XXX.断章Ⅳ-Ⅱ
「すごい……すごいよ……ほら、見てみなよ! あの空!」
アランは指さしながら言った。
青空。
かの地では決して見ることができない、憧れていたもの。
美しいもの。
「きれい……」
ぽつり、と。
少女は言った。
惚けるような声で。
抜けるような青空。
王の間に描かれたものよりも、ずっと美しい。
「あの山も、あの街並みも! やっぱりすごい……ここなんだ、ぼくが安らかでいられる場所は」
あの終わってしまった世界とは違う。
あの暗がりとは。
世界はこんなにも色鮮やかで。
生命が芽吹いている。
「見て回ろう! いろんな場所を。この世界の果てまで」
「果てまでは言いすぎだよ」
少女は苦笑した。
アランは恥ずかしげに頬を掻いて。
「たしかにね……でも、せっかくあの御方から頂いた機会なんだ。いろんな所へ行こう」
「うん。でも……地上ではお金が必要なんでしょう? 移動するのにも、何をするのにも。私たち、持ってないよ?」
「あ……どうしよう」
そんな、途方に暮れているアランたちへ。
声をかけるものがいた。
「《C》の眷属の方々。あの御方の命に従い、ただいま馳せ参じました」
それは、青年だった。
歳は二〇後半であろうか。
鋼のような声だった。
「私は当代の四条家党首、秋貞と申します。先ほどあの御方から、皆様が来訪される旨伺いましたので、私がお出迎えにあがりました」
秋貞は膝をついて礼をとった。
「ご希望の場所へご案内いたします。さあ、どうぞこちらへ」
秋貞へ先導されて。
リムジンに通された。
アランと少女が隣り合って座って。
アランの体面に座った秋貞が、アランへ問いかけた。
「それでは、まずどちらへ向かわれますか?」
「そうですね……」
街もいい。
海も見てみたい。
山頂から景色も見てみたい。
しかし、時間は有限だ。
行くことができるところで絞り込むと、どこだろう。
そんなことを、秋貞へ伝えると。
「なるほど。……それでは、まず山頂へ向かい、その後街で食事、ショッピング、最後に夜空を眺める流れでいかがでしょうか」
「それでお願いします。……いいよね?」
「ええ。わたしもそれでいいわ」
「かしこまりました。それでは山へ向かいます」
†††
静かな印象の場所だった。
山の中。
山頂から見る景色。
風に揺れる木々のざわめき。
小鳥や小動物たちの鳴き声。
それらがバックミュージックとなって、静かに、世界が見下ろされる。
「これが、世界……」
深い緑の香り。
胸いっぱいに吸い込むと、かすかな苦みを伴って。
「眩しいね」
彼女のつぶやきに、アランは空を見上げた。
下で見た時よりも、ずっとずっと、太陽が近くて。
光に痛む眼球を守るかのように、手で遮って。
「うん……こんなにも、あたたかい」
生命の温かさを感じる。
海の底では決して感じることのできないもの。
「あれ……どうして……」
気づかないうちに。
アランの頬を涙が伝っていて。
抑えることができなかった。
†††
川沿いの住宅地――
少し汗ばむような陽気に、水の香りを含んだ風が心地よい。
すっと身体の熱が冷やされる。
「昼食の場所はあちらでございます。この坂をのぼった先に。レストランにしようかと思いましたが、家庭的な食事をご体験されるのがいいかと思い、こじんまりとした温かみのある食堂にさせていただきました」
秋貞の言葉に、アランはまだ見ぬ食事に待ち遠しさを隠せなかった。
あの海の底では、食事なんてものは存在しなくて。
アランたち《深きものども》には、食事なんて本来は不要だけれども。
だからこそ、地上でしか体験できないそれが、待ち遠しくて。
「……うん?」
首をかしげた。
見間違いかもしれない。
しかし、もう一度見直してもやはりそうだ。
アランたちの前を歩む老婆が、気付かずに財布を落としていた。
「おばあさん」
そう声をかけて、アランは財布を拾った。
アランの問いかけに、老婆は振り向く。
「どうかしたのかい?」
「これ落としましたよ」
「あら、あらあら、ありがとうよお」
老婆は嬉しそうに微笑んで、アランの頭を撫でた。
