絶望は違うのだろうか
僕は今日もあの四角の部屋にいた。
足元には奇妙な模様が描かれている。様々な現代的な器具とはミスマッチな模様は、チョークなどで表面的に描かれているのではなく、刻み込まれている。
これもきっと〈悪魔〉関係だろう。
「けほっ……」
咳き込んだ拍子に、ごぽ、とまた喉の奥から熱い液がのぼってくる。喉を焼きながら逆流してくる液体を、吐き出す。
この行為も今日四度目だ。
今日はもう何時間経っているのか。実は数十分しか経っていないのか。
時計は、僕のいる空間にはない。僕は与えられることに身を委ねることしか出来ない。
黒い液体が、ほら、また僕に向かってやって来る。
メリーも、彼女も今、こうして耐えているのだろうか。
苦しい、と言ったときの彼女の表情は、苦し気というよりは哀しげだったことを思い出した。目が、ぼんやりと虚ろの間をさ迷っていたことも。
どうか、まだ彼女が負けていませんように。頭の隅で祈らずにはいられない。
同時に、勝ち負けであるなら、僕らは一生勝てないとも考えてしまう。事実だ。哀しい事実だ。
僕らには、たった一つの道しか用意されていないのだろうか。手を取り合うことなく、一人で死ぬしかないのだろうか。
意識が朦朧とし始める中、考え始めたばかりのことを、頭の片隅に放り込む。
僕の頭の片隅には、そんな風な、考えても仕方のないことが乱雑に置かれている。
「成功したぞ!」
僕が部屋の外に出ることが許されたときだった。大きな声がした。
大きな声は、同じことを何度も何度も言っている。壊れたみたいに、何度も。
声の主自体は離れていっているようだが、声と言葉が通路に反響する。
いくつかの足音も響いている。何だか騒がしい。その足音に、
「本当か!」
僕の前にいた大人も加わった。
建物中で同じようなことが起こっていると思われ、僕が呆然と立っている内に、何人もの大人が目の前を通って行った。僕の側にいた大人はもうとっくに走っていった。
彼らは前ばかり見て、僕のことなんか気にしなかった。それどころか、転んだ人がいたが、笑顔をその顔に浮かべたまま転び立ち上がり、再び走っていった。
何だろう。
僕はこれ幸いと、部屋を出たばかりの壁にもたれかかっていた。解放されて出てきたばかりで、頭がはっきりしない状態で、さすがに疑問に思う。
さっき、なんと叫んだ人がいた。「成功した」直後、大人たちは途端に喜び、駆けていった。
僕もまた、大人たちが一様に向かった先へと進みはじめてみた。
胸にあるのは、好奇心か恐怖か胸騒ぎか。
好奇心であったとして、純粋な好奇心ではないだろう。
恐怖であれば、「成功した」という言葉の真意を確かめることと、自らの今後を予想したために生まれたのだろう。胸騒ぎであるとして、それは――
何が僕を駆り立てたのか、分からない。
分からない。
僕は歩き、容易に場所を突き止め、他のことにまるで注意を払わない人垣の中を這うように進んだ。
蹴られ、踏まれ、痛みが走る。
でも、進まずにはいられなかった。胸がどくどくとしている。
そして、僕は見た。
「……メ、リー……?」
僕がいた部屋と同じ、四角の部屋の中、中央に立つ少女を見た。
僕がいつも話していた彼女、たった一人僕と会話し笑っていた少女だ。見間違えるはずがない。
けれど、確信を持った言葉を出せなかったわけがある。
色がおかしい。
彼女の髪は薄い茶色なのに、目の色も同じ、琥珀色に近いきれいな色なのに。そうだったはずなのに。
「め、」
大人たちの隙間から覗いた先で、鎖に繋がれて突っ立っている少女が、ふらりとこちらに視線を寄越した。
完全に虚ろな目を。僕に。
不気味な紫が蠢く、光を反射しない髪。それと、目。やけに鋭い歯。
彼女は死んだ。
彼女はいない。
あれはメリーじゃない。
メリーは、メリーは。
我に返ったときには、僕は一人だった。
僕以外には、誰もその通路にいなかった。
広々とした、幅の広い、暗い通路に僕は一人だった。とても寒い気がした。
ここに来ても歓喜、狂喜の声が聞こえる。
おそらく、大人全員があの場に集まっているのだろう。
他の子どもは、どこにいるのだろう。あの広い部屋か、小さな四角の部屋の中に閉じ込められたままなのか。
どちらでもいい。
僕にとって大切だったものは、もういない。僕がここで僅かながらにでも、ただ生きるだけにはならなかった理由はもうなくなった。
頭の中に、ざわめきがあった。
一つの声か複数の声が混ざっているものか、判別できない声、何を言っているのか理解できない声、箱みたいな小さな真四角の部屋で決まって聴くことになる声だった。
何も考えたくなかった。思考を閉ざしてしまいたかった。
あの子がこれから側にいないことを認めたくなかった。直視したくなかった。
でも、思考を閉ざすことなんて意識的に出来そうにもなかった。
