110アゴタ・クリストフ『第三の嘘』〈双子シリーズ三部作〉
アゴタ・クリストフの『悪童日誌』の三部作はこれで完結です。
構造自体が凄いという小説なので、はっきりとしたネタバレはしていないのですが、それでも純粋に楽しみたいのであれば、先に原作を読まれることをおすすめします。
本当に面白い読書体験になると思います。
「こういう語り方を、ナラトロジーつまり物語論や文学用語で『信頼できない語り手』といいます」
栞はこちらに顔をにじり寄せ、わたしと栞の鼻先の間にピンと人差し指を立てて、かみふくめるように、ゆっくりと一言一言語り出す。
そして指と二人の鼻先の間の間隔がどんどん狭まってくるので、なかなかエキサイタブルな感じがしてくる。
「なんなんスか? その『信頼できない語り手』っていうのは……」
栞の指と栞の鼻の頭とわたしの鼻の頭が密着するのではないかと言うぐらい近づき、栞の呼気がふうっとわたしの顔を撫でる。
「詩織さんが本を読んでいて、主人公が喋った情報って常に正確な話であると思っています?」
「えーと……ミステリとかで主人公が知らない情報とかあるのは、正確な情報ではないんじゃないかと思うけれど……」といいながら、些か近すぎる栞の目を覗き込む。
眼鏡の向こうは顔の輪郭がぐにゃっと屈折していて、どれだけ強い矯正がかかっているのかは、生まれてこの方眼鏡を掛けたことのないわたしには窺い知れなかったけれど、黒くてぶっといセルフレームの、何となく重たそうな、ややもすれば野暮ったく感じる眼鏡の向こうから、黒く濡れた瞳がわたしの目を覗き込んできている。
わたしが眼鏡を掛けたら、多分野暮ったくてダサいってクラスの連中に散々バカにされること請け合いだと思ったけれど、栞の顔には必要不可欠の欠けざるパーツとして、デンと鎮座在している。
そういえば眼鏡を掛けたことがないとはいったけれど、栞の眼鏡ふざけて掛けてみて、目眩がして気持ち悪くなった事がいつだったかあったのを思いだした。
わたしと栞の吐息で、栞の眼鏡が曇り出す。
「そうですね。主人公が知らないことや推測しているなんてシチュエーションは確かにあると思いますね。でも普通の物語小説ではあんまりないと思いません? 例えばそうですね……教科書に載っている作品でいうと『山月記』の主人公って嘘ついたりしているなんて思ったりします?」
「いやいや、しないです……」
栞は、ふうっと息を吐いて顔を遠ざける。
わたしの胸の鼓動はバックンバックンと早くなっていて、耳の奥で血管の中を流れる血の音が響いている。
今、血圧計使ったら、多分ボンッていって爆発すると思う。
「そうなんですよね、特に作品の主人公が嘘をつく必要って全くなかったりするわけなんですが、その嘘を積極的に利用している代表的作家がノーベル賞を日系移民として受賞したことで話題になったカズオ・イシグロなんですが、中でも『日の名残』という作品はプロットレベルでギチギチに固められていて、主人公の執事がいい加減なことをいっていたり、辻褄の合わないことをいっていたり、自分に都合のいいように事実を曲解していたりと……そんな話なんですね」
「あーなるほど。主人公が嘘情報ばらまいているから『信頼できない語り手』だと……」
栞がピンと立てた指をゆっくりとわたしの鼻の頭にちょいとのせて「ですです」という。
なんでこの人わたしの鼻頭に指乗っけてんだ?
わたしのこと好きなのか?
襲っていいっていってはるの?
「ま、そんなこんなでですね、胡散臭い語り手の話ではあるのですが、詩織さん『第三の嘘』読んだときにスッと頭の中にストーリーというか設定は頭の中に入り込んできましたか?」
わたしがゆっくりとトンボでも捕まえるように詩織の鼻の頭に人差し指でそっと触れながら「いやあ……なんか混乱しまくった……どの設定が本当なのか分からなかったし『ふたりの証拠』のラストで出てきた設定もなんか、ポッと出てきた話だから、なんか設定見落としたかなって思ったし、その後『第三の嘘』読んだらやっぱり前二作の設定と頭の先から設定違っているし、周りのお役所の話も、出会った人たちも、何か微妙に全部話がズレていて、それなのになんか後で更に話がまたズレて、結局何がどこまで本当なのか分からなくって、読んでて滅茶苦茶混乱した。わたしバカなのかなってずっと思いながら読んでた……」
栞がわたしの鼻をぐいーっと押し込んできたので、わたしもぐいーっとボタンでも押すように指に力を入れる。
栞が鼻声になりながらも何一つ気にする様子もなく続ける。
「そうなんですね。第一作の『悪童日記』では、全て真実のみを間違いなく正確に書ききることだけを至上命題にしていたのに、続く『ふたりの証拠』ではそれ自体がラストで揺るがされ、さらに『第三の嘘』では冒頭から設定が全く変わり果てているので、前二作とは全く別の作品を読んでいるのか? と錯覚させられますし、出てくる事実が話を読み進めるにつれてどんどんと変質していって、結局何が本当のところなの? ってなるんですよね。この『信頼できない語り手』って日本の作家だと芥川龍之介がそれにあたると、無理矢理カテゴリする人もいますけれど、まあ実際の所海外作品で効果的に使われているケースが目立つと思います。何にせよ、本当のラストまで読んでも、本当にこれでおしまいなのかという不安さに駆られま……むぐぐ」
二人とも鼻の潰し合いが限界に来たので、同時に指を離した。
栞の鼻が真っ赤になっているのでわたしも赤いお鼻の女子高生になっていることだろう。
鼻が潰れたので眼鏡がズレている。
何事もなかったかのように栞が眼鏡をくいっとただして、まだ鼻声のまま続ける。
