたどり着いたそうで、殆ど奴隷と変わりないような身分だったみたいです。食べていくのは何とかなったけれどそんなに恵まれた家庭ではなかったようですね。マシャード少年はそんな中で最大の幸運は当時としてはかなり珍しく、両親ともに文字の読み書きが出来る人だったそうで、一五歳で雑誌に詩を投稿したりしています。マシャードは『作品が作家の全て』といっていたようで、家族がいつ亡くなったとかの記録は探れるんですが、何をしていたのかは一五歳で注目されるまで自分のことを語らなかったため殆ど分かることはないみたいです」


「十五で雑誌に作品が載るって凄くない?」


「凄いですねえ。まあそんなこんなで書店に勤務しながら詩を書いたり演劇をつくったりと作家人生を歩み始めるのですが、当時の文壇というかサロン的な所に交わって、教養を磨いていったみたいですね。そこの先輩作家の妹さんと結婚したのですけれど、晩年の小説で理想的な仲のよい老夫婦が出てくるのですけれど、それは自分と奥さんをモデルにしているといっていたぐらいで、抜群の相性だったようですね。羨まし……」


「生まれは下層階級だったけれど成り上がった訳だ」


「はい。後に政府のお役人になって最終的には公共事業部門の部長とかになって、病気で勤められなくなるまで作家と二足の草鞋だったそうです。ブラジルの作家協会みたいなのが出来たときには全会一致で会長になっていたぐらいなので生前から名声を欲しいままにしていたようです」


「なんか文豪って死後に評価されるみたいなイメージあるけれど、割と生きている内に評価されたんだ、良き」


「作品の方なんですが『ブラス・クーバス死後の回想』は本の作者のブラス・クーバスが死んだ所から始まって、死人が人生の始まりから死ぬ所までを回想という形で書き記していくという死人が作家になったという面白い形式になっています」


「ああーだから『死後の回想』なんだ」


「ですです。お話は比較的単純で、ブラス・クーバスが歴史のあるお金持ちの家に生まれて、我が儘に育てられたんだけれど、留学させられて家を継ぐのに相応しい人間としての教育を施されて、父親からは政治家になって大臣まで上り詰めろと言われるのですけれど、本人はあまり乗り気ではなくて、適当に生活していくんですが、友人が政治家になった時にその奥さんが昔にお互い好き合った女性で、不倫関係に陥ったりするのですが、旦那も見て見ぬ振りしていたり、旦那さんが亡くなったときも奥さんは旦那の喪に服して、クーバスとは結局くっつかないで終わったり、クーバスも政治家になったはいいものの主流派から外れて、所属していた与党を批判する新聞をつくって批判したけれど、すぐに新聞も潰れて、最終的には心気症、つまり鬱とかそういう心の症状に効く軟膏を作り出したぞ! といったときにそれを広める時間もなく死んでしまうという所で話が終わっています」


「波瀾万丈っぽいけれど、なんかそうでもないの?」


「不倫にしても政治家にしても、窮地に陥った後に何か酷い目に遭ったりとかドラマチックな事も起きず、政治家になった、退職した、みたいに話が早すぎて盛り上がりがないんですよね。窮地に陥りそうになったり、人生が自分の放蕩で悪い方向に陥りそうになるんですが、決定的になる前に全部理性で回避するんですよ。そういう意味では盛り上がりのない話なんですが、とにかく話の展開が早いので飽きが来ないんです。五〇〇ページ以上あるんですが、全部で一六〇の章から構成されていて、長い章でも五ページとかですし、短いとワンパラグラフで終わってたりと、あっさり読めます。出だしのページはタイポグラフィが使われていたり、目次は巻頭ではなくて、最後に書かれていたりと、死に対する考えのようなものが練り込まれている変わった構成をしています」


「へーブラジルの作家なんて全然イメージ湧かないけれど、結構手が込んだことする人なんだ」


「ええ。でも、この作品は単純な娯楽でなくて、クーバスの子供の頃の友人が唱えた『ウマニチズモ』という奇妙な哲学が背骨として通っているんですね。普遍的な根本原理であるといって、哲学だけではなくて政治にも利用が出来るし完全に新しい宗教も作り出すことが出来るなんて大言壮言をいっちゃうのですが、ここら辺が単純な娯楽ではなくて、マシャードという人の思想を反映しているんですね。まあこの思想も最終的には意味がないという感じで放棄されるんですが、それまでは主人公も熱心にハマる訳です。それと特徴的なのが西洋の古典からの引用やパロディが凄い多くて、ここら辺は夏目漱石にも似ていますね。それまでの作品は社会の低層に生きる人々を啓蒙しようという考えもあったのではないかと言われているんですが、あんまりにも暖簾に腕押しなので、この作品を機に分かる人が分かればいいみたいな方向に舵を切ったんじゃないかといわれているそうです」


「なんか難しそう……」


「いえいえ、最初にいったとおり凄く単純な話ではあるんですよ。盛り上がりというか起伏はないけれど、お話としてはちゃんと面白いですし、南米の作家で最も偉大で重要な作家という評論家もいるぐらいなんですよね。ただですね、一つだけ問題があるのですよ……」