じゃあ、反対のことをすればいい。余計なことを閉め出して、閉ざすのではなく。ざわめきでいっぱいにすればいい。理解の出来きなくなるくらい、気が狂いそうなくらいに。
狂ってしまえばいい。
僕はあのとき、彼女の名前を呼ぶしか出来なかった。僕はあのとき、こう言うべきだったのだ。
と。
ざわめきが大きくなる方向と、僕が行くべき方向は一緒だった。考えてみれば当然なのか。
黒い扉にたどり着いた。
僕が見た二度に渡り、開いていなかった扉は開いていた。
信徒たちが閉め忘れたのだろう。僕は足を止めることなく、ぺたりぺたりと確実に扉へ近づく。
手を伸ばす。ドアノブはひんやりと冷たかった。捻ることはなく、引く。
分厚い扉は多少重いが、それ以外には何の抵抗もなく、目の前に室内をさらけ出した。
中は暗かった。
電気が通っていないわけではないことは、機械に点ったランプで分かる。
赤、緑、青……。
部屋は広かった。あちこちで、小さなランプが点滅している。
大小様々な機械があり──部屋の中央に位置する位置に、球体があった。
台座に固定された球体は、僕が手を伸ばしても届かないくらいの場所にある。それはぼんやりとした灯りで照らされていた。
まるで、神聖なもののように。
「いたい……」
思わず立ち止まり、足を見下ろす。
きらりと、光を反射させるガラスの欠片が、いくつもいくつも散らばっている。
その元は、試験管のようだった。形を留めている試験管と、粉々になって散り散りのガラスと化した試験管、下だけが割れた試験管。
割れた試験管から流れる液体が、筋を作る。
液体は、黒い。
傍らにワゴンがある。仕切りがされていて、三段、物が置けるようになっている。そのいずれの段にも、試験管が立ててある。
液体が入っているものが半分、入っていないものが半分。チューブが突っ込まれたままのものが三本。
チューブは部屋の横の奥へと伸びていて、光が届かない場所だったから、もう目で追わなかった。
冷たい、濡れる特有の感覚が、足の指を包み始めた。
床では、黒い液体が僕にまで手を伸ばしていたのだ。僕は、避けようとは考えず、再び足を踏み出す。ぴちゃり、と、液体が足の甲にかかる。
ガラスで切った足の裏はまだ痛みを訴えてきていたが、様子を見ようという気は全くしない。さっきから頭に靄がかかっているようだった。
『珍しい』
靄の中、意味の理解できる言葉が響いた。
僕はなにかに導かれるが如く、顔を上げる。上を向く。あの、透明の球体に顔を向ける。
先ほど、足の裏を刺されたことによってすぐに目を離したそこには、何かがいた。
『子どもね』
『人間の、子ども』
人型をした、ひたすらに美しいものがいた。
真っ黒な繭としか表現しようのないものに包まれた身体。
顔は、人と大雑把な構造は一緒である。髪と思われる長い、頭から流れるものもある。だから『人型』だと、大まかに認識したのだ。
けれど、目の閉じられた顔の造りは、人とは比べ物にならなかった。
芸術品と称したくなるが、人の手で作られ、人によって定義されるその言葉は相応しくない。
真っ黒だと思っていた繭と、髪に、不気味な紫が蠢いた。さっき、僕は、同じような色を……。
嗚呼、メリー
あれが〈悪魔〉だとでも言うのか。
その間にも、僕の頭の中のざわめきは耳を侵食し、身体を侵食していく。その中に、意味のある言葉が紛れ込んでいる。
僕は、酷い感情の波を感じた。悲しみではない。喜びではもちろんない。憤りでもない。
あれが〈悪魔〉であるのなら、僕はあれを憎むべきなのだろうか。だが、今、憎悪は生まれそうにもなかった。
言い表すことは不可能な感情をどこかで探りながら、僕はぼんやりと、目を〈悪魔〉から離す。
あそこにいるものが〈悪魔〉であろうと、僕は直接あれに用事はない。
〈悪魔〉の囁きは止まらない。球体の中にいるのは〈一人〉であるはずなのに、声は変化していて、別の声も聞こえる。
錯覚だろうか。僕が狂ってきたのか。それならば、上々だ。
『私、待っていたの』
『眠りに落ちていて、目を覚まそうとしたら、聞こえてきた』
『私にとびっきりの生け贄をくれるって』
『子どもを』
『純粋無垢な子ども』
『だから、待っていたの』
『そう、私子どもが好きなの』
『無垢な子ども』
『けれど、』
『あなた、真っ黒』
『好みじゃないわ』
『愚かな者たち』
『そのままくれればいいのに』
『化け物を造ろうとしたのね』
『でも、』
『そうね』
『絶望は好物』
僕は絶望していたのか。そのとき初めて自覚して、笑わざるを得なかった。
〈悪魔〉の声をよそに、僕は拾いあげた注射器の針をそのまま腕に突き立てた。
「メリー、僕も悪魔になるよ」
だから、一緒にいよう。迎えに行くよ。待っててくれるかな。
囁きは、強くなるばかり。
『あら、その涙だけは真っ白』
『最後の無垢の欠片かしら?』
僕は、僅かにあった柔らかな希望を失い、真っ黒な絶望の中に飛び込んだ。