序章 猫
※この話は『人戻し篇三 初夏の戦い』~『人戻し篇五 蒼と絶たれた望み 後篇』のスピンオフです。本編を読む前に、そちらを御参照頂く事を推奨します。
「じゃあなリサ。朝食前には戻って来る」
お姉ちゃんが私の部屋の前でそう言い、ウキウキと日課の早朝ジョギングへ出掛けて行った。
「ん……私もそろそろ起きなきゃ」
シーツから抜け出し、ドレッサーの上の櫛で寝癖の付いた髪を梳く。姿見の中の私は如何にもな病的な色白で、少しも健康そうではなかった。
パジャマのまま階下に降り、トイレを済ませてからキッチンを覗いた。バケットトーストとサラダ、豆乳スープも作れそうだ。先に用意出来ていれば、帰って来たお姉ちゃんも楽だろう。
材料を取り出しかけた時、ふと今日が何日か思い出した。ドアを閉めて自室へ向かい、壁掛けカレンダーに付けたシンプルな赤丸を確認する。
「あ……やっぱり今日だ。占いの日」
丁度一ヶ月前。行きつけのベーカリー『ル・モンド』で噂の占い師、エリヤ様に偶然遭遇した。そこで私と、一緒にいたトレジャーハンターのアレク・ミズリーさんは無料でそれぞれ預言を受けた。
(確か家の裏の、楡の樹の下だったよね?)
噂によると、彼女の占いは百発百中らしい。でも私の人生を変える物って、一体何……?
(怖い……デイシーちゃんに電話して来てもらおうかな?)
昨日旅行から帰ってきた新聞社の親友なら、検証記事になると言えば喜んで来てくれるはずだ。
でも、受話器を取りかけて考え直す。
(旅疲れでまだ寝ているかもしれないし、あくまで当人は私だもの。頼り過ぎちゃいけないよね?)
一週間前、背中越しに見えた凄く怖い聖者様。あの時も私、ショックで心臓発作を起こし迷惑を掛けてしまった。全然気にしなくていいって言ってくれたけど……無理だよそんなの。
結局一人で確かめる事にした。裏口を出て、今正に枝葉を伸ばし緑萌ゆる真っ最中の楡の下へ。
「え!?」
そこには想像だにしていない物があった。私のウエストより太い、彼の樹から折れた枝。そして―――黒髪を真っ赤なリボンでポニーテールにした女の子。
「だ、大丈夫!?」
黒縁眼鏡の彼女は、これまた黒い卵状の物体を大事そうに抱えたまま気を失っていた。恐らく落下した衝撃で頭を打ったせいだろう。
お医者さんの見よう見真似で呼吸と脈拍を確認する。――良かった。取り敢えず異常無し。
(でもこの子、どうして樹の上なんかに?)
一応折れた楡を見上げるが、登る理由になりそうな物は特に引っ掛かっていなかった。
見覚えの無い顔だ。旅行者?親御さんはどうしたのだろう?今頃探しているなら知らせないと。
真っ白なブラウス、膝下まである赤いチェックのスカート。白いパンプスまで視線を動かした所で目が釘付けになる。――靴下を履いた右足首が真っ赤に腫れ上がっていた。触ると吃驚するぐらい熱い。どうしよう……折れたかまでは分からないけど、炎症を起こしている。
「と、とにかく中へ運ばなきゃ!」
苦労しつつ何とか背中に意識の無い彼女を抱え上げ、裏口からリビングへ戻る。ソファに横にさせ、私は棚の中の薬箱を取り出した。手当てに必要な包帯や消毒薬、手の甲の擦り傷には絆創膏も必要だ。ところが、
「しまった!こんな時に限って……」
数日前整理した際、殆どが古くなっていたので処分してしまい、しかもまだ買い足していなかった。箱の中には小さい絆創膏が一箱残っているだけだ。とても足りない。
