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XXX.断章Ⅲ-Ⅱ

 燐が、辰巳へ向かってしばらくして。

 ぼく――紫苑は、スイミングバッグを肩に背負って、母さんへ言った。


「行ってきます」

「無理しないようにね」


 わかっている。

 ただでさえ、水泳が厳しいスポーツであることは、周知の事実なのだ。

 それなのに、カナヅチの自分がいつまでも水泳を続けていることに、そして毎日疲れ切って帰宅していることに、不安を抱いていることは。

 だけどとまれない。

 とまれないんだ。

 燐と、約束したから。

 燐が、ずっと先で、ぼくを待っているのだから……。


「うん。いつも通りお腹を空かせて返ってくるから、ごはんいっぱい作っておいてね」

「ええ」

「今日は……そうだ、燐がジュニアオリンピックで優勝してくるんだから、お寿司用意しておいてよ! 燐も呼んでさ、お祝いしなきゃ」


 その言葉に、母さんが苦笑した。

 むっとする。

 まさか、母さんは、燐が優勝するって信じていないのかよ。


「そんなことないわ」


 苦笑をとめず、母さんは言った。


「本当に紫苑は燐ちゃんのことが大好きね」

「むっ、当たり前じゃん。パートナーだからね」

「親友じゃなくて?」

「じゃなくて。だって燐とは、水泳で世界を救うって約束してるんだから。なら、ぼくと燐は一緒に水泳をするパートナーじゃん」

「そうね。じゃあ、燐ちゃんの優勝記念で、お寿司奮発しなきゃね」


 うん、とうなずいて。

 腕時計を見ると、もう時間だ。

 はやく向かわなければ。


「じゃあ、改めて。行ってきます」

「はい、行ってらっしゃい」

 

†††


 ぼくが通っているスクールは、リトマンスイミングスクール南校。

 燐と同じスクールだ。

 選手クラスのみんなと、そのコーチは燐や他の出場者の応援で辰巳へ行っているけれど、他のクラスは今日も変わらず練習がある。


「なにやってるんだ! サイクル間に合ってないじゃないか! ふざけんな! ちょっと上がってこい!」


 今、五〇メートル自由形を四〇本行っている別のクラスで、コーチの厳しい声が上がった。

 体力が持たず、制限時間を超過してしまったことに、叱咤を受けているのだ。


「なにやってるんだ! やる気あんのかテメェ!」

「あります!」

「じゃあなんで出来ねえんだよ!」

「体力が持ちませんでした! 体力不足です!」

「ちげえよ! やる気がねえだけだよ! やる気あんなら体力なくなってもやり切れるんだよ!」

「すみません!」

「言葉だけじゃ足りねえよ! オラ、ケツ出せや!」


 その言葉に、生徒はコーチに背を向けて、尻を突き出した。

 コーチはベンチ裏においてあった野球バットを手に取ると、


「じゃあいくぞ!」


 その言葉とともに、思いっきり振りかぶり、バットを振り抜いた。

 バシィン! という激しい音が鳴り響く。


「気合入ったか! じゃあ一本目からやり直してこい!」

「……っはい」


 激痛にふらつきながらも、生徒はプールへと戻っていった。


 ……リトマンスイミングスクールは、教育方針が非常に厳しいことで有名だ。

 体罰として批判されるようなことも、平然と行っている。

 しかし、水泳は死の危険が常に付きまとっている厳しいスポーツであるため、このようなスパルタを行っているということもある程度周囲からは理解されており、問題視はされていない。


