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016.根源

 八年前。

 夏日の昼下がり。


 ただいま、と元気な声をあげながら玄関の扉が開かれた。

 入ってきたのはひとりの少年。

 朗らかで、健康的な子だった。

 それはかつての燐。


 そしてその後ろから、おずおずと入ってきたのはひとりの少年。

 病弱そうな、色白な子だった。

 それは燐の幼馴染、紫苑。


 昨日、ふたりは話し合っていたのだ。

 今日、ふたりで遊ぼうと。

 そうして、まずはジュースを飲んでから、とリビングへ向かっていた。


 ちょっと贅沢に。カルピスの原液を多めに入れて。

 いつも通り入れると、味が薄いから。

 そして氷を入れると、ぱきん、と夏の音がした。

 グラスには夏の暑さにやられたかのように汗がしたたり落ちている。


 グラスをふたつ持って。

 リビングで座っている紫苑のもとへ持って行って。

 足元で丸くなる子猫を撫でてから。

 ふたりで乾杯して、カルピスを飲みながら。

 ふと、テレビをつけた。


 それが、はじまり。

 ふたりの道筋の原点。

 世界が、終わる光景。


 それは衛星が偶然捉えていた記録。

 フィクションでは決してない、生の光景。


 はじめに目に入ったのは、某国のランドマークタワー。

 超大で、有名な。

 それが真っ二つに折れていた。

 砕かれていた。


 次いで聞こえてきたのは、地響き。

 決して地震なんかではない。

 うごめく異形の”海”に、地上のすべてが打ち砕かれて、降り注ぐコンクリートが奏でる音だった。

 街が壊れる音だった。


 ブラウン管は映し続ける。

 世界が終わる様を。


「海が」


 水という無生物が、まるで意思を持っているかのように。

 ぐにゃりと無秩序に不気味に形を変えて。


「海が、ああ、海が」


 人を、建造物を、車を、すべてを喰らっていく。

 太陽の光を浴びてなお黒いそれは、いかなる人類の英知を以てしても押しとどめることは不可能で。


「神様――」


 ぽつりと。

 自然とつぶやかれた言葉は、習ったこともない単語だった。

 こんなにも幼い頃から信仰を持ったことはなかった。

 そんな教育を受けたこともなかった。

 だけど、網膜を介して脳に伝達されるこの景色は、音は、超越的な概念を無意識のうちに意識させて。


「ふんぐるい むぐるうなふ」


 そうつぶやいたのは誰か。

 燐か。

 紫苑か。

 アナウンサーか。

 それとも、足元で震える子猫か。

 わからない。

 そんなことも気にならないほどの映像。


 それはひどく現実味のない光景だった。

 それは夢のようだった。

 それは悪夢のようだった。

 それは現実だった。


 悲鳴。老若男女問わず圧倒的な質量に押し潰されていく。


 悲鳴。高層ビルが、木造建築が、重要文化財が、何もかもが豆腐よりも容易く砕け散る。


 悲鳴。打ち砕かれたアスファルトの塊に頭蓋を破壊される。


 悲鳴。高官が民を見捨てて避難するために搭乗し空を逃げ惑っているヘリコプターが、上空一〇〇〇M以上の高みを飛んでいるのに、ぐにょんと伸ばされた“海”の漆黒の巨腕に捕食され、墜落する。


 悲鳴。神を呼ぶ声。隣人を罵る声。もう助からないと、幼子を犯し狂気の笑みを浮かべる男。


 悲鳴。この世の地獄。救いはない。


 どこかで、犬が鳴いていた。

 いや、違う。

 泣いているのは燐自身か。


「なに、これ……」


 現実味のない光景。

 下手な三流映画よりもひどい。

 だけどそれは、たしかに現実の光景で。


 テレビからはアナウンサーの声が聞こえてくる。

 曰く、この国は水泳を行わなかったと。

 曰く、だから滅びたのだと。

 曰く、水泳は、行われなければならないと。


 ――水泳。

 ――荒ぶる異形の神を鎮める、神楽舞。


 その光景は、言葉は、ひどく心に突き刺さって。


「ねえ、紫苑」

「どうしたの、燐」

「ぼく……水泳を始めるよ」


 こんな光景は、もう見たくないから。

 だから、水泳を始める、と。

 水泳がどれだけ危険なスポーツなのかも知らず。

 どれだけ泣き叫ぶことになるかも知らず。

 そう、燐はつぶやいた。


「そう……」


 紫苑は目蓋を閉じて。

 少し考え込んで。


「……なら、ぼくもやるよ」

「え……でも、紫苑は身体が弱いでしょ」

「うん……だけど、燐にだけ任せるわけにはいかないよ」

「そっか」

「そうだよ」

「そうだね」

 

 そうして、ふたりで笑いあった。

 恐ろしい光景を塗りつぶすかのように。

 恐ろしい声を消し去るかのように。

 おぞましい叫びを忘れるかのように。


 それが、はじまり。

 ふたりの道筋の原点。

 スイマーを目指す、根源だった。

 


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