第1話「予兆」
その竜にあるのはーーー本能だけだった。
群れから外れた。
導く王もいない。
縛る掟もない。
ただただ、剥き出しの本能があるだけだった。
見えたから壊す。
聞こえたから薙ぎ払う。
そこには意思はない。
怒りも、憎しみも、理由すらない。
ただ在り、ただ壊す。
交渉も、改心も、後悔もない。
ただ現れ、ただ奪い、そして去っていく。
人の営みを容易く踏みにじる。
人々は、その存在をこう呼んだ。
『はぐれ』と。
そして、それがもたらす災禍をこう呼んだ。
竜による災い、竜の害
すなわちーー『竜害』と。
❖ ❖
テーゼの朝は、いつも静かにはじまらない。
石畳を蹴る荷車の音、パン屋から漂う小麦の匂い、孤児院の子供たちの笑い声。
それらが重なり合って、この街の一日が始まる。
アルベルト・ロッツォは、領主邸の執務室で、すでに3通の報告書に目を通していた。
商業組合からの、一部食品の輸入規制に関する報告。
騎士団からの警備配置の見直し案。
運送業組合からの、近隣国との関税率改定に関する意見書。
どれも緊急というほどではない。
だが、放置すれば小さな歪みが積み重なり、いつか大きな亀裂になる。
アルベルトは、提出された案と、過去5年分の類似案件を瞬時に照合した。
違和感のある箇所に小さく印をつけ、修正案を書き加える。
本人に言わせれば、
「違和感を探し、要因を排除しているだけ」
だという。
だが、周囲の人間はそれを「人外」と呼んだ。
執務室の扉が、控えめにノックされた。
「アルベルト、少しいいか」
ラスクをかじりながら入ってきたのは、この街の領主であり、執政官でもあるエリシア・ベルベットだった。
16歳。父の急逝からまだ数ヶ月しか経っていない。
未熟な新米領主。
そう揶揄される事を本人も自覚している。
そして、持ち前の実直さで、己の未熟さに日々必死で抗っていた。
アルベルトはペンを置き、静かに立ち上がった。
「行儀悪いですよ、リンがマネするでしょ」
「……いや、お前がくれたコレ、おいしくってさ……」
エリシアがソファに腰を下ろした。
手元には、昨夜遅くまで考えていたらしい、街の歳出見直し案が握られている。
「これ、見てくれ。私の案だと、孤児院の食糧費が削られてしまう。でも、他を削ると警備費か水利維持費に影響が出る」
アルベルトは書類を受け取り、目を通した。
数字の羅列の中に、エリシアの迷いと、それでも「誰かを犠牲にしたくない」という意地が滲んでいた。
「こちらの項目を、商業組合の臨時拠出金で補填できます。組合長は渋るでしょうが、説得材料は揃っています」
「……本当に?」
「はい。調整可能な範囲ですよ」
エリシアは安堵の息を吐き、ソファに深く身を沈めた。
「助かった。私ひとりじゃ、どうしても優先順位がつけられなくってな」
「あなたは優先順位を『笑顔の数』で考えている。それ自体は間違いではありません。ただ、笑顔を維持するための土台を、同時に支えねばならないだけです」
エリシアは少しイジワルな視線を向けた。
「……相変わらず、言い方だけは冷たいな」
「なんですか、それ?」
「『偏屈』、『冷血漢』……。お前をよく知らん連中の囀りだよ。
お前をよく知っている者たちはそれを『公平』、『冷静』と呼ぶ。
そして、そんな全員が揃って『執務に私心なし』とお前を結ぶ。
お前のその辺の超然とした態度が原因なんだろうな」
「別に気にしていませんよ」
視線を意に介さず、書類に修正の要点をササッと追記していく。
そんなやりとりをしているところへ、小さな足音が近づいてきた。
「ホサァー」
ドアの隙間から、白銀の髪をした少女が顔を覗かせた。
見た目は7歳ほど。名前はリン。