女の子の方へ振り返る。痛むのか、気絶した彼女の額にはうっすら脂汗が滲んでいた。迷っている時間は無い。
「ごめんなさい。ちょっと行って来るね」
私は謝って自室に戻り、外出着に替えて家を飛び出した。まだこの時間では商店街の薬屋は開いていない。罹りつけのシャバム中央病院で、夜勤明けのナースさんに頼んで分けてもらおう。
早朝と言う事もあり、病院前には誰もいなかった。毎月のように来る受付へ行こうと入口のドアを開ける。
「おや、リサちゃん」
「先生!」
受付でナースさんと話していた主治医のおじさんは、くたびれた白衣で腕を上げた。いつもはちゃんと剃れている髭も無精に伸びている。どうやら当直明けらしい。
「おはよう。どうしたんだいこんな朝早く?また心臓の具合が良くないのかな?」
「ううん。あの、先生」
首から提げた聴診器を触る主治医にそう応え、咄嗟に考える。――あの子、何か訳ありなのかもしれない。あの物体といい、人の家の樹に登っていたのもそう。目覚めて事情を聞くまで、他の人には内緒にしておいた方がいいかも。
「家の裏で野良猫が脚を挫いちゃったんです。それで、出来たらいつもみたいに手当ての道具を分けてもらいたくて」嘘を吐きながら、財布から紙幣を取り出す。「これで足りますよね?」
「あ、ああ。でもリサちゃん、その猫大丈夫なのかい?先生から知り合いの獣医さんに電話して、往診に行ってもらおうか?」
「う、ううん!大丈夫!先生を呼ぶ程の怪我じゃないんです」骨折の可能性はあるけど。
「そうかい。でも容態が変わったら、すぐに電話してくるんだよ?いいね?」
「はい」
「じゃあちょっと座って待ってて」
ロビーで五分程彼女の治療手順について考えていると、先生はわざわざ丈夫そうな紙袋に入れて持って来てくれた。
「包帯と消毒薬とガーゼ、あと絆創膏も入れておいた。お代は構わないよ、私のポケットマネーから出しておくね」
「済みません。あ、あと私用に鎮痛剤が欲しいんですけど……あ、胸じゃなくて、最近少し片頭痛が」
それは本当の話。一日中工作室に籠もって機械の改良をしていると、夕方には疲れと姿勢の悪さで左側がじんじん痺れてくる。途中で体操を挟めば大分違うとお姉ちゃんは言うけど、如何せん集中し過ぎていつも時間の感覚が無くなってしまう。
「薬が要る程酷いのかい?来なさい、診察しよう」
「い、いえ、本当に軽い物なんです。それに今は全然平気だし」
「本当かなぁ?」疑いの眼差し。「症状が重かったら必ず言うんだよ?」
先生は再び調剤室に行き、処方箋と鎮痛剤の箱を持って来てくれた。
「心臓の薬は、今特に何も飲んでなかったよね?はいこれ、一日三回まで。強い薬だから必ず間隔は四時間以上空ける事」
「ありがとうございます、先生」
頭を下げてお礼を言うと、先生は不思議そうな顔をした。
「?どうしたんですか?」
「ああいや、早く猫ちゃんの所へ行ってあげなさい。待ち草臥れているだろうから」
「はい。じゃあ先生、お休みなさい」
私は小走りに病院を出て、真っ直ぐ家へと帰り着く。まだお姉ちゃんは帰って来てないみたい。
「ただい―――!!?」
玄関のドアを開けると、ソファの上で少女が上半身を起こして座っていた。片膝を立て、腫れた足首を無表情に眺めている。
「起きたのねあなた。大丈夫?痛む……よね?そんなに真っ赤なら」
「ヒビが入っています」
綺麗な声、でも抑揚は一切無い。
「え?」
「罅。落下の際に強打したようです」
見ただけで分かるのこの子?医学の知識があるのかな、見た感じ五歳ぐらいなのに?
