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XXX.断章Ⅴ

 狂っている――

 この世界は、狂っている。

 ここの研究者は、狂気に犯されている。

 人間では、ない。あるはずがない。

 こんな、ことをするなんて……。

 こんなにも、血も涙もないことを、平然とするなんて……。

 ……いや、それは私もか。私自身も、人のことは言えない。

 あんなにも私のことを慕っていた、あの子の首を、絞めた私には……。


†††


「先生、わたし、なんでこんなにつらい思いをしなきゃいけないのかな……」


 莉南(りな)が問うた。

 S-0382とナンバリングされた少女がそう問うた。


 この研究所は、日本の、そして世界の命運を切り開くために、秘密裏に運営されている。

 配属された当初は、やりがいを感じていたけれど、今となっては苦痛しかない。

 子供たちが苦しむさまを見て、自分たち大人が苦しめて、多くの子供たちが死んでいく。否、殺されていく。

 そんな日々に、心が砕けそうになっていた。

 そんな中、莉南との触れ合いは、一種の精神安定となっていた。

 莉南は私にとてもなついてくれて、時間があればたわいもないことを話していた。


 そんな莉南からの問いかけに、何を返していいのかわからなかった。

 本来であれば、世界のため、と答えるべきなのだろう。それがこの研究所の目的なのだから。

 だけど、そんなもののために、莉南が苦しむことは、どうしても正しいと思えなくて。


「……どうして、なんだろうね……」


 だから、答えられなかった。

 表面上でもいい、自分が何らかのためにわずかばかりの苦しみを耐えて、それによってなんらかの幸いがもたらされる、そんな言葉を吐くべきだったのか。

 それを、莉南も求めていたのか。

 悲しげに、莉南は目を伏せた。


「自分が自分でなくなっていくのがわかるの……それが怖いの。あの水は、"海"は、ありとあらゆる悪夢で、苦痛で、絶望で、わたしの心をすこしずつ壊して、削って、犯して、穢していっている。耐えられない。わたしは何回死んだ? そのたびに、少しずつわたしを構成するなにかが喪われて、他のなにかで補完されている。今のわたしは、本当にわたしなの? ねえ、先生。わたしは、誰?」


 泣いていることにも気づかず、莉南が問いかけた。

 答えられない。答えられるわけがない。

 なぜなら、私は体験していないから。

"海"の暴虐は、夢幻地獄へ堕とされるかのようなものだということは知っている。

 けれど実際にその呪いを受けたことがない。

 受けたいとも思わない。

 子供たちは、否応なく受けさせられているのにもかかわらず。


 果たして、幾千幾億もの回数を殺され続けた場合、その人はどれだけ元の自分から変わってしまうのか。

 精神の成熟した大人でさえ、心が破壊されてしまうことは目に見えている。

 破壊された結果、その痛み、その傷を抱えられず、無意識に人格を分けたり、苦痛を苦痛と感じないように思考などを変化させたりするのだろう。

 莉南が言っているのは、つまりはそういうことなのだろう。


「莉南は、莉南だよ」


 そう答えることしかできなかった。

 そう信じることしかできなかった。


「S-0382、何を遊んでいるんだ。はやく練習を再開しろ」


 主任コーチが感情の見えない声を発した。

 びくり、と一瞬肩を震わせて、莉南はプールへと歩いていく。


 ここでは、大人たちは誰もが子供たちを名前で呼ばない。

 シリアルナンバーでしか呼ばない。

 まるで子供たちが人間ではないかのように。

 ただの製品であるかのように。

 私が彼女たちを名前で呼ぶのは、一種の逃避なのかもしれない。

 こいつらとはちがうんだ、という。

 私はこの子たちを人間として扱っているんだ、という。

 結局は苦しめていることに変わりはないのに。


 ――ああ。

 視界の隅で、道化師が嗤っている。

 無駄な足掻きを、と言わんばかりに。

 こいつはいつから視界に映るようになったのだろう。

 記憶が定かではない。

 ここに来るまでは、いなかったように思う。

 ――そうか。

 莉南が壊れていっているように。

 私も、壊れてきているのか。こんな幻覚が見えてしまうほどに。


 莉南は、自分が自分なのかと問うていたけれど、私も私なのだろうか?