アルベルトの膝に、遠慮がちに上がってくる。
「リン、おはよう」
「おはよ……ホサ、今日も忙しい?」
「少しね。でも、君が来てくれたから休憩にするよ」
リンは満足そうに頷き、アルベルトの胸に額を押しつけた。
温かい。小さな体から伝わる熱が、執務の冷たさを溶かす。
エリシアが優しく髪を撫でた。
「リン、朝ごはんは食べたのか?」
「うん。マーサがね、パンケーキ作ってくれた」
「そうか。よかった」
3人の時間が、ゆっくりと流れる。
仲睦まじい、年の離れた家族。
そんなありふれた光景に見える。
16歳の領主と、人外と呼ばれる補佐官が、”神性”を帯びた少女を、何の特別扱いもせず、ただの子供として膝に抱き、髪を撫でる。
テーゼという街は、そういう場所だった。
❖ ❖
独立都市テーゼ。
四つの大国に囲まれた、完全中立の緩衝地帯。
女神信仰の根強いこの地方で、テーゼだけが信仰を強いず、政教分離を掲げた。
周辺国からは「不信心者が集う、変わり者たちの街」と揶揄されていた。
これには隠された理由があった。
300年前、この地にあったウォーケン領が侵略軍によって蹂躙された夜。
父と慕った領主の死をきっかけに、少女の"神気"が暴発し、一帯を「消滅」させた。
その伝承は『破滅の閃光』として今も語り継がれている。
その伝承の少女こそが、彼らの傍らで笑っているリンだった。
だが、アルベルトとエリシアは知っていた。
少女は、父の死を目の当たりにした絶望の淵で、それでも必死で守ろうとしていたのだ。
ともに暮らした領民たちを。
だから生き残った者たちは、ある口伝を胸に、この街を造った。
ある朝、祖母が伝えた『あの子に祈らないで』。
ある夜、祖父が孫に語った『崇めてはならんよ』。
父親は子に、『それはあの子を遠くに連れてっちまう』と説く。
母親は子に、『きっとあの子は寂しがって、そばにいてって泣いちまう』と教えた。
そして皆が、こう結んだ。
『だから、もしあの子がお前の前に現れたら、
しっかりその手を握ってね、傍にいておあげなさい』
アルベルトたちもまた、リンを「神」としては扱わず、その事実を秘匿し続ける。
祈らない。崇めない。跪かない。
ただの子供として手を取り、傍らにいる。
それが彼らにとって、当たり前のことだった。
❖ ❖
昼近く、アルベルトは街へ出た。
最初に立ち寄ったのは、運送業組合だった。
「おう、アルベルトか。今日はなんの用じゃ」
組合長のベンは、いつものように不機嫌そうな顔で机に向かっていた。
小柄な老人。物流網の構築に生涯を捧げ、零細業者が乱立していた業界を、一つの組合にまとめ上げた傑物でもある。
「関税率改定の意見書、内容に問題はありません。ただ、一点だけ」
「なんじゃ?」
「アミドニア寄りのルートを優先しすぎています。カーチス側の業者から不満が出ますよ」
ベンは鼻を鳴らした。
「フン、わかっとるわ。だがな、数字は正直じゃ。今はアミドニアの方が荷物が多い」
「そう、数字は正直です。ですが人が動く以上、感情も後々数字になります。そこを無視すると後で大きな歪みになります」
ベンはしばらく黙っていたが、やがて小さく舌打ちした。
「……お前さんの言う通りじゃな。直すわ」
「よろしくお願いします」
アルベルトが帰り際に振り返ると、ベンがぼそっと呟いた。
「……お前さんみたいなのがいてくれて、助かっとるわ」
聞こえないふりをして、アルベルトは組合を後にした。
次に立ち寄ったのは、パン屋だった。
「おう、補佐さん!またいつものラスクかい?」
店主のゴッヅは、小麦粉にまみれた大きな手を振った。
妻のアンナと娘のメリッサが、奥で忙しそうに働いている。
