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017.深きもの

 練習が終わると、悠はアランを自宅に招いた。

 まだまだ教わりたいことは山ほどあったから。

 およそ一週間で全中制限タイムに近い記録を出さなければならないのだ、それも仕方ないとアランは苦笑しながら連いてきて。


「おや、これは……?」


 悠の部屋で水泳理論について語り合っていると、アランは本棚から一冊の本を取り出した。

 ボロボロで、使い古された古書。

 本棚の中で、それだけが異様に目立っているほどボロボロだったのだから、アランの目に入ったのも当然だろう。


 悠はアランの手にある本を見る。

 たしか、それは――


「――昔、親に買って貰った童話だったと思います」

「思う? もう覚えてないのかい?」

「ええ。一〇年以上前のものですし、あの水泳部に入るまでは入院と受験勉強で精一杯でしたし、今は水泳にすべてを捧げていますから。昔のことなんて覚えてませんよ」


 そう。

 母親の無理心中に巻き込まれた後、壊れた身体を治すために入院していたのだ。

 もう悠には家族も、親戚も、誰もいないけれど。

 幸い、父と母の保険金が下りたおかげで、今もこうして生きることができている。


 本当であれば、受験勉強中も水泳をやりたかった。

 だが、素人がこの世界で水泳を行うためには、水泳部に入部するか、リトマンのようなクラブへ参加するしかない。

 市民プールなんて言うものは存在しないのだ。

 監禁されていたことから、そして入院で通学できていなかったことから、悠は勉強がかなり遅れていた。

 だからこそ、クラブに参加しながら受験勉強することは不可能で。

 水泳部に入部してから水泳を始めようと、そう思っていたのだ。


「なるほど。それにしても懐かしい」


 アランは愛おしそうに目を細めると、優しく本の表紙を撫でた。


「先輩もそれを知っているんですか?」

「ああ」


 アランは本を開きながらそう言った。


「どんな内容でしたっけ?」


 もう悠はまったく覚えていない。

 昔自分が何度も読み返したほど好きだった話と言うことは分かる。

 あれだけボロボロになった本を見れば。


 だけどそれは昔のこと。

 今となっては、もう記憶の彼方。


 アランの表情は未だ優しげだ。

 大切な人を思い出しているかのように。


 そして、ゆっくりと口を開いた。


「かつて神様に頼まれ、自ら“海”に沈んだ《大いなるC》の話さ」


 どこかで聞いたことがある話。

 それは、そう、もう覚えていない過去に読んだ本の内容と言うことではなくて。

 今でも誰しもの口から出るような、そんな話のような。


 たしか、それは――


「よく寝物語に聞く、“海”に封印されたもののことですか?」

「そうだね。そういう話もあるね」

「でも、そうなら。もしかしたら、僕の探している彼女は、《聖別》の弱い水の中でその残滓を垣間見れたと言うことは……」


 もしかしたら彼女がそうなのではないか、と。悠は口にして。


 しかしその考えを、アランは頭を振って否定する。

 その表情は硬い。

 まるで悠を責めているかのように。

 ……幼子が親におもちゃをねだっても買ってもらえなかったかのように。


「それはあり得ない。あり得ないよ。所詮は御伽噺だ。存在しない。実在しない。……生きては、いない」


†††


 その後、悠はアランを駅まで送りに外に出た。

 もう夜の一〇時。

 肌に感じる風は冷たく肌を苛む。


 アランは無言のまま。

 その拳は強く握られている。

 まるで自分の中の何か悪い考えを必死に握りつぶそうとしているかのように……。


 そんなアランの姿に、悠は何も言えない。

 ただ居心地の悪い静寂を、共に歩いて行き。


「やっほー、アラン。探しちゃったよ」


 そんなふたりに、いや正確にはアランに声を掛けるものが居た。


 それは、少女だった。

 悠と同い年程度、およそ小学校を卒業したばかりほどではないかという幼い肢体と顔。

 黒い髪は肩ほどで切りそろえられ、右耳の上で尻尾のように髪が纏められている。


 少女はその髪のように黒い黒いワンピースのスカートを軽くつまんで。

 優雅な一礼を披露した。


「あなたが最近アランが教えているって言う新入部員? いつもアランがお世話になってまーすっ」

「きみは……」

「えー、言っちゃおうかなぁ。わたしは」

「ただの幼なじみだよ」


 右手の人差し指で自分の右頬に触れながら話す少女の言葉を、アランが遮って答えた。

 そんなアランの素っ気ない行動に、少女は頬を膨らませて「ぶーぶー」と口で発音して不満を漏らす。

 そんな行動は、少女の年齢は幼い外見よりもなお幼いのではないかと思わせる。


 やがて飽きたのか、少女はまじめな表情を作った。


「それで、アラン。そろそろ満足した? はやく水泳をやめて帰りましょう。みんな待ってるわ、もちろんわたしも」

