イノセンスで無邪気な
おまたせしました
それから俺は草原の中にポツンと1人、ジッと女の子の帰りを待っていた。
未だに心臓をバリバリッとと裂かんばかりの恐怖とふんわりと柔らかい言葉は身体中に染み付いて取れない。そのせいでサラサラと流れる風以上に、バクンバクンと鼓動の音の方が耳に飛び込む。体からはダクダクと冷たい脂汗が止まらない。
「ハァ〜……」
俺は悪魔と交わした約束を思い出しては、深いため息を溢れさせる。あんな約束を突きつけられては結ぶしかない。自分が助かるためなら、きっと誰だって…
そう思いながら俺は、自分のしでかしたことを1人、誰に向けたわけでもなく正当化させるのだった。
「じゃあ、助けてあげるよ。その代わり……」
悪魔はニタニタ笑いながらその約束を持ちかける。俺はなお掴まれたまま、黙って悪魔のお言葉を待った。
果たして悪魔はどんな約束をしてくるのだろうか。漫画やアニメで見るものは、超が付くくらい理不尽なものから毛先のごとく小さなことまで様々だが。
などとわずかな好奇心を上手く理性に繋ぎ止めて、なんとか恐怖に耐えていた。
「どっちか選んでよ。『自分が助かる代わりに、君の知らない赤の他人を私に差し出し、暮らしを得る』それか、『赤の他人を助けるために、自分が死ぬ』、どっちにする?」
「……そ、そんなの」
俺は一瞬戸惑い、言葉がつっかえる。
どちらかを選ぶのかで葛藤しているのではない。
約束が思っていたのと少し違ったからだ。てっきり寿命を少しもらうだとか、何か大事なものを1つ失うだとか、そういうものを考えていた。
しかし出された約束は、自分か、赤の他人かのどっちかだ。家族とか友達とかではなく。
考えるまでも無かった。俺の答えはすでに出ようとして、喉奥まで込み上げている。ただいくつか引っかかることが、ギリギリのところで蓋をしてくれていた。
「どっちにするんだい?」
「ね、ねぇ……ちょっと聞いていいかな?」
「んぁ? あんだよ」
「『暮らしを得る』って…どういう意味?」
先ほど悪魔はたしかにそう言った。自分が助かる代わりに赤の他人が犠牲になる、そこまでは理解出来た。しかし、『暮らしを得る』とはどういうことだろうか。今ひとつそこに共通点が見出せない。
すると悪魔はニコリと笑って、
「そのまんま。君、この後行く宛もないでしょう? だから君が助かろうってなら、その後の生活場所も提供してあげるって話」
と答えた。つまり、俺が赤の他人を差し出せば、命も今後の生活場所も保証されるというわけだ。たしかに俺が今助かったとしても、その後の生活までは頭が回っていなかった。思えば無一文でもあるわけだし。
「じ、じゃあ…もう1個…」
「まだあるん?」
「あ、赤の他人ってさ…本当に赤の他人?」
「うん。絶対に君の知らない人。その心配なら大丈夫だよ」
この悪魔はいったい何を根拠に言っているのだろうか。たった今会ったばかりなのに、何故俺が犠牲に出すであろう赤の他人が、赤の他人と分かるのだろうか。
それもさらに聞こうと思ったが、悪魔の少し目つきが少しキツくなったから言葉はずるりと引っ込んだ。これ以上待たせては、悪魔に食われかねない。他人の件はきっと悪魔の力でどうとにでもなるんだろう。そう勝手に納得しながら。
「分かった……」
「ふぅん、で、どっちにする?」
「……差し出し……ます。『赤の他人』を……」
最初から選択肢など無かった。少なくとも今の俺には。
赤の他人を救った代わりに母さんと俺を殺した俺に、赤の他人の贄になることは出来なかった。
「オッケー、約束成立。じゃあ、そこで待っててねー!」
悪魔は俺を適当な木株の上にほむっと乗せると、ニコッとイノセンスな笑顔をこっちに見せた。あんな恐ろしい約束を出した女の子とは思えないほど、屈託無い笑顔だった。
いや、違う。きっと心の底から純粋だから、平気で恐ろしいことを言えるのだろう。
