101ヴィクトル・ペレーヴィン『恐怖の兜』
のっけから訳が分からなくなる、とにかく変な話が読みたいという向きにお勧めのペレーヴィンです。
ワケ分からない文学業界ではかなりわかりやすい部類に入っていると思います。
ワケが分からないなりになんとなく理解したような気になれるのは構成の見事さのなせる技だと思います。
「……と、いうわけでですね。ボルヘスって人を前に教えて貰ったじゃないですか」
「はい。なにがと、いうわけなのかよく分かりませんが、確か『伝奇集』とかお勧めしましたね」
「まあ、それでなんか凄い難しいんだけれど、一話一話は短いから頑張って読んでみたのですよ」
「おお! いいと思います! そのやる気は本当に良いと思います!」
「えへへ、褒められちった。で、なんか長いタイトルの話で〈壁のない砂漠は迷宮と一緒〉みたいな話があってさ、あー確かに砂漠の真ん中にぽつんと置いておかれたら出口見つからないなって凄い納得して、ボルヘスって人の話面白いなあーって初めてなんかそう思ったワケよ!」
「多分『エル・アレフ』に載っている「アベンハカン・エル・ボハリー、自らの迷宮に死す」ですね。私も大好きな話です!」
「よくそんなにすらすら出てくるね……まあ多分それだったと思うけれど、ボルヘスって人は何か無限とか迷宮とかそういうモチーフ多いよねって気付いたワケなんですよ! なんかいっていることは難しいけれど、確かになんかそういうのって、どこまで考えても終わりが見えてこないというか、その考えこそが迷宮……みたいなみたいな!?」
栞はニッコリと微笑むと、うんうんと頷きながら「凄く良い感じの考察だと思いますよ! ボルヘスはそういうモチーフ好きで、集合論とかにも詳しかったみたいですね! 『記憶の図書館』というラジオ番組の対談集めた本があるのですが、そのインタビューを読むともっとボルヘスの本質にぐっと近づきますよ! 今でいう所の〈解像度が高くなる〉ってやつですかね!」といって褒めてくれた。
「へー『記憶の図書館』ねぇ。何だっけアレ「バベルの図書館」って話しあったよね。図書館モチーフとかわたしたちにぴったりじゃない? ちょっと挑戦してみようかしらぁー!」
「今度持ってきますね! まあ二段組みで七〇〇頁以上あるので中々挑戦しがいのある本ですが、ボルヘスに興味あるならマスト・バイですね!」
「うっ頭が……わたし二〇〇頁以上ある本を見ると記憶が曖昧に……」
栞はなんだかつまらなさそうに「えー……」とだけいったけれど、すぐに気を取り直して「じゃあ、三時間かからないぐらいで読める〈迷宮〉を味わえる本とかどうですか?」と、聞いてきた。
「あー、そのぐらいだったら栞と出会って以来、読書経験を積み重ねに積み重ねてきた百戦錬磨の読書人であるわたしにかかればちょちょいのちょいですよ!」
なんていっていってみた。
「ふふふ、私が時々いっているなんだか訳の分からないけれどとにかく面白い本ってカテゴリーの本ですよ! 訳分からない話業界の中では割と読みやすい部類に入る本です」
「ワケの分からない本業界ってのがあるの……?」
栞は、んふふと不敵な笑みを浮かべると「ウラジミール・ソローキンの『愛』って短編集ありましたよね。あのソローキンと大体同年代の作家で、ヴィクトル・ペレーヴィンという作家がいます。ロシアの前衛作家の中だと凄い売れている作家ですね。ラテンアメリカの文学の話で〈マジック・リアリズム〉ってお話ししたことあると思いますけれど、この人は〈ターボ・リアリズム〉といわれるジャンルの作品を書いています。一言で言うと幻想小説SF風味って感じの作品ですね!」
「へー。幻想小説とかSFとか詳しくないけれど割と好きな部類かな……。それになんかそういうの読んでいると玄人っぽくてかっこよくない!?」
栞はツーンとして「読書は見栄でするものではありません!」といった。わたしは「ごめんごめん栞ちゃぁーん」と猫なで声で栞に絡みつくとお腹といわず胸といわずこちょこちょと揉みしだいた。
