027.再逢
彼女は悠に向かって走り出した。
そして勢いよく悠に抱きつき、顔を埋める。
「ずっと会いたかった。あたしが興味を持った人間」
――これは、夢なのではないか。
――彼女が抱きついてきて。
――彼女の体温を感じられる。
――彼女のにおいを感じられる。
――彼女の身体の柔らかさを、感じられる。
「あたしはリル。人間が生まれる前から地球を支配していた神性にして、旧支配者」
「リル……僕に興味を持ったって?」
「あなたはもう忘れてしまったのね。あんなにもあたしを求めていたのに。こんなあたしと、友達になりたいと」
涙を堪えてくしゃくしゃになった顔でリルは言った。
その影は、無数の触手でできたような頭と、大きなコウモリの羽が付いた姿をしていた。
それでも、今、悠の眼前にいる彼女の姿は、美しかった。
この世のものとは思えないほどに。
「僕が、そんなことを……」
“海”で出会う前から自分がリルを求めていたと知り。
記憶を遡っても、思い出せなくて。
すべてを捨て去ったから。
捧げたから。
「初めてだった。あなたが。優しい人、と言ってくれて」
泣き笑い言うリルは、神聖にして無垢。
その無垢なる涙に、ようやく出会えた奇跡に、胸を熱くしながら。
悠は口を開く。
「あなた、じゃない」
「ふぇ?」
「僕は悠だ。水野悠」
「そう。悠ね、悠」
リルは抱きしめる力を強くし、
「悠。悠。悠」
嬉しそうに名前を呟き続ける。
まるで幼子のように。
外見に比した、態度で。
まるであらゆる経験が無く、あらゆることに真新しさを感じているかのように。
そんな中、場内にしわがれた声が響いた。
「王よ」
ゆっくりと歩いてきたそれは、人ではなく。
「どうしたの」
「この《ルルイエ》に、ただの人間を呼ぶなど。しかも、《大いなるC》たるあなた様自ら《ヘラスの門》を開かれてまで」
「あなたはあたしがどれだけ悠を想っていたのか、知っているでしょう?」
「ええ、それはもちろん。しかし、あなた様に仕える我ら《深きものども》に、知らせておいて欲しかった」
《深きものども》――それは太古の昔から《大いなるC》に仕えている臣下の一族。
蛙のような顔をしており、眼は閉じる事が出来なくなるほどに盛り上がり、肌は冷たく湿っぽい灰緑色をしている。
表面に鱗があり、指と指の間には水かきのようなものがある。
首に溜まった皺には鰓が形成されている。
昔から人間と交配してきて、“海”の底で生活してきた。
《大いなるC》の呼びかけにすぐに応えられるように海で生活している。
この男は、長老と呼ばれていたものだ。
《深きものども》たちから、そう呼ばれていた男だ。
「あたしは悠を愛しているの。だからこそ、《ヘラスの門》を開いたのよ」
「あなた様は神に封印されているのですよ?! その御力は弱っている。だからこそ、我らに頼って頂きたかった……」
「……ごめんなさい」
その言葉に、長老は膝をついて頭を垂れる。
そして涙声で、
「差し出がましいことをしました。申し訳ありません」
そして涙に潤んだ瞳を悠に向けると、
「人間よ。王が認めし水野悠よ。お前の、いやあなたの来訪を心より歓迎しよう」
長老は立ち上がると、右腕で涙を拭う。
そして、悠に頭を下げる。
「王は優しい御方だ。それでいて、寂しい御方。悲しい御方。いつも詰まらなそうに外を見ていた。でも、あなたを知ってから、いつも笑顔を浮かべていた。いつも楽しそうにあなたを見ていた。……だから、王をよろしくお願いします」
「もう、何を言うのよ!」
顔を赤く染めながらリルは長老を叩いた。
ポカポカと、力なく。
それは照れ隠しで。
その姿は、ひどく微笑ましい。
長老はほっほと笑いながら、
「あなたは水泳を続けるのでしょう? ならば、今度からは我らが《ヘラスの門》を開きます。あなたが《聖別》のひどく弱い水に触れたときに」
「《ヘラスの門》とは?」
悠の疑問に、リルが答える。
「この《ルルイエ》は、通常の手段では辿り着けないの。ニュージーランドと南米大陸と南極大陸の中間付近、南緯四七度九分、西経一二六度四三分に沈んでいるから。それも、神の封印を掛けられて。だから、ここへ至る道を開く必要があるの。それが《ヘラスの門》。悠を包んだ光の門がそれよ」
「そう、か。……僕を呼んでくれてありがとう。会えて嬉しい」
悠は再度リルを抱きしめる。
今度会えるのはまたいつになるか。
だからこそ、彼女の感触を覚えていたいと。
リルはしばらくされるがままになっていた。
瞼を閉じて。
悠に身を任せて。
それはずっとリルが望んでいたこと。
恐れられ続ける自分を、優しいと、会いたいと、友達になりたいと言ってくれた唯一の人間たる悠と触れ合いたいと。
そんなリルたちを、長老は微笑ましく見守っていた。
と、リルは上を向いて口を開いた。
「……そろそろ時間ね」
現実世界とここでは時間の流れが違うのだ。
現実世界では、間もなく悠の身体はゴールしようとしている。
「そうか……」
一生ここに居たい。
そんな想いが悠の中にあるが故、その言葉は力のないもので。
それがわかっているのか、リルは優雅に笑む。
可愛い人、と言いたげに。
愛しい人、と言いたげに。
そして、自分もそうよ、と思いながら。
リルは背伸びをする。
そして悠の頬を両手で掴んで自分の方に向かせると、瞳を閉じて、そっとキスをした。
それは、幼い子供がするような。
唇を触れ合わせるだけの、幼いもので。
それでも相手の体温を感じる。
ぬくもりも、においも。
ふわふわと宙に浮いているかのような感覚。
一瞬だったのか、それとの数分だったのか。
永遠とも思えるほど長い口づけは、心地よい余韻を残して終わった。
離れゆく唇。
その間には、銀色の糸が伝っている。
「また、会いましょう。悠」
リルは満面の笑みで手を振る。
長老は頭を下げて見送る。
瞬間、加速度的に遠くなっていく景色。
その中で、悠は必死に声を出した。
大きな声を。
「絶対に会いに来る! また会いに来るから!」
そして、現実に戻る。