「はい、今日は少し多めにお願いします」
「おう,わかった!焼き立てを持ってけや」
ゴッヅがいつものように豪快に応じた。
パンパンッと手の小麦粉を払い、ラスクを袋に詰め込み始める。
「親父さん、最近、街の様子で気になることは?」
「ん〜、あ、あるぜ、補佐さん。あんたが無理してねえか、それが心配だ。たまには休めよ」
ゴッヅがアルベルトにラスクを手渡し、グイッと顔を寄せ、ニッと笑った。
アルベルトは小さく苦笑して、店を出た。
夕方近く、騎士団本部に寄ると、ゼクスが訓練の指導を終えたところだった。
「青二才か。今日は珍しく早いのう」
各国の剣士から『武神』と呼ばれる男。
豪放磊落で、三十年以上にわたり騎士団長を務め続けている。
いくつかの事務連絡を済ました後で、ゼクスは腕を組み、アルベルトを眺めながら言った。
「お前、最近、少しは人間らしくなってきたのう」
「どういう意味ですか」
「以前は、数字と効率しか見ておらんかった。
今は、人の顔を見ておる」
アルベルトは答える言葉を探したが、結局、何も言えなかった。
夜。
領主邸の食堂で、四人の食卓が囲まれていた。
エリシア、アルベルト、リン、そしてリンの世話を焼くマーサ。
リンがパンを頰張りながら、楽しそうに話している。
エリシアが相槌を打ち、アルベルトが時々、短い助言を挟む。
特別なことは何もない。
ただ、同じ空間にいて、同じ食事をして、同じ時間を過ごしている。
アルベルトは、ふと思う。
この世界を救うことなど、自分たちにはできない。
大国の思惑も、神々の意志も、歴史の大きな流れも、到底手に負えるものではない。
それでもーー
傍らにいる誰かの手を、離さずにいられるなら。
その誰かが、明日も笑っていられるなら。
それでいい。
世界は救わなくていい。
ただ、傍らの誰かは、守る。
それが、この「変わり者たちの街」で生きる、彼らの流儀だった。
翌日。
アルベルトがいつものように執務室に入ると、机の上に一通の書簡が置かれていた。
差出人は、カーチスのフリッツ王子。
封を切った瞬間、アルベルトの表情が、わずかに強ばった。
窓の外では、いつものように、テーゼの日常が流れていた。
荷車の音、パンの匂い、子供たちの笑い声。
その日常が、静かに、しかし確実に、揺らぎ始めようとしていた。
❖ ❖
テーブルの上に置かれた一通の書簡。
それはエリシアたちにかつてない緊張と不安をもたらした。
”我が国南西部に『はぐれ』出現の予兆あり
貴都市におかれても十分注意されたし”
「……『はぐれ』……か」
エリシアがソファに身を沈め天を仰いだ。
アルベルトもゼクスも沈痛な面持ちで書簡を見ている。
「前に『はぐれ』が現れたんは、わしやマーサがまだこ〜んなちっこいガキん頃じゃ。
そんときゃ、シュルツの奥の方での騒ぎじゃったで、警報は出なんだが、この街には来んかったで正直ホッとしたのをよ〜く覚えとるわ」
アルベルトも黙って頷く。
竜は通常、人里離れた峰高い山脈の奥で群れで生活しており、滅多に人と遭遇する事はない。
だが、稀に群れから離れた『はぐれ』は違う。
降り立った場所全てが、ナワバリになる。
人は訪れる災厄から逃れ、過ぎ去るのを待つしかなかった。
「まだ姿を現したわけではない。
だが、その地域で複数の人間が鳴き声を聞いているらしい。
元来、竜が人里に近づく事は滅多にない。
つまり、鳴き声が聞こえてしまう程度の場所に来ているという事だ。
警戒して然るべきだ」
「予兆の発生はカーチス南西部……、おそらくアミドニアとの国境付近でしょう。
そこから山脈伝いに移動するとしたら、ここテーゼに接近する可能性は十分にあります」
