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002.入部

 二〇一六年四月。

 悠は新品の制服に身を包み、私立夭水(ようすい)学園中学校の校門前に立っていた。


 埼玉一水泳に力を入れている中学校だ。

 何度も全国中学水泳大会で優勝しており、ここから何人ものオリンピック選手が出ている。

 水泳の名門校である。


 悠は夢のために県外から越境入学してきた。これから始まる日々に、胸が高鳴る。


「待っていてくれ。今、会いに行くから」


 名前も知らないきみへ。

 一言だけ、宣言し。


 一歩、踏み出した。


†††


 長い校長の話と共に入学式が終わり、これから一年を過ごすことになる教室でホームルームが終了すると、悠は二階へと駆け上がり部室棟を目指した。

 二階にある渡り廊下から部室棟に繋がっている。


 目当ての部室は、もちろん水泳部のもので。


 水泳部のものと思わしきドアの前には、一人の生徒が立っていた。


「水泳部はここでいいんですか?」

「ああ、そうだよ。あと俺も新入生だから」

「そうなんだ。僕は如月燐。よろしく」


 と言ったところで、ドアが開いた。

 出てきたのは細身で長身の少年。

 世界でも特に名の知られた少年だった。


「きみたちは入部希望者で良いのかな。私はアラン。アラン・C・ディーパー。三年だ。こちらへ来るんだ」


 アランはそう言うと、階段の方へ歩いて行った。


 ――アラン。

 その名は、誰しもが知っている。


 二年前、一二歳で二〇一二年ロンドンオリンピックにて競泳種目五〇M自由形、一〇〇M自由形、二〇〇M自由形、一〇〇Mバタフライ、二〇〇Mバタフライ、一〇〇M平泳ぎ、一〇〇M背泳ぎ、四〇〇M個人メドレー、八〇〇Mメドレーリレーで九冠に輝いた伝説の選手。

 もちろん今なお現役の選手であり、世界中のスイマーの目標たる人物だ。


 隣では燐が、アランに会えた幸運に涙を流していた。

 大げさに見えるが、決して他人のことを言えない。

 それだけ偉大な人物なのだから。アランは。


 とは言え、泣いている暇はない。

 感動している燐の肩を叩いて、悠はアランの背を追った。


 階段を下りて一階から出て、校舎をこえて西の端。

 真っ白い建物。

 アランはその前で立ち止まり、振り向いて。


「ここがプールだ」


 一歩入り、更衣室をこえた先には、五〇Mプール。

 そのさらに向こうには、アップ用だろう、二五Mプールが。

 なおかつ温水。

 これだけで、どれだけ水泳に力を入れているのかがわかる。


「プールの水は《聖別》してあるんだ。だから安心して練習できるよ」

「《聖別》されているんですか?!」


 燐の驚愕はもっともだ。

《聖別》された水をプールで使うなんて、普通では考えられないからだ。


「そうだよ。練習で《聖別》が弱い水だったら危ないだろう? まあ、試合前なら《聖別》が弱い水を使うから、他校と比べて不利と言うことはないけれどね、安心しなよ」


《聖別》――それは“海”の水を、教会の者が《洗歌聖礼せんかせいれい》という神の赦しを与える歌を代行者として捧げることで洗礼し、人に害がない水に変えること。

 代行者の能力や信仰心によって《聖別》には強弱があり、“海”の水を人に害がなくなるまで《聖別》するのには、通常は大司祭以上の者が一度、それ以下の者なら複数回行う必要がある。

 もちろん《聖別》には金がかかるが、水道水など人々の生活に関わるものの場合はかなり安価に抑えてくれ、それすらも国がお金を出してくれるため、国民は無料で水を飲むことができている。


 だけど、流石にプールの水まで無料にすることはできない。

 飲料水だけで莫大な金がかかっているのに、そんなことまで行ったら確実に国が回らなくなる。


 だからプールの水を《聖別》している学校なんて、ほとんどない。

 もちろん、まったく《聖別》されていないなんて危険すぎてあり得ないが、《聖別》が弱いところがほとんどである。


 逆に言うと、《聖別》した水を用意できないのであれば、プールを作ることは許可されない。

 水泳は生命にかかわる危険なスポーツなのだから、この厳しい定めは当然だ。


「さて」


 アランは水着に着替えると、悠たちに振り向いて口を開く。


「先ほども言ったけれど、私はアラン。三年生にして水泳部部長。水泳部唯一の部員だ。きみたちも自己紹介してくれるかな」


 アランの言に、まずは燐が口を開いた。


「一年二組、如月きさらぎりんです。泉水(せんすい)小学校から来ました。幼稚園の時からリトマンスイミングスクールの選手クラスに所属していました。得意種目はBt(バッタ)、苦手種目はありません。よろしくお願いします!!」