 栞は小川を足でちゃぷちゃぷ蹴り上げる。

 跳ね上がった水がキラキラと輝いている。

 彼女の横にはわざわざ水に強いるために脱いだ黒ストッキングが丸まっておいてある。

 栞の生足が拝めるのは中々珍しいことなので、記憶の中に刻み込んでおく。

 そういや栞、体育はテンでダメだけれど水泳だけは好きだっていってたなあとボンヤリと思う。


「はい、詩織さん! ここでクイズです。ブラジルの公用語は何語でしょうか!」


「えーと……南米だからスペイン語だっけ?」


「正解! といいたい所ですが、マシャードの両親がやってきたのはポルトガル領の離島というお話をしたとおり、植民地時代のブラジルはポルトガル領だったので、公用語はポルトガル語です」


「へー知らんかった」


「ここがマシャード・ジ・アシスという作家がブラジル国内の評価と違ってあまり知られていない所以なんですが、ポルトガル語って話せる人本当に少ないんですよ。最近だと『ガルヴェイアスの犬』という作品が日本翻訳大賞に選ばれてちょっとした話題になったのですけれど、ノーベル賞を取ったジョゼ・サラマーゴという人の作品も殆ど翻訳されていない上に、翻訳されたその本も長らく絶版になっていたというぐらいです。本当にここ何年かでポルトガル語の作品も翻訳されるようにはなってきたのですけれど、まあ失礼な言い方をするとマイナー言語の作品なんですよね。しかもブラジルのポルトガル語って本家のポルトガル語と比べても綴りは違うし発音も違うしで、ポルトガル語話者でも暫く滞在していないと話が殆ど通じないとかで、更にマイナー方向に突っ走っちゃっているのですよね」


「うわぁ面倒臭! それじゃあ他の国で読める訳ないじゃん!」


「そこなんですよー。いくら面白い作品を残していても海外で読む方法がないと、国際的な評価って定まらないんですよね。ついでにいうとマイナー言語の場合、スペシャリストが少ないので、翻訳の質が総じて低くなりがちというのもあるんですよね。英語とか一般の日本人でも話せる人ちょいちょいいるぐらいですし、専門家も過去の研究に立脚しているので凄い翻訳の質が高くて、駄目な翻訳はどんどん淘汰されちゃっていくので、やっぱりカバー人口の多い言語は強いです。ナギーブ・マフフーズというエジプトのノーベル賞作家がいるんですが、アラビア語も研究者レベルで詳しい人って中々日本ではいないので、翻訳された作品の日本語が怪しくって、面白いのは何となく伝わってくるんですけれど、文章の不案内さが勝っちゃって、よく意味が飲み込めないんですよね……」


「はー翻訳する人はみんな凄いと思ってたけれど、駄目な翻訳とかあるんだ」


「あるんですね。川端康成がノーベル賞取った年の候補に三島由紀夫も上がっていたんですけれど、彼の本の英訳が殆ど素人がやったもんだからそこで差がついたみたいな話もあります。まあ三島作品はドナルド・キーン先生というスペシャリストが訳していたりもするので全部の作品がダメ翻訳という訳でもないのですが、そんな小話もありますね」


「難しい問題なんだなあー」


「そーなんですよね」


 そういって栞は急に小川の中に入って立ち上がった。

 「石がぬるぬるしているけれど冷たくていいですね」なんていいながら、川の真ん中に入ってもくるぶしの上ぐらいまでしかないキラキラと輝く川面をチャプチャプとやる。

 わたしはボンヤリと眺めていたら、突然栞はニヤリと笑って「それっ」といいながら川を蹴り上げわたしに水を掛けてくる。


「わっ! 突然何を!」


「詩織さんが悪いんですよ! 私が暑いのとにかく苦手なの知っててこんな所で勉強会なんてするから!」


 そういっている間にも控えめながらも、パシャパシャ水を掛けてくる。

 汗ばんでいて肌にぺたりと貼り付いていたブラウスがたちまち水に濡れて透けてくる。

 なんか見られちゃいけない部分までスケスケになってきたので、わたしもやられっぱなしではいられないので小川の中に立ち、栞に向かって水面を蹴り上げる。

 二人してキャッキャといいながら時を忘れてじゃれ合った。

 その後栞がわたしに「こんな濡れスケの状態で家まで帰れません!」と泣きついてくることになるとは今はまだ知らなかった。

 わたしとしてはいい目の保養になったとだけいっておこう。

なんか無駄に長くなってしまいましたが、そんなこんなで比較的珍しい作品を取り上げてみました。

トリビアルな所や、哲学的内容にもっと触れるべきだったのかもしれませんが、まあ軽く読める感じの方がいいかなという思いで(十分長くなってしまった物の)短く納めました。

マシャード作品は他に『ドン・カズムッホ』という作品の翻訳が手に入ります。


ご感想や突っ込み、単純に雑談などあれば何でもお気軽に書き込んでいただければ励みになります。

書き込みは面倒という方は「いいね」ボタン押して頂けるとフフってなりますのでよろしくお願いいたします。

最近に限らず、折角書き込んでいただいた後にしばらく気がつかないことも多々あるのですが、気長にお待ち頂ければと思います。

現在新作を二本ほど書いていますので、更新速度は遅くなるかもしれませんが、たまにご確認頂ければ更新しているかもしれないので、たまーに覗いて頂ければと思います。

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