「迷惑を掛けました。もう行きます」
突然彼女は卵状の物体を抱えたまま立ち上がった。そのまま、何事も無かったように右脚を引き摺って玄関へ歩いていこうとする。
「ちょ、ちょっと待って!?」
「何?」
何て冷たい口調、一切の感情が宿っていないかのような……。
「その脚で何処へ行くつもり?手当てするからソファに戻って」
人差し指で指示した私を、感情の無い黒の瞳で見つめ返す。
「何故?あなたに治療の義務は無いはずです。休ませてもらった事には感謝しますが」
「待ちなさい!」
自分で自分の行動が信じられなかった。再び玄関へ向かおうとした少女の前に立ち塞がり、両腕を広げて進路を妨害したのだ。弱気な私とは思えない強引なアクションに、心臓がドキドキする。
「駄目!今道具と薬を貰って来たの!横になって!」
「否、と答えれば?」
「引き摺ってでも治療するわ!」
背中を押して歩かせると、あなたの提案にも合理性があります、確かに今の状態では満足なパフォーマンスが出来ません、訳の分からない事を呟きつつ従った。
ソファに腰掛けた少女は卵を抱え直し、黙ってパンプスと靴下を脱いで足首を向ける。腫れは出掛ける前よりも酷くなっていた。痛々しい……。
「固定後冷却剤を当てる事を推奨します」
「うん、分かった」
アドバイス通り工作室から適当な金属片を取って来た後、冷凍庫で小さめの保冷剤を出してくる。まずは黴菌が入らないよう患部を消毒。続いて包帯と金属でこれ以上罅が大きくならないよう、鬱血しない程度にキツく固めた。擦り剥いた手の甲も消毒薬を塗り、絆創膏を貼る。
「はい。鎮痛剤」
最後に成人の半量の錠剤と水の入ったコップを渡す。彼女は少し考える素振りを見せた後、可愛らしい唇の中に放り込んだ。こくん、こくこくこく……。
「感謝します。では」
少女はまたもや立ち上がりかける。
「ちょ!待って!!」
「――まだ何か?」
「何かじゃない!どうしてまた出て行こうとするの!?」
「ここが完全な安全地帯ではないから」
「失礼な、私の家は安全よ!怪我人は大人しく寝てなさい!でないと」
「何です?」
「――警察に電話する。家に樹から落ちて怪我した迷子がいますって」
宣言した瞬間、彼女は微かに薄い眉を上げた。よし、効果あったみたい。
「あなた、ここにいる事知られたくないんでしょ?安心して、私は何も危害を加えないわ。言う事聞いた方が得だと思うよ?治るまでちゃんと包帯も替えるし、ご飯だって三食きちんと用意する」
言っている内に段々こっちが頼む感じになってきた。だってこの子、痛みなんて微塵も感じてない風だもの。
「だからお願い。その脚で出て行かないで」
少女は冷静な顔を崩さず、それは命令ですか?とだけ訊いてきた。
「違う。あのね、私本当に心配しているのよ?樹に登ってたのもそうだし……名前は?御両親は?何処から来たの?」
「答える義務はありません」
拒否の一言。首を横に振った拍子にポニーテールも揺れる。気分を害したようだ。
「あ、ごめんなさい……」
お姉ちゃん、寄り道しているのかな……?いつもなら一時間もすれば戻って来るのに。早く帰って来て欲しい反面、それをきっかけに少女が逃亡しかねないと思うと……。
「?何故謝罪を?」
「だって、訊かれたくなかったんでしょう?」
「私に感情は無いわ。答えなかったのは、あなたにその事項へのアクセス権が無かったから。それだけよ」
「そう、ね……私とあなたは会ったばかりの他人だもの。話せない事の方が多いよね」
どうやら今すぐ素性を聞き出すのは無理そう。だからと言って大人達に通報すれば、彼女を裏切る事になる。
私は立ち上がり、キッチンで薬缶に水を入れコンロに掛けて戻る。
「病院まで行って咽喉渇いた。あなたは何がいい?」
「……ブラックコーヒー」
大人みたいなリクエストをし、背凭れに半身を預けた。
「後で朝ご飯も準備するね。お腹空いたでしょう?一緒に食べよう」
こくん。頷く姿だけは年相応に可愛かった。