「きみが如月か。噂はよく聞いている。ジュニアオリンピックで準優勝したんだろう? ならば、四中対抗戦での水にも多少は慣れているだろう。期待しているよ」

「はい。噂に聞く四中の水にどれだけ耐えられるかは分かりませんが、全力を尽くします。Btで優勝を狙います」


 Btとはバタフライのことである。

 バタフライとは一度両足同時にキックし、両腕で同時に水を掻き、その最中にもう一度両足同時にキックをして呼吸をする泳法のこと。

 泳ぎのフォームが少しずれるだけで速度が極端に遅くなる、テクニカルな種目である。

 昔は平泳ぎの泳法規定が『うつぶせで、左右の手足の動きが対称的な泳法』と定められていたことから、ある選手が平泳ぎにおいて現在のバタフライに似た手の掻き方と平泳ぎの水の蹴り方を混ぜた泳法で好成績を収め、真似をした他の選手も同じく好成績を叩き出したことから平泳ぎではみんながその泳法で泳ぐことになり、バタフライとして独立させた経緯がある。


 ちなみに背泳ぎはBc(バック)と呼ばれ、仰向けで泳ぐ泳法である。

 両腕を交互に掻き、両足を交互に縦に蹴る。

 スタート時とターンの後には仰向けで水中をキックのみで泳ぐ潜水(バサロ)泳法を行い、それは現在一五Mまでと定められている。


 平泳ぎはBr(ブレスト)と呼ばれ、一掻き一蹴りで蛙のように泳ぐ泳法である。

 水を蹴る際に膝を引きつけすぎては水の抵抗が生まれて推進力が落ち、呼吸の後に腕と頭を水面の斜め下に送る際に下に傾きすぎても水の抵抗力が生まれて推進力が落ちてしまう、バタフライと同じく、そしてそれ以上にテクニカルな泳法である。

 スタート時とターン後には潜水中に一掻き一蹴りを行い、その一掻きの最中には一度だけバタフライの両足同時に縦に蹴る蹴り方であるドルフィンキックを行うことが許されている。


 クロールはFr(フリー)と呼ばれ、両腕を交互に掻き、両足を交互に縦に蹴る泳法である。

 背泳ぎのうつむけ版とも言えるだろう。最も早い泳法として知られている。


 一人でバタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、クロールという順番で、同じ距離ずつ泳ぐ種目である個人メドレーのことはIMと書く。

 合計一〇〇M泳ぐ場合は(いち)コメ、二〇〇Mでは()コメ、四〇〇Mでは(よん)コメと呼ばれる。


 四人が交代で同じ距離ずつクロールを泳ぐ種目をフリーリレーと呼び、FRと書く。

 合計二〇〇MのFRをニケイ、四〇〇Mをヨンケイ、八〇〇Mをハチケイもしくはパーケーと呼ぶが、○○Mフリーリレーと呼ぶのが普通だ。


 四人が同じ距離ずつ背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライ、クロールの順番で一人一種目を泳ぐ種目をメドレーリレーと呼び、MR(メドレー)と書く。

 二〇〇Mではニコンケイ、四〇〇Mではヨンコンケイとも呼ばれるが、メドレーと呼ぶのが普通だ。


「では次、お願いするよ」


 悠は両手を腰の後ろ側に回し、胸を張って声を出す。


「一年一組の水野(みずの)悠です! 神奈川の明浄(めいじょう)小学校から来ました。カナヅチですが……オリンピックに出場して、かつで出会った少女と再会するのが夢です!」


