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帰れない世界で、俺たちは。  作者: じょう 治


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第一章 見知らぬ世界 第一節 いつもと変わらない朝

「なあ、灯真」


「何だよ」


「今日って何曜日だっけ?」


「水曜」


「……マジか」


隣を歩いていた荒木田駆(あらきだ・かける)が、露骨に嫌そうな顔をした。


明るい金髪に、着崩した学ラン。鞄を片方の肩に引っかけたその姿は、どう見ても真面目な高校生には見えない。


「何だ、急に」


「今日、数学あんじゃん」


「あるな」


「宿題やってねえ」


「知ってる」


「何で知ってんだよ!」


「昨日、お前が自分で言ってただろ。宿題なんかやってられるかって」


「あー……そういや言ったな」


駆は悪びれる様子もなく、頭をかいた。


「なあ、ちょっと見せてくんね?」


「断る」


「即答かよ!」


「少しは自分で勉強しろ、このバカ」


「ひでえなあ。幼なじみが困ってんだぞ?」


「困る原因を作ったのはお前だろ」


「そりゃそうだけどさ」


駆は一瞬考えるような顔をしたあと、あっさり笑った。


「まあ、何とかなるか!」


「ならねえよ」


凪沢灯真(なぎさわ・とうま)は呆れたように息をついた。


黒髪をきちんと整え、学ランの襟元までしっかり留めている。鼻にかけた眼鏡の奥には、落ち着いた眼差しがあった。


隣で騒いでいる駆とは、見た目も性格もまるで違う。


それでも二人は、小学一年生の頃からずっと一緒だった。


転校してきたばかりで周囲になじめなかった灯真と、ある出来事をきっかけに彼と親しくなった駆。


それ以来、互いにとって隣にいるのが当たり前の存在になっていた。


朝の住宅街には、同じ制服を着た生徒たちがちらほらと歩いていた。


まだ少し肌寒い季節だった。


道路の向こうでは車が信号待ちをしている。


どこにでもある、ありふれた朝の光景だった。


「そういやさ」


駆が思い出したように口を開いた。


「今日、帰りコンビニ寄らね?」


「またかよ」


「新しい肉まん出たらしいんだよ。昨日、陽菜が言ってた」


「お前、昨日も何か買って食ってただろ」


「昨日はパン。今日は肉まん」


「そういう問題じゃねえ」


「いいじゃん、別に。灯真も食おうぜ」


「俺はいい」


「何だよ。うまいかもしれねえだろ?」


「食ったこともないのに、よくそこまで勧められるな」


「だから一緒に試すんだろ!」


駆は当然のように言った。


灯真は呆れたように息をつく。


「そんでさ、今日のそのまま、うち来ねえ?」


「急だな」


「別にいつものことだろ」


「まあ、そうだけど」


「久しぶりにゲームでもやろうぜ。陽菜もお前が来たら喜ぶし」


「お前の妹、最近は俺が行くとお前の悪口ばっかり言ってるぞ」


「はあ!? 何言ってんだ、あいつ!」


「この前は、アニキは脱いだ靴下を片づけないって延々と聞かされた」


「余計なこと言いやがって……」


「事実なんだろ?」


「……まあな」


「否定しろよ、そこは」


灯真が小さく笑う。


駆は不満そうな顔をしていたが、すぐに気を取り直した。


「ま、いいや。そんでさ、そのまま晩飯も食ってけよ。母ちゃんも喜から」


「今日は母さんに買い物頼まれてるんだよ」


「買い物?」


「ああ。帰りにスーパー寄って、いくつか買って帰らなきゃならない」


「じゃ、それ終わってから来ればいいじゃん」


「買ったものを家に置いてこなきゃならないだろ」


「別に待ってるって」


「母さん一人で飯食わせるのもな…」


「そっか」


駆はそれ以上、無理に誘おうとはしなかった。


少し考えてから、いつもの調子で笑う。


「じゃあ、また今度だな」


「ああ」


「でも、コンビニは寄るだろ?」


「……お前、まだ肉まんのこと考えてたのかよ」


「当たり前だろ!」


駆は胸を張った。


灯真は呆れながらも、口元を緩めた。


こんな会話は、これまでにも何度となく交わしてきた。


駆の家で夕飯をご馳走になることもあれば、灯真の家で二人してゲームをすることもある。


互いの家族とも、幼い頃からの付き合いだった。


だから、今日行けなくても明日がある。


明日が駄目なら、その次の日でもいい。


二人とも、そう思っていた。


「さてと」


駆が腕を大きく伸ばした。


「とりあえず、今日の数学どうすっかなあ」


「まだ言ってんのか」


「いや、結構深刻な問題だろ?」


「だったらもっと早く深刻になれよ」


「今からでも間に合うかな?」


「学校着くまでに教科書くらい見とけよ」


「お、そしたら教えてくれんの?」


「自分で読んで理解しろって言ってんだ」


「ちぇっ」


駆は口を尖らせた。


そのときだった。


ふいに、周囲の音が消えた。


灯真は足を止めた。


さっきまで聞こえていた車の走行音。


通学中の生徒たちの話し声。


どこかの家から聞こえていたテレビの音。


そのすべてが、突然途切れた。


耳がおかしくなったのかと思った。


だが、違う。


風に揺れていた街路樹の葉が、不自然なほど静止している。


目の前を歩いていた生徒の動きも、どこかおかしい。


まるで、映像の再生速度を極端に遅くしたようだった。


「おい、灯真」


駆も異変に気づいたらしい。


「何だ、これ?」


「分からん……」


灯真は周囲を見回した。


何かがおかしい。