 答えるものはいない。


†††


 莉南が、倒れた。

 子供たちのリーダーである紀が、私にそのことを伝えてきた。

 今は、病室にいるとのことだ。

 仕事など、研究など放り出して莉南の様子を見に行った。

 ベッドの上で、莉南が眠っていた。


「……莉南」


 私の言葉に、目を覚ましたのか、莉南がすこし身じろぎして、目を開けた。

 その瞳には、光がない。

 はじめて出会ったときは、きらきらと輝いていた目が。

 今となっては、墨で塗りつぶしたかのような目になっていた。

 たぶん、私もそうなっているだろう。

 鏡なんて、ずっと見ていないから、わからないけれど。


 莉南が、そんな瞳を天井に向けたまま、言う。


「先生」


 かすれた声。

 傷ついた声。

 生きるのに、疲れた老人のようなそれ。

 聞くだけで涙が流れそうになる。

 こんなにも幼い子供が、出すような声じゃない。


「どうしたんだい」

「もう、死にたいの……」

「なんで、そんな……」

「耐えられない。いつまで、わたしは苦しめばいいの? ねえ、いったいいつまで?」

「それは……」


 答えられない。

 彼女が解放されることなんて、ないから。

 彼女はスイマーとなるために生み出された。造り出されたのだ。

 ならば、永遠に泳ぎ続けなければならない。泳ぎ続けさせられる。

 解放される未来なんて、ない。


「ねえ、先生」


 莉南はこちらを向いて言う。

 その目が私を見つめる。

 まるで私を呪おうとしているかのように見える。


「助けて」


 助けられない。

 彼女を解放するなんて無理だ。

 心を癒して、昔のような彼女に戻すことも無理だ。

 彼女は、この暗がりで、苦しみ続けるしかない。


「……っあ」


 今朝話したときの莉南の言葉が脳裏に浮かんだ。

 自分は、まだ自分なのかという言葉。

 まだ自分が自分である内に、そう認識できているうちに、私が、彼女にできることは何か。


 ――視界の端で、道化師が嗤っている。

 私の答えを嘲笑(あざわら)うかのように。


「うるさい。黙れ」

 

 道化師の笑い声はやまない。

 ただただ、私を嗤い、私を苛立たせるように踊り続ける。


「……先生」


 莉南の問いかけ。

 私はうなずいた。


「……わかった。私ができる、最後のことをしよう。莉南が、莉南でいるうちに……」

「……」


 莉南は力なくうなずき、目を閉じた。

 そんな莉南の細い首に、そっと手を伸ばす。

 そして締めた。


「……ッ」


 苦しげな声を莉南は漏らす。

 だけど抵抗はない。

 私にすべてをゆだねている。

 この手の中に、今、莉南の生命がつかまれている。

 それが、握りつぶされていく。


 すこしずつ、莉南の炎が消えていく。

 身体から、力が抜けていくのがわかる。

 莉南が、終わっていくのがわかる。手のひらを通して。


「……」


 震えながら動かされた唇は、言葉となることはなく。

 ただ、それが、ありがとう、と形作られたことが伝わった。


 そうして、莉南は死んだ。

 莉南は世界を救うことなく、この世から消えた。

 ……私が、壊した。


「あ、ああ……あああああああ……」


 獣のような鳴き声。

 涙が止まらない。

 力任せに莉南を抱きしめる。

 まだあたたかい。

 でも、その胸は鼓動を伝えてこない。

 ただの肉塊だ。


「何をしている」


 病室に、誰かが入ってきた。

 その人物を確認することはしない。

 そんなことを気にする余裕などない。

 莉南。

 莉南。

 莉南。

 莉南。

 莉南。

 莉南。

 莉南。


「……そういうことか。馬鹿が」


 撃鉄が起こされた音がした。

 だけどそんなことは気にならない。

 ただただ、腕の中で眠る莉南を抱きしめることしか頭にない。

 他のことを考える余裕などない。

 何も、考えられない。


 ――視界の隅に、道化師の姿がない。

 いつも嗤っているのに。

 いつも踊っているのに。

 だけどそれに私が気づくことはない。

 莉南。

 莉南。

 莉南。

 もう莉南は笑わない。

 腕の中で眠り続けている。


 ばん、という耳をつんざく音。

 世界に、穴をあける音。

 一瞬の、痛み。

 そして熱さ。

 視界が赫く染まっていく。

 視界いっぱいに映る莉南の顔。

 しばらくぶりに見た、莉南の穏やかな顔。

 苦しみを抱かない、かつての莉南。

 その莉南の顔が、赫く、塗りつぶされて――

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