「あはっ! あはは! ちょっとやめてください! そこそんな所触ってはいけません!」
「よいではないかよいではないかー!」
なんて調子づいて暫く絡みついていたら、なんかいけない扉が開きそうになっていたので何か益々興奮してきた。
それはそうとじゃれついている所を誰かに見られたらヤバいと思ったので、時間を忘れた頃に正気に戻り、一休みした。
栞は乱れきった制服をギュッとたぐり寄せ、ぽつりと「汚れちまった悲しみに……」と呟いた。
とりあえずお互い正気に戻り、本の話に戻る。
「えーと、ヴィクトル・ペレーヴィン『恐怖の兜』です。角川書店の「新・世界の神話」というシリーズの第三弾で、日本のロシア文学協会の会長されている中村唯史先生の翻訳ですね。冒頭で詩織さんもご存じのボルヘスの「だれひとり本と迷路が同一のものとは気づかなかった……」という言葉の引用がされています。作家にとってボルヘスの存在の大きさが分かりますね。どんな感じの話かというとクレタ島のミノスのラビリンスの神話はご存じですよね?」
「あーなんか聞いたことはある気がするけれど思い出せない……」
「ギリシャ神話のミノタウルスの話ですよ! クレタ島ミノス王の妻パシファエがポセイドンから贈られた白い雄牛と交わって産まれたアステリウス……人間の体に牛の頭がついたミノタウルスですね。これに恐怖したミノス王が工人ダイダロスに地下迷宮を作らせてミノタウルスを閉じ込め、毎年アテネから送られてくる七人ずつの少年少女を生け贄にするのですが、アテネの王子テセウスがこの中に混ざり、ミノス王とパシファエの娘アドリアネから貰った糸玉を使ってミノタウルスを倒した後迷宮を脱出する……まあそんな話ですよ」
「はいはい。ダイダロスとかアドリアネとか聞いたことある。あとミノタウルスはゲームとかに出てくるから流石に知ってるわ」
「まあ最近の調査で、クレタ島の地下に実際迷宮があったかどうかの論争に、やっぱりなかった! って結論が着いたんですが、まあそれはおいておくとして、そのミノタウルスの神話がモチーフになっています」
「続けて……」
栞は乱れた制服をピッと延ばして居住まいを正す。
「設定がまず面白くて、男女八人がベッドとパソコンだけが置いてある部屋の中で、それまでの記憶をなくした状態で気がつくんです。みんな一人だけで部屋の中にぽつんと置かれていて、やりとりは全てチャットで行うんです。お互いの職業とかは全部監視されていて伏せ字にされちゃうんですね。そんなこんなでお互いの知り得た情報を共有しあって、なんとか部屋の外に広がる迷宮から脱出しよう……というか現状把握をしようというようなお話です」
「へーなんか面白い設定だねぇ」
「はい。そこには「恐怖の兜」を被った巨人がいて、さあどうするという話なんですが、その情報は、登場人物の一人でアドリアネというハンドルネームを与えられた女性の見た夢の中に登場する小人達から得られた情報が元になっていて、ここら辺から哲学の問題になったりSFのテイストが加わったりするんです。小人がいうには「恐怖の兜」は「迷宮分離装置」や「正面網」や「豊穣の角」それからまあ色々と不思議な名前のついた装置で出来ていて登場人物達の感覚に色々と作用するわけなんですね。ここら辺はもうそういうものだと思って深く考えずに読んでしまって良いと思います」
「わたしはもうすでに全然理解してないから平気」
「まあ理解出来ないままでも楽しければいいんですよ、読書なんて。で、最終的に解決したかしてないんだかよく分からないまま終わるんですが、妙に楽しいんですよね……色々と仕掛けがあったり、自分たちがいける範囲内で迷宮を彷徨ってている時に出会う不思議な構造物や人物達との会話から謎解きをしていくんですが、本当によく分からないんだけれど何となく説得力があって、あーなるほどね! みたいな感じで進んでいきます。基本的にチャットのログだけで話が進んでいくので、サクサク読めますねえー」
「あっ、わたしそういうの好き。さくさく読めるのが良いです!」
