028.ルルイエ
気がつけば、ゴールはすぐそこだった。
肩から腕を伸ばして一瞬でも速くタッチしようと試みる。
指先が壁に触れた瞬間、勢いよくタイムを見た。
そこに示されている数字は、二五秒九二。
先日のタイムを大幅に上回る、自己新記録だった。
決して同年代の全国クラスの選手と比べても見劣りしない、そんな好成績で。
一瞬の静寂。
同時に、強くなる光。
その光量の変化に、悠の視界は白に染まって目を開けられずに目蓋を閉じる。
次の瞬間、わき起こる大歓声。
カメラのシャッターが連続して押される音も。
それは、世界を制したときに体感するもので。
悠の心には、言葉には言い表せない充足感が残った。
悠は瞼を閉じながら。
両腕を広げて。
光と音の洪水も、何もかもを受け止める。
「また会おう、リル。……今度は、オリンピックで」
目指すは二年後。
未だに唇に残るリルの感触は、その頃には記憶に残っているのみになってしまうだろうけれど。
そのときにまた、キスを送ろう。
今度は、自分から。
深く長いキスを。
次なる邂逅に、悠の鼓動は高鳴った。
†††
大会の熱気が冷めやまぬ中。
アランはひとり、会場を後にしていた。
水に冷えた身体が震える。
否、それだけではない。
大会の結果に、震えている。
人通りのない道で立ち尽くし震えているその背中は、泣いているようで。
「アラン」
そんなアランを、背後から抱きしめるものが居た。
それは、少女だった。
アランと悠が帰り道に出会った少女。
アランの幼なじみ。
「泣いてるの?」
「……聞くな」
アランの声は、震えていて。
かすれていて。
爪先立ちになり、アランの左肩に顎を乗せながら。
瞼を閉じながら、少女は言う。
「馬鹿な子ね。本当に。この結果は、はじめから分かっていたでしょう?」
「ああ、分かっていたさ。それでも、私は……」
「分かってる。分かってるわ」
「わた、しは……っ!」
ついに涙が堪えきれなくなり。
アランは一層震える。
そんなアランに、少女は優しく言う。
まるで、聖母のように。
「わたしの胸で泣きなさい。今だけは。あなたに涙なんて似合わないから」
「……っ」
アランは振り向き、少女を抱きしめた。
その胸に顔を埋めて泣き叫ぶ。
「王は、本当に綺麗で。でも、とても寂しそうで居て」
「うん」
「王の笑顔を見たかった。王に笑顔を浮かばせたかった。水野ではなく、私の力で……」
「うん、うん」
「王は本当に優しくて。自分の権能が、自分に直接触れている“海”の水を介して人々に恐怖を与えていることを憂いて居て」
「うん」
少女はアランの頭を撫で続ける。
「ならば、水泳で。“海”の水を唯一使うオリンピックの舞台で、水泳を行うことで。王を、《ルルイエ》を“海”に沈めている封印を張り直そうと。人々が行っているその神楽舞を手伝おうと」
「うん」
「私は……」
アランは少女の胸元を掴む力を強め。
あらん限りの声で。
「王に、愛されたかった……っ!」
「頑張ったね、アラン。わたしは知ってるよ、あなたの頑張りを」
少女は子供のように泣くアランを優しく撫で続ける。
母親のように、抱きしめ続ける。
そしてようやく気持ちを落ち着かせたアランは、赤い目で少女を見つめる。
「ありがとう。みっともないところを見られたね」
「いいの。あなたのそんなところ、わたしだけが見て良いんだから」
アランは恥ずかしそうに鼻を掻く。
「それで、アラン。もう決めた?」
「……ああ。私は、帰るよ。きみと共に。王の許へ」
「……そう。みんな待ってるわ」
そして少女は一歩前へ足を進めて。
それから、アランの方を向いて。
右手を、伸ばして。
「さあ。行きましょう、アラン」
「……ああ」
アランは少女の手を取り。
共に歩いて行く。
自分の役目は終わったのだと、この地上に別れを告げながら。
少女がアランを見る。
横を向いて。
ずっと自分を想ってくれていた少女。
こんなにも、ありがたくて。
こんなにも、愛しくて。
きゅっと、少女と手を繋ぐ手に力を入れて。
もう離さないと言わんばかりに。
その行為に、少女は一瞬驚愕を浮かべる。
そして花のような笑顔を浮かべると、
「ねえねえ、アラン」
「なんだい?」
「愛してるわ、今でも。これからも、ずっと。……心から」
触れるようなキスを。
小鳥がするようなそれは、とても柔らかく。あたたかく。
アランは笑顔で、
「私もだ」
今度はアランの方から。
少女を抱きしめて。
強く、強く口づけを。
そうして二人の姿は消えていく。
少女が作り出した《ヘラスの門》をくぐり抜けて。
遙か遠き、《ルルイエ》へと。