「結局の所。全ては作られた話であり、二人の間に起きた悲劇も、実際はなかったのか? それとも本当の話だったのかと、どこまでも藪の中を連れ回されているような気分にさせられるんですよね。気のいい町の人も、酷い町の人も、殺したり殺されたりした人たちも、生きていたはずの人も死んでいたはずの人も、全部まやかしの中を歩いているんですよね。だからこそ『第三の嘘』に仕掛けられた途轍もなく大きなトリック。嘘や作者が設定を間違っていたとしか思えないような酷い矛盾も最後まで来ても確信のないまま受け入れるしかないと……そんな話ですね」
「うん。わたしが理解力ないから一々設定に引っかかってたんだと思ってたんだけれどあの設定とか、どう考えても設定ミスっている部分ってわざとだったのか……そうなると俄然『第三の嘘』が凄い作品だったんだって分かるわー」
栞はにっこり笑って「どうですか? アゴタ・クリストフ作品は?」とささやくように聞いてきた。
わたしは「久しぶりに読書が楽しいと思った。なんだか『第三の嘘』が理解できなかったけれど栞の説明聞いていたらそういう仕掛けなんだって分かったから、なるほどなーってなったし凄い面白かった! でもこうなってくるとマジでここまでで終わりなん? ってなるよね。後書きにも続き書けそうな余地があるし、続けられそうな書き方をしている節があるっていってたし……」そういうと栞は「ふーん」といってカバンから本を取り出す。
「『昨日』と『どちらでもいい』です。この二冊を読んだら、日本語翻訳されているアゴタ・クリストフ作品の物語小説は全て読み終わったことになります。あとは戯曲だけですね。『どちらでもいい』は数ページの掌編小説で、一時間もあれば読み終わりますし、『悪童日記』の三部作でも使われていた文章や、ネタ元になったタネの状態の断片も載っています。アゴタ・クリストフが亡くなった後に、色々な所の文章片っ端から引っ繰り返して見つけてきた文章だそうです」
「執念が凄い……」
「そして『昨日』は亡命してきた少年の外国での辛い暮らしぶりを描いているのですが、これがどうにも『第三の嘘』を書くときに、いったん書いたけれどまるごと削ったリュカの逃亡生活を流用しているのではないかという話で、この主人公は名前も設定も違うのですけれど、出た当時は『悪童日記』シリーズと繋がっているのでは? といわれたそうなんですが、これは作者が公で否定しています。まああれだけの大嘘を貫いた作者と作品ですから、そう思われても仕方はないですけれどね」
「んじゃあその本読んだらアゴタ・クリストフは大体読んだといって良い感じなの?」
いつもの顎とした唇の間に白くて細い、ピアニストの指を添えて「うーん」と唸りながら視線を宙に漂わせると「ま、そうですね。大体読み切ったといってもいいんじゃないでしょうか? あとは自伝と戯曲ぐらいですしね」といったので、ノータイムで「読む読む! 貸して!」といったら「んま!」と驚かれた。
「詩織さんが自分から本を読みたがるなんて……素晴らしい……」
「んな大げさな」
「まあまあ、そうですね。いいと思いますよ! 読んでください! アゴタ・クリストフは長編四冊を書き上げた後は体を悪くして、長期間の執筆時間を取ることが不可能になってしまったので、掌編や断片ぐらいしか残せない時期が長く続き、そのまま亡くなったのですが、この『悪童日記』シリーズについては、自分の中にいつも住み着いて離れない、オブセッショナルな対象であって、いつでも心の中にいるので書き続けたいということをいっていたので、もしかしたら幻の第四部が出ていたかも知れません。そう考えてみるのは面白いかも知れないですね」
栞が、取り出した本の表紙を撫でてこちらに渡してくる。
「でもさ。わたしは『第三の嘘』で終わってよかったと思うなあ。あれ以上続けていたとしたら、多分この作者なら満足のいく続編書いてくれるとは思うんだけれど、そうすると『第三の嘘』のラストの『列車。いいかんがえだな。』って台詞の重さと冷たいブラック・ユーモアみたいなのが台無しになる感じがしちゃうのよねー。読みたいか読みたくないかで言えば読んでみたいけれど、引き際としてはあの台詞が全てなんじゃないかと思うわー」
栞がちょっと驚いたような顔をして「詩織さんがそこまで考えているなんて思っても見なかったですね……いや、本当にそういう語り合い出来るのは本当に楽しいので私も嬉しいですよ!」といってパチパチと手を叩く。
ああ、そうか。
栞が言ってた、対面で本の感想をいいあえる機会が嬉しくて仕方ないという感覚が何となく分かってきた。
そう考えてみると、本を読むのは義務というわけでもなくて、本を楽しむために読んで、その後さらにもう一度本を楽しむために読むのか……と考えた瞬間に、何か腹の中にストンと落ちてきた。
栞の無邪気そうに浮かべている笑みを見ていたら、なんだかボンヤリとした気分になってきて、そうか、わたしはこの笑顔が見たいから、そして本を読むのはその体験を共有したいからなのだなと何となく頭の中にスイと理解が静かに侵入してきた。
次回の題材はまだ決めていないのですが、面白い作品をご紹介できれば名と思っています。
読むのがちょっとばかり追いついていませんが、じっくりとすすめでいければ名と思っています。
更新回数は週一以上のペースを保ちたいのですが、更新間隔ももっと狭めていけたらなと思います。
あとどうでもいい話ですが、この文章はpomeraDM200で打っているのですけれど、新製品のDM250が今までの不満を解消してくれる感じなので是非欲しいですね。
出だしの価格はPS5より高いみたいですが……、
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いつも通り長くなってしまいましたが、それではまた近いうちに!