そして財布を開くと、千円札を一枚取り出して、アランに差し出した。
「これ、少ないけれどお礼よ」
「いえ、そんな」
「まあまあ」
一瞬少女を見て、老婆はいたずらな笑みをアランに向けた。
「これで彼女に何か買ってあげなさい」
そうして、差し出した千円札をアランに握らせると、老婆は去っていった。
†††
ぐつぐつと鍋を煮込む音がしている。
割烹着を着た女性が、鉄製の鍋をお玉でかき回している。鼻歌を歌いながら。
立ち上る暖かな湯気に交じって、いい匂いが香る。
家庭的な光景だった。
これがレストランであったなら、こんな光景を見ることは叶わない。
ここが食堂だから、ここがこんなにもこじんまりとしているから、見れている。
「もうすぐできますからね」
女性はそう言った。
朗らかな声だった。
にこやかな表情だった。
少女はそんな彼女をじっと見つめている。
上品に手のひらを膝の上にそろえて。
背筋を伸ばしながら。
時には幼く、時には母のように、時には姉のような雰囲気を見せる少女が。
その根底には、やはりこの品の良さが、行儀のよさが、隠されていることに今更ながら気づかされて。
「ねえ」
アランは少女に声をかけた。
一瞬見とれてしまっていたことを、隠すかのように。
「ねえ」
「どうしたの、アラン」
「いや……」
問われ、何を返していいのかわからず戸惑った。
そんなアランの胸中をどこまで察しているのか、少女はかすかに微笑んで。
「おかしいね」
その笑みを直視することができなくて、恥ずかしげにそっぽを向いた。
そんなアランたちを、眩しいものを見るかのように女性は目を細めて。
それから、手際よく皿を並べて。
料理を盛り付けて。
そしてアランたちのテーブルに、それらを置いて。
「お待たせしました」
出されたものは、本格的な料理ではなかった。
だけど、それは家庭的で。
あたたかみを感じるものだった。
「いただきます」
手を合わせて、そう祈りをささげて。
口に含まれた料理は、心をほっとさせる味だった。
†††
駅前の大型デパート。
八階建てのそこ、二階、紳士服売り場にて。
少女は服を手に持って、アランの身体に着けて。
「あはははっ、これ似合うんじゃない?」
涙を流しながら笑った少女に、アランはジト目で返す。
「なんだよこれ」
「店員さんに聞いたんだけど、今人気のキャラクターなんだって」
「絶対に似合ってないだろ」
「そんなことないわよ。ほら」
アランの手を引いて、少女は鏡の前へ促す。
そして、アランにその姿を見せた。
「いやいやいや」
食パンを模したキャラクターが描かれたTシャツ。
年齢的に考えれば、それを着ていることはおかしくはないけれど。
アランにとって、それは羞恥心をあおるもので。
「いいじゃない、これで。これ買いましょう」
「絶対に嫌だ」
「でも、じゃあ他に何を買うのよ」
「なに、買うことは前提なの? 今のままでもいいじゃん」
「駄目よ。駄目」
まずい。このままでは、こんな意味不明な服を買わされてしまう。
焦りながら周囲を見渡すと、黒無地の長袖が目に入った。
「こ、これ! これにするよ」
「えー、これ? なんの面白みもないじゃない」
「いいんだよ、これで。さあ、もうぼくの分はいいだろ。次はお前の分を買いに行こう」
「はーい」
†††
「これなんていいんじゃないかな」
今少女が来ている、真っ黒なワンピース。
それとは対照的な、真っ白なワンピース。
フリルが付いた、少女的なもの。
それを少女の身体に着けて、アランは言った。
「うーん」
「あ、これもいいな。ちょっとつけてみようか」
露出の少ない、落ち着いた服装だった。
でも、少女は悩む。
せっかくアランが選んでくれているのではあるが。
「こっちもいいなあ」
次にアランが選んだのは、大胆に胸元が開いたデザインのものだった。
年齢的には、少し早すぎる装いではなかろうか。
「せっかくだけど、わたしはあれにしようかな」
少女が指さしたものは、今の装いと変わらない、シンプルな黒のワンピースで。
「え、これにするの?」