 そう。

 あの日、母親に全身をロープで縛られ、“海”に無理心中で投身自殺をさせられたときに出会った、光の少女と。

 あの日、助けてくれた少女と。


 悠の言葉に、一瞬アランの目がこちらを見据えた。

 冷たく鋭いそれは、あたかも月夜に煌めくナイフのように。


 しかし。

 それに疑問を抱くことはできなかった。

 なぜなら、


「ふざけるなッ!!」


 響き渡る燐の怒声が響き渡ったから。

 左頬を殴られ、次の瞬間、悠は胸ぐらを掴み上げられた。


「女のためにオリンピックを目指す? いいさいいさ、他の競技ならな。だけど、水泳で? ……ふざけるのもいい加減にしろよ。俺たちは命をかけて水泳やってんだ。スイマーは世界の命運を背負ってるんだぞ。そんなふざけた理由で水泳をやるなッ!!」


 そう。

 スイマーは世界を救うために、文字通り命がけで泳ぐ。

 実際に今まで何人ものスイマーが命を落としている。


 ――この世界には昔からある言い伝えがある。

 それは、『“海”には何かが封印されている』というものだ。

 それを証明するかのように“海”の水は少し黒みがかっており、触れると恐怖が具現化して襲いかかってくる。

 また身体中を無数の腕が絡みつき、底に引きずり込もうとしてくる。

 海水に浸かると、異常に重さを感じる。


 所詮は言い伝えであり現実的ではないとし、五〇年前に加速度的に国力を増してきて慢心していた某国と、その属国は水泳を行わなかった。

 すると突然“海”の水が意思を持つかのように(うごめ)き、その二国は“海”の底に沈んだ。


 そのようなことから、言い伝えは真実であるということと、神楽舞たる水泳の重要性を世界中の人々は再認識した。

 そして“海”には誰も立ち入らないよう、コンクリートで分厚く高い壁をたてて厳重に封鎖した。

 もちろん、完全にすべてを封鎖するなんてできるはずもなく、ごく僅かに侵入可能な場所が残されているが。


 日本人でオリンピックに出場したスイマーの八割強はリトマンスイミングスクールの選手クラス出身だ。

 そのクラスへ入ることを許されることは並大抵ではない。

 異常なまでに厳しい試験をくぐり抜けたものにしか立ち入ることはできない。


 そんなクラスで修練を積んできた燐は、それだけ強い意気込みで、世界を救わんと、水泳をしてきたのだろう。

 悠の甘ったれた言葉に激怒するのも当然だ。


 しかし。


「ふざけて、なんか……ないッ!! あの日僕を死から救い上げて浜辺へ送ってくれた彼女には、水泳を介してしか会えないはずなんだ! ……あの日のお礼を、僕はまだ言えてない。だから、“海”の中で出会ったあの光に満ちた少女と再会しなきゃいけないんだ!!」


 もちろんそれだけが理由なのではない。

 確かにそれも重要な理由の一つではあるが、少女と出会ったあのときに感じた欲望を叶えることも理由なのだ。

 すなわち――


 ――『笑顔の彼女を、手に入れたい』……。


 悠の強い想いが伝わったのか、燐は手を離した。


「そうか。その目に宿った鋼鉄の意志の炎、確かに本物だな。だけど、俺はまだ認めない。本当に水泳をやりたいんなら、一週間で泳げるようになれ」


 やはり自分の欲望が動機である悠を完全には認めたわけではないようだ。

 しかし条件付きの、許可。試練。


 ――やってやる。

 ――僕は必ず、彼女と再会する。

 ――彼女を手に入れるんだ。


 力強く一つ首肯。


 と、そのとき、


「如月が言うことを言ったから、私はもう怒りはしない。きみにはスイマーとして必要な要素、世界を救うという使命感が欠片もない。だけどオリンピックを目指すというその強い想いは、必ずきみを高みへと運んでくれるだろう。がんばれよ」


 アランは悠の肩をぽんと軽く叩き、言った。

 その顔は、先ほど悠を見ていた時の厳しさはない。

 ただただ、優しげな笑みが浮かんでいる。


 そしてアランは燐に目を向けて、


「如月。水野に泳ぎ方を教えてやってくれないか? 私は電話しなければならないことがあるから」

「……わかりました。水野、びしばしシゴくからな。覚悟しておけよ」

「見てろよ、絶対に認めさせてやるからなッ!」


 右手を強く握りしめて。

 悠の心は熱く燃え上がる。


 夢への第一歩が、踏み出された。


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