まさにあの髪色のように。
そう思っていると悪魔はふわりと宙に舞い、どこかへと飛んでいってしまった。羽も無いのによく飛べるなぁ、なんて目で見ながら俺はその場に呆然と立っていた。
あれから30分は経っただろうか。黒髪を日差しがチリチリ照って熱を帯びて来るから、だんだん頭がぼぉっとして来た。しかし先ほどのことを思い出せば鳥肌が全身に湧き上がるから、熱を冷ますのにはちょうど良かった。
俺は髪をヂリヂリと焼くお天道様を見つめながら、心の中で他人を犠牲にしたことを謝罪した。客観的に仕方ないと言えども、自分の中では罪悪感が渦巻き続けていた。
果たして俺はこの十字架から逃れられるだろうか、いや決して逃れられないだろう。卑怯者だと自分の後ろ指で自分の背中を指しながら。母親と自分と赤の他人を犠牲に、俺は今後生き続けるのだろう。
死ぬ勇気は出なかった。脳裏を、体をあの痛みがよぎったから。死ぬ痛みを知ってしまったから。
ポッ…
「……?」
なんて憂鬱な俺の心を体現するかのように、空を黒く厚い雲が覆ったかと思えばポツンポツンと雨が降って来た。どこか雨宿り出来る場所はないか、と思った時には、
ドォオオオッ!!
「ひゃーっ」
雨粒が強く草原を打ち付けていた。俺は慌てて木株から飛び降り、近くにあった木の下に向かった。
と、次の瞬間、
パァンッ!!
と目の前が真っ白になったかと思えば、鼓膜をドンッと大きな音が襲った。あまりの光量に俺はしばらく目が見えず、ヨロヨロと無い足をふらつかせていた。その間、耳にパチパチ、鼻にツーンッという感覚が走る。それで俺は目の前の状況を予想しつつ、うっすらと目を開ける。
そこには、おそらく雷が落ちたのだろう。バリバリと音を立てながら火に包まれる木の姿があった。
しかもその木は先ほどまでそこで雨宿りしようとしていたから、もしあと一足早かったらと思うとゾッとする。雷が鳴ったら木の下に避難するというのはいけない行為なのは、かなり有名な話だろう。
俺はビクつきながらその場から離れる。雨脚が強まって来たのか木の火も徐々に小さくなっていき、幸いこのまま火事になることはなさそうだった。しかしこのまま雨に打たれ続けては風邪をひいてしまう。
と思ていると、
ババババババッ
「あれ?」
「降って来たねぇ〜」
気がつけば頭上には傘があり、バババッと俺の代わりに雨を受けてくれていた。俺はハッと振り返るとそこには、純粋無垢な悪魔が傘を持って立っていた。俺が濡れないように傘を持ってくれているから、悪魔の体はずぶ濡れだ。
「行こっ、この雨、しばらく止まないよ」
「……はい」
悪魔はそう言って俺に傘を手渡すと、先導するようにスタスタ行ってしまった。俺は傘の大きさにフラつきつつも、しっかりもみあげで支えて後ろについて行く。
「はいここ。扉の鍵も渡しとくね。一応除霊済みだけど、なんかあったらここに連絡くれ」
悪魔が案内したのは、ごく普通のアパートだった。中に入ると、室内はインテリアもチマチマ置いてある。
まさについ先ほどまで誰か住んでいた、って感じだ。そして悪魔は1枚のメモ書きを渡すと、そそくさに扉へと向かっていった。
メモに目を通すとそこには電話番号と、『魔法の呪文、羽田美月!』と子供のような字で書かれていた。
「こ、この呪文、何なんですか?」
たまらず俺はそう尋ねると、
「そのまんま。その呪文を唱えれば、どんな霊も逃げてくよ。まぁ、万が一のことがあったらその番号に電話してくれ。この私がすっ飛んでくからさ」
とあっさり返された。この名前みたいな呪文にどんな効果があるかは知らないが、おちゃらけているものの面白半分で言っているようには見えなかった。
「…そうですか」
俺が強引に納得すると、悪魔はバァイッと言って出て行ってしまった。
こうして俺はこの暮らしを、赤の他人を犠牲にすることで手に入れたのだった。
次回の投稿もお楽しみに