「そんな! 先輩は」


 過去現在未来を通して最高のスイマーと言われるアランが水泳をやめるなんて、と悠は反論する。

 しかし少女は、


「黙れ」


 鋭い視線を悠に向けた。

 先ほどまでの幼さは微塵も感じさせない、冷たい表情で。


「お前には話をしていない。消えろ」


 その虹彩は黄金色で。

 あたかも自身は神に連なるものだと言わんばかりに輝く鮮烈な色で。


 神の瞳はすべてを見通す。

 悠は心の内も、過去も、自分を構成する何もかもをも見透かされている感じがして。

 背筋を震わせた。


「水野、見送りはここまでで良い。早く帰るんだ」

「先輩」

「早く」


 促され、悠はゆっくりと頷いた。

 自分がここにいてもなんの足しにもならないと分かっているから。

《聖別》の弱い水の中でありながら、彼女の気配を全く感じられないかのような恐怖の雰囲気に、自分が後ずさりしていると分かっているから。


「やめないで下さいよ、水泳」

「……当たり前だよ」

「どういうことなのか、明日教えて下さいね」

「ああ」

 それだけ聞くと、悠は震える足を必死に動かして帰って行った。


†††


 悠の姿が遠くなっていくのを確認すると、アランは重い口を開いた。


「それで、どうして来たんだ」

「さっきも言ったでしょ? アランを連れ戻しに来たのよ」

「私は、王のためにも水泳を続ける」


 少女は否定する。


「王はそれを望んでいないわ。だって王は彼を選んだんじゃない」


 その言葉を聞くアランの表情は硬く。

 握った拳は力が入りすぎ、爪が皮膚を突き破って流血している。


「それでも! ……私は王を愛している。王の安寧のためにも、私はこの神楽舞かぐらまいを続ける。そうすれば、いつか王は。彼ではなく、私を選んでくれるんじゃないかって。私に、微笑んでくれるんじゃないかって……」

「王に愛されたい、王に自分だけを見て欲しい……。それなら、なんで彼に水泳を教えているの? 泳げないままなら、それだけの力がないなら、彼は王に謁見できない。そうすれば、あなたは王を独り占めできたのに」


 アランは当然それを知っていた。

 しかし、できなかった。

 なぜなら、


「……王は彼を選んだんだ。なら、彼へ手助けするのは、当然の……ことだ」


 悔しさがにじみ出ているその言葉に、少女は苦笑する。


「馬鹿な子ね。そして、優しい子……。本当に」


 母のように慈愛に富んだ笑顔で。

 少女はアランを抱きしめる。

 ……その頭を、優しく撫でる。


 アランは泣かない。

 自分で決めた道だからこそ、涙は捨てた。

 そう、この苦しみは、すでに分かっていたことだから。


「結果がどうなるかなんて分かっているくせに。足掻くことをやめられないのね」


 少女はアランがどれだけ王を想っているのかを知っている。

 生まれたときから身近に存在していた、幼なじみなのだから。

 ……愛している、男のことだから。


「他の《深きものども(ディープ・ワン)》はあなたを連れ戻そうとしているわ。王の呼びかけにすぐ答えられるよう、王の近くに住んでいるんだから当然よね。王のためって言って、一族の決まりを破っているあなたを、連れ戻そうとしているのよ」


 少女は名残惜しそうにアランから離れる。

 そしてくるりと軽やかに一回転して、アランに向け両手を広げて言った。

 満面の笑みで。


「でも、わたしは。あなたを応援してるからね。あなたの精一杯の努力、実ると良いね」

「あ……」


 アランは知っている。

 少女がどんな想いでその言葉を口にしているのかを。

 ここ・・に来る前、少女に告白されたのだから。


 あのときは少女の想いを振り切った。

 今もそれは変わらない。

 でも、自分のために、一族の決定を伝えて、自分を応援してくれる少女に。

 その優しさに、絆されるところはたしかにあって。


 それと同時に、気付いた。

 少女の髪を縛るリボン。

 純白のそれは、幼い頃、アランがプレゼントしたもので。


 たしかにあのころ、少女は言っていた。

 ずっと大切にする、と。

 それを、今でも使い続けてくれている。

 その事実に、変わらぬ少女の姿に、その心に、眼球の奥が、鈍い痛みを告げる。


 少女は柔らかく笑む。

 そしてちょこちょこと小さな歩幅でアランに近づくと、アランの両頬に両手で触れて。

 爪先立ちになって。


「愛してるわ、アラン。誰よりも。……いつまでも」


 口づけは一瞬で。

 まるで夢だったのではないかと言うほどに。

 だけど唇に残るかすかな熱と、仄かな香りは、たしかにそれが夢じゃなかったと言うことを伝えてきて。


 少女の姿は音もなく消えた。

 陽炎のように、一瞬で。


 アランは唇に右手を触れる。


 少女の想いに……何も発することはできなかった。


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