いや、おかしいなどという程度ではない。


目の前の景色が、少しずつ歪み始めていた。


電柱が揺らぐ。


道路の白線が波打つ。


建物の輪郭が、まるで水面に映った景色のように崩れていく。


灯真は反射的に一歩下がった。


だが、足元の感覚が消えた。


地面を踏んでいるはずなのに、何もない。


身体が浮き上がるような、奇妙な感覚。


「灯真!」


駆の声が響く。


振り向くと、駆も同じようにバランスを崩していた。


「おい、何が起きてんだよ!」


「俺にも分からねえ!」


灯真は叫び返した。


考えろ。


何が起きている。


どうすればいい。


だが、状況を理解するよりも早く、視界が白く染まり始めた。


「駆!」


灯真が手を伸ばす。


駆も、こちらに手を伸ばした。


「灯真!」


互いの指先が触れそうになった、その瞬間。


二人の姿は、白い光の中へ消えた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

最初に感じたのは、風だった。


頬を撫でる、少し冷たい風。


続いて、土と草の匂い。


遠くからは、鳥の鳴き声が聞こえてくる。


灯真は目を開けた。


目の前に広がっていたのは、青い空だった。


雲がゆっくりと流れている。


「何だ?一体何が……」


身体を起こす。


足元には土があり、その周囲には草が生い茂っていた。


少し離れた場所には木々が並び、その向こうには森が広がっている。


そして、自分が座り込んでいるのは、踏み固められた土の道だった。


「……は?」


思わず声が漏れた。


さっきまで、確かに学校へ向かっていた。


住宅街を歩いていたはずだ。


それなのに。


「おい、灯真」


すぐ近くから、聞き慣れた声がした。


振り向く。


駆が地面に座り込み、呆然と周囲を見回していた。


「駆」


「なあ」


駆はゆっくりと灯真を見た。


「俺たち、さっきまで学校行く途中だったよな?」


「ああ」


「だよな?」


「ああ」


「じゃあ、ここどこだよ」


「俺が聞きたい」


灯真は立ち上がった。


足元の土を踏みしめる。


確かな感触があった。


風は冷たく、陽の光は眩しい。


頬をつねってみる。


痛い。


「夢じゃなさそうだ…」


「俺もそう思う」


駆も立ち上がり、制服についた土を払った。


「何だよ、これ。ドッキリか何かか?」


「こんな大がかりなドッキリがあるか」


「だよなあ……」


駆は頭をかいた。


灯真は周囲を見渡した。


道の両側には草原が広がり、その先には木々が続いている。


建物らしいものは見えない。


電柱も、標識も、車もない。


何より、人の姿がなかった。


「スマホ」


灯真は思い出したように鞄を探った。


取り出したスマートフォンの画面は、問題なく点灯した。


だが、通信状態を示す表示は圏外になっている。


「駄目だ」


「電波ねえの?」


「ああ。お前のも確認してみろ」


「おう」


駆もポケットからスマートフォンを取り出した。


何度か画面を操作したあと、顔をしかめる。


「俺のも圏外だ」


「そうか」


「GPSとか使えねえか?」


「試してみる」


灯真は地図アプリを開いた。


しかし、現在地を確かめられるような情報は得られなかった。


「駄目だな」


「マジかよ」


駆は大きく息を吐いた。


「どうなってんだよ、これ」


灯真はスマートフォンの画面を消した。


考えなければならない。


ここがどこなのか。


なぜ、こんな場所にいるのか。


どうすれば元の場所に戻れるのか。


だが、どれだけ頭を働かせても、答えにつながる材料がない。


「とりあえず、歩かね?」


駆が口を開いた。


「どこへ?」


「いや、どっか」


「行き先も分からず歩く気か?」


「だってよ、ここにいたって何も分かんねえだろ?」


灯真は黙った。


確かに、そのとおりだった。


ここには道がある。


ということは、少なくとも誰かが通る場所なのだろう。


人がいれば、何か情報が得られるかもしれない。


「まずは周囲を確認するぞ」


「おう!」


「道から離れるなよ。戻れなくなったら厄介だ」


「分かってるって!」


そう言いながら、駆は道端の草むらへ歩き出した。


「おい」


「ん?」


「今言ったばかりだろ」


「いや、まだ道のすぐ横じゃん!」


「まったく……」


灯真は呆れたように息をついた。


駆は笑いながら戻ってくる。


「大丈夫だって。お前もいるんだし」


「俺がいれば何でも解決すると思うなよ」


「別にそういう意味じゃねえよ」


駆は少しだけ真面目な顔になった。


「一人じゃねえってことだ!だろ?」


灯真は駆を見た。


そして、わずかに口元を緩めた。


「そうだな」


二人は改めて道の先を見た。


片方は緩やかな坂を上り、もう片方は遠くの森へと続いている。


どちらに進めばいいのか、まだ分からない。


だが、ここに立ち尽くしていても、状況は変わらない。


「よし」


駆が拳を握った。


「じゃあ、行こうぜ!」


「だから、まだどっちに行くか決めてねえだろ」


「……あ」


「少しは考えてから動け」


「へいへい」


駆は笑った。


灯真も小さく笑う。


何も分からない場所で、いつもと同じやり取りをしている。


それが少しだけ、不思議だった。


そして、少しだけ心強かった。


二人は、見知らぬ道を歩き始めた。

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