「ええ。この色やデザイン、気に入ってるの」
「そうなの?」
「ええ。というか、覚えてないの?」
「え?」
何のことだろうか。
アランは首をかしげた。
そんなアランに、少女ははあとため息をついて。
「あなたが言ったんじゃない。昔、この服装を見て、似合ってるって」
「あ……」
たしかに言った。
もともと、今着ているアランたちの服は、《深きものども》のひとりが作ったもので。
少女の分が新しく作られて、それを着た少女へ、たしかにそう言った。
「だから、これがいいの」
「そっか……うん、そっか」
自然と、アランの顔に笑みが浮かんだ。
「じゃあ、服はそれでいいか。あとは何か買う?」
「そうねえ……」
少し歩きながら、周囲を見る。
服だけでなく、色々な装飾品も置かれていた。
「これとかどうだろう」
ネックレスもあったけれど、今の装いには、この黒のチョーカーがあっていると思う。
それを手にとって、少女へ手渡した。
「うーん、……いいかも」
黒と黒で、ちょっとくどいところはあるけれど、空いた首元にぴったりとはまっている気がする。
それをつけた少女は、少し大人びて見えて、アランは知らず胸の鼓動を高鳴らせていた。
「大人っぽくて、すごく似合うよ」
「ありがとう。ほかにはどういうのがあるのかな……あっ……」
少女はかがんで、それを手に取った。
真っ白なリボン。
頭に持って行って、鏡で確認して。
「……」
似合っているとアランは思った。
少女の持つ天真爛漫さを際立たせていると思った。
けれど、少し子供っぽいと思ったのか、少女は数舜考え込んで、頭を振って元の場所に戻した。
「さあ、買い物はこれで終わり! 行きましょう」
元気よく反転して、少女は走り出した。
それについていかず、アランは少女の置いたリボンに目をやった。
値段は、税込み980円。
先ほど、老婆からもらったお金で買える金額で。
「……そうだな」
それを手にとって、アランは歩き出した。
†††
買い物が終わって。
少し休憩を、ということで公園のベンチに座りながら。
「ねえ」
「どうしたの?」
少女は首をかしげた。
アランは頬を赤く染めながら、ポケットから包装されたものを取り出した。
「これ、あげるよ。プレゼント」
「えっ?」
少女は驚きに目を見開いて。
それから花が咲くような笑みを見せた。
「ありがとう。見てみていい?」
「うん」
紙包装の中から出てきたのは、先ほど買った白いリボン。
えっ、と少女が息をのむ音が聞こえた。
「さっき、それを見てただろう? すごく似合ってたからさ。おばあさんにもらったお金で買える金額だったし」
「……ありがとう……つけてもらってもいい?」
「うん」
アランは少女の髪をとって。
右耳の上で、尻尾のようにリボンで縛った。
「やっぱり似合ってる」
「……ずっと……ずっと大切にするからね」
少女は涙を浮かべながら。
笑顔で、そういった。
その姿はとても愛らしくて。
「……ああ」
恥ずかしさをごまかすように。
そっぽを向いて、アランは答えた。
†††
そうしているうちに、夜になった。
満天の星が夜空に輝いている。
ガラスを巻いたかのように、美しい燐光。
「もう、時間だね……」
少女はつぶやいた。
そうだね、とアランは答えた。
じっとアランを少女は見つめている。
「ちゃんと、帰るよね」
少女は心配していたのだ。
ここへ来る前、アランに問いかけた時と同じく。
たしかにここは美しい世界だった。
アランだけではない、自分も素晴らしい時間を過ごせたから。
とすると、あんな暗がりへ、果たしてアランは戻るのだろうかと。
このままここに残ってしまうのではないかと。
「……戻るよ」
寂しげな声だった。
だけどそれは決して悲しげなものではなかった。
「アラン……」
「たしかに、この世界は素晴らしいけれど……君の帰る場所だしね、あそこは。それに……」
「それに?」
少女は首をかしげた。
アランは目をつぶって、何かを考えこむかのように、言葉が途切れて。
「……それに、王が待っているしね」
そうして、ふたりは海の底へ帰っていった。