アルベルトの説明を引き継ぐ形でエリシアが指示を飛ばした。
「私は街中に注意喚起と避難準備を布告する。
ゼクスは避難場所と避難誘導計画の立案を。
市民が混乱なく且つ迅速に避難できるように万全の体制を整えてくれ」
「心得た」
「アルベルトは運送業組合から改めて情報収集を。この類いの情報は市井の方が遥かに早く正確だ」
「了解しました」
❖ ❖
「……そろそろお前さんが来る頃だと思っとったよ」
運送業組合長室でのアルベルトとベンの面会。
開口一番、ベンはそう言って、アルベルトを見つめた。
「……ではもう既に組合長はご存知だと……」
「運送ちゅうんはモノの流れ、ひいてはヒトの流れじゃ。モノと一緒にヒトが目にした事、耳に入った事が、口によって運ばれてきよる。
お前さんたちおエラ方が上の方でチマチマやっとる情報交換より、遥かに正確で生きのいいヤツが集まってくるわい」
「さすがですね」
アルベルトの素直な称賛に、少しバツが悪そうにソッポを向くベン。
「フン、あまり素直に反応するんじゃないわ。
エラそうに言うても、実際ワシが聞いたのは夕べの話じゃ。
じゃが、まだ現場は混乱しとって、この話はまだ正確には伝わっておらんじゃろ……。
お前さんのルートは……、カーチスの王子殿下……といったトコロか……。
王子サンはどの程度の情報をよこしてきた?」
「……現場……?……混乱……?」
アルベルトはベンとの会話に齟齬を感じた。
(『はぐれ』の予兆は周辺に住む人間全てが警戒すべき情報。近隣国に注意喚起して然るべきだ。
だからこそ当事国はカーチスと思っていたが、組合長の言いようは何かが違う)
「……ほう、今回はワシの方が情報が早いらしい。
その顔じゃと、おそらく王子サンから、『はぐれ』出現の予兆があるから注意せよ程度の話が届いたワケじゃろう、違うか?」
ベンの眼差しが真剣且つ重々しい色に染まった。
実態はそれほど深刻なのか、とアルベルトに緊張が走った。
「まさしく仰る通りです……。
しかし……実態は大きく異なると……?」
ベンがボスッと背もたれに身体を沈めた。
「……ああ……、実際はもっともっと深刻じゃよ」
アルベルトの背に冷たいモノが流れた。
「つまり……、もう『はぐれ』は予兆ではなく……」
ベンは虚空を見上げたまま、アルベルトを肯定した。
「……そうじゃ……、もう予兆なんかではない……。
真の現場はアミドニアじゃ。
山沿いの村ふたつと町がひとつ……、きれいさっぱり消えたらしい。
あと3日もすればアミドニアから知らせが届くじゃろう」
「……なっ!」
思わずアルベルトは立ち上がってしまった。
それほどに衝撃的な情報だった。
「……ほう……、お前さんがそこまでの反応を示すとはのぉ……」
ベンが伏し目がちに吐露する。
「まあ、無理もあるまいて。
『はぐれ』っちゅうてもヤツらの生息域は基本山ン中じゃ。
じゃから、"鳴き声を聞いた"なんて話も、よくある事とまでは言わんが、ない事はない。
たいていはいつの間にかどっか行ってくれて、予兆騒ぎで終わるモンじゃ」
ベンの眼差しに厳しさが宿った。
苛立ちとも怒りともつかないものを湛えた、厳しい目だった。
「しかしな……、一度人里まで降りてきた竜は、そこも自分の生息域と見做す。
もうヤツの活動範囲は山中だけではない。
人里にまで広がってしもうたワケじゃ。
これが『竜害』の始まりよ」
「……それでは……もう……」
アルベルトがガタッとテーブルに手をついた。
その震える腕から目を逸らすように横を向き、ベンが呟いた。
「ああ、もうどこも安寧とは言えん。
ヒトの生活圏全部がヤツのナワバリになってしもうた。
いつ、どこにヤツが現れても不思議ではないわ」