「よろしい。でですね、まあこの本読んでいれば現代ロシア文学に詳しいみたいな雰囲気出しても許される気がします。何をおいても形から入る詩織さんにはうってつけかも……」
「えーそうなの? いいじゃんそれ!」といった後で何となく引っかかるものを感じたけれど気にしないことにした。
「後は補足情報として、このペレーヴィンは仏教思想に傾倒していて既に悟りを得ているだとか、涅槃に入っているとか滅茶苦茶な噂が流れているんですね。公の場にもめったに姿を現さず、一人でいるときも常にサングラスをかけていて、インタビュアーにサングラスをとってくれないかと言われたときには、君がズボンを脱いだらねなんて返したりしています。ちょっと思想的にグルジェフっぽいところありますね」
グルジェフが何なのか分からなかったので適当に分かったような顔をして「ふーん」などといって流す。栞は特に気にしたような様子もなく話を続ける。
「で、まあ変わり者なんですが、各国の翻訳者の質問には丁寧に答えていて、ロシア語から翻訳するのが困難な言葉遊びの改変なんかにも翻訳者の裁量に任せていたり、結構な紳士らしくて、来日の折翻訳者の方と面会したときにも、サングラスはかけたままだけれど常に懇切丁寧に話を聞いてくれたそうです。日本滞在中は時間の許す限り日本での様子を事細かくパソコンに打ち込んでいたそうで、実験的作風が多いながらも、プロットが極めて綿密なのもこの真摯な態度のおかげなんだなという人らしいですね」
わたしは、なんだか既に迷宮に囚われたように「ほーん」といって、頭の中では既に分かったような分からないような曖昧な感じになっていて、とりあえず「読んでみる!」とだけいったけれど、なんかもう読んでも多分理解出来ないんだろうなというような雰囲気になっていた。
「詩織さん……戦う前から思考放棄をしてはだめですよー……そういう悪い娘にはー……」
と、いって何か考えている振りをしていたわたしと視線が合った瞬間、お腹といわず胸といわず揉みしだいてきた。
栞がこんな行動に出るとは完全に、想定の範囲外だったので、無防備に筋肉が弛緩している所を攻撃されて「うひゃうひゃ、あはは!」となすすべもなくやられてしまった。
「栞! だめっ! だめ! ステイステイ! あっ、そんな所触っちゃ駄目!」
等とおおよそ図書室であげて良い台詞でない言葉をあげつつ、やたらと熱い吐息を吹きかけてくる栞の頭を掴んで悶絶していた。
もう思考回路は迷宮に入り込んでおり混迷の極みに陥り、いつ果てるともない謎の世界に入り込んでいってしまった……。
というわけで、書きながら自分で「なんだこの話……」となってしまいましたが、ペレーヴィン自体は本当に面白い作家なのでお勧めいたします。
なんか恐ろしく内容のない話だけれど、まあたまにはこういう話もいいでしょうと勝手に納得しています。
それはそうとして、ロシアの同時代小説家としてあげられるソローキンなどに比べると圧倒的に読みやすい作家ですので、前衛文学に挑戦してみたいという方にはこちらから挑戦して頂くのがいいかもしれません。
本の話もしたいのですが、もちょっと登場人物がイチャイチャしているだけの特に中身のない話も書けたらいいかなぁとぼんやりと考えているところです。
中身のない話という部分だけは毎回達成しているような気もしますがまあいいでしょう。
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割と古典が続いているので、次に取り上げる本も現代の作家でと考えております。
シチュエーション以外のとりあえずネタ本を読み終わらせる所は終わっているので、また近々に更新したいと考えております。
翻訳業界では三十年経つと古典となるそうで、三十年ごとに新訳を出せればいいねという感じだそうですが、そのたび話の理解度がアップデートされるのは読者としては嬉しい経験になりますね。
そんな感じでよろしくお願いいたします。