 そんな様子を見ていると、


「紫苑! いつまで休んでるんだ! さっさと来い! 練習再開だ!」

「すみません! わかりました!」


 僕の担当コーチの招集を受けて、プールへと入った。

 途端に、激しい怨嗟の声が全身に襲い掛かる。


 ……リトマンスイミングスクールは《聖別》が強いことで有名だ。

 しかし、それでもなお、"海"の呪いは人々を傷つける。

 否、それだけではない。

 いま、ぼくを襲うこの苦痛は、それだけでは決してない。

 それだけだったら、この第四位階の《聖別》を受けた水が、ここまでの呪詛を振りまくわけがない。

 単純に、トラウマから自分が自分で想像し、苦痛を感じているのだ。


「よし。じゃあ、まず顔を水につけて、クロールでここまでこい」


 コーチが五メートルのラインに立つ。

 簡単だ。

 軽くジャンプし、両足を壁に着けながら水に潜り、壁を蹴って前進。

 そして両手を交互に回しながらキック。

 それだけだ。

 簡単な動作だ。

 小学生にだってできる。


 だけど、できない。

 身体が震える。

 はじめのワンアクション、軽いジャンプすらできない。

 ……水から立ちのぼる、人々を呪う黒ずんだ瘴気が、見えて。


「なにやってるんだ! 早くしろ!」


 コーチの怒鳴り声が聞こえる。

 ただ、恐怖から、その声はとても遠くに感じる。

 プールの向こうの壁からかけられているかのように。


「……やる気ねえなら帰れよ! あ?」


 舌打ちしながら、コーチが言う。

 やる気ならある。

 だけど、どうしようもないじゃないか。

 ほかのカナヅチたちは、どうやってこれができるようになったんだよ。

 だれかおしえてくれ。

 なんでぼくはできないんだ。

 もう何年続けていると思っているんだ、これを。

 なのに、こんなことすらできなくて。

 いつまでたっても、一ミリも前へ進めなくて。


「ふざけんな!」


 なにでもできないぼくに、ついにキレたコーチが、肩を怒らせながら歩いてくる。

 そしてぼくの左手をつかんで、強引に引っ張った。


「こっち来い!」

「うわっ……」


 急激な牽引けんいんに、ととっ、とふらつきながらつんのめった。

 そして後頭部が、コーチの右手で思いっきりつかまれた。


 ……なにをするんだ。

 やめてくれ。

 それだけは。

 いやだ……。

 水は、怖い……。


「こうやって顔をつければいいだけだろうが!」


 力任せに顔面が水中に叩き込まれた。

 その急激に加えられた力に、首からぐきっという音が骨伝導で聞こえた。

 激痛。

 そして恐ろしいまでの恐怖、嫌悪。

 ムカデが穴という穴から侵入してくる。

 右手首あたりから皮膚と筋肉の間をムカデがうごめき、首まで這いあがってくる。


「そんで、呼吸はこうやるんだよ!」


 またもや、力任せに頭が水面に引き上げられる。

 痛めた首に耐えがたき痛みが走る。

 しかし、"海"の呪いは接触範囲が小さくなったためか、多少和らいで。


「っが、はあ、はあ……」

「もう一回だ!」


 また水中にたたきつけられる。

 激痛。

 怨嗟。

 そして、呼吸できないことによる苦しさ。


 水中に引き上げられる。

 叩きつけられる。

 引き上げられる。

 叩きつけられる。


 厳しい練習は、1時間続いた。


†††


「はあ、はあ、はあ……」


 いくら深呼吸しても落ち着かない鼓動に、息を荒げながら歩く。

 帰宅の途につく。

 身体は痙攣している。

 一歩、たった一歩を歩くことすら神経が削られるほどつらい。

 そして、なにより、首の痛みが引かない。

 明日になっても続くようであれば、病院に行かなければ。


 歩く。

 歩く。

 歩く。

 その歩みは、老人のほうがなお早いといえるほど、ゆっくりしたもので。


 そうして、赤信号で止まって。

 青になったのを確認して、また歩き出して。

 横断歩道の、中ほどまで来た時。


 爆音が聞こえた。

 右を見ると、赤信号であるのに、スピードを緩めることなく車が向こうから走ってきている。


 だれもがまずいと思ったのか、近い方の端へ走り出す。

 ぼくも走り出す。

 しかし、痙攣がとまらない足は、たった二歩進んだだけで、限界を迎えて。

 無様に、アスファルトに倒れた。


「何してるんだ! 危ないぞ!」

「早くしろ!」


 周囲の人たちが叫ぶ。

 まずい。早くしなければ。

 しかし鉛でも飲み込んだのではないかと錯覚してしまうほど重い身体は、遅々として動かなくて。


 近づく爆音。

 急げ。

 急げ。

 急げ。

 急げ。

 ――激痛。


「り、ん……」


 全身を力づくで引きちぎられたかのような痛みに、意識が切断された。


†††


 耳の中に水を入れたかのように、鈍く声が聞こえてくる。

 痛みはない。

 ゆっくりと、目を開けた。


「……っあ」


 最初に目に入ったのは、半狂乱の母。

 次いで、全身から伸びている管。

 そして、白衣。


 そうだ。

 さきほど事故にあったのだ。


「母……さん」


 発せられた声は、ひどく力なく。

 痛みはない。

 痛みはないのだ。

 だけど、わかる。

 わかってしまう。

 察してしまうのだ。

 生命をろうそくで例えると、もう火が消えかけているということを。

 痛みがないのは、単純に痛みを感じる余裕すらない、麻痺しているだけであるということを。

 一秒、否、刹那の単位で生命が失われて行っているのがわかる。


 母さんが泣きながら縋り付いてくる。

 話したいことがいろいろある。

 伝えたいことがいっぱいある。

 だけど、足りない。

 時間が足りなすぎる。

 だけど、これだけは、伝えなければ……。


「あの約束……任せたって……それ、と……ごめん、って……」


 ああ――

 燐の優勝祝い、できなかった……。

 それに、ごめん。

 約束、守れなかった。

 あの日、約束したのに。

 全部全部、燐に押し付けることになってしまう。

 それがどれだけ残酷なのか、どれだけ燐の負担になるのか、わかっている。

 けれど、任せることしか、できない……。


「り、ん……」


 そうして。

 僕の人生は終わった。

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