015.昇華
部活が終わって。
燐は電車に乗っていた。
帰宅のためではない。
行き先は、幼馴染の家。
今は喪き、友の――
†††
「あら、あなたは……」
日も落ちた住宅街。
街を照らす街灯も少ない、都市の暗がりにて。
年齢は六〇ほどであろうか、相貌に刻まれた年輪が、彼女の生きた年月を示していた。
そんな彼女に、燐は言葉を返す。
「お久しぶりです、おばさん」
「ほんとに、まあ……二年ぶりかしら」
「そうですね、ええ……最後にお会いしたのは、あの日でしたので」
思い出されるのは、二年前のあの日。
燐がジュニアオリンピックで準優勝を果たした、その日の出来事で。
「それで、燐ちゃん。今日はどうしたの?」
「久々に、あいつの……紫苑に線香をあげたくて」
その言葉に、女性の目じりに涙が浮かんだ。
「ありがとう。あの子のことを忘れずに、いてくれて……本当に……。だけど……いえ、今は先に、どうぞ」
「ありがとうございます」
そうして案内された先には、仏壇が。
位牌の背後に飾られた写真から、その人物がまだ少年であることを伝えていた。
「久しぶり、紫苑」
線香に火をつける。
ゆらめく煙に、言の葉を乗せて。
紫苑まで届けとばかりに。
燐は目を閉じて、言葉を続ける。
「今、学校で、お前みたいなやつがいるんだよ。同じ水泳部にさ。お前みたいにカナヅチで、でもオリンピックを目指すんだって言っている奴がさ」
それは悠のことで。
「お前みたいに死なせるわけにはいかないからさ、ぶん殴って。一週間で泳げるようになれって言ったら、本当に泳げるようになりやがったよ。それも、《聖別》された水じゃなくて、弱められた水でだぜ?」
涙交じりで燐は笑った。
「つらかったんだ。もうお前はいない。支えてくれる人は。だからこの旅路の途中で、いつ潰れてしまうかわからなくて……何度も逃げ出したくなった。だけどあいつを見て、またお前と走っている気がしたよ。」
だから、と。
今度こそは、と。
「お前みたいにならないように、あいつのことは、支えていくからさ。見ててくれよ」
†††
「燐ちゃん、ありがとう。あの子も喜んでくれているわ」
ハンカチで目元を押さえながら、紫苑の母は言った。
燐はその言葉に、首を振りながら。
「いえ、こちらこそありがとうございました」
「それにしても、あれから二年も経ったのね」
「ええ」
「あの日のこと、まだ覚えているわ。あなたに伝えてしまった、あの子の遺言。それと、私の勝手な罵倒」
それは、あの日のこと。
ジュニアオリンピックが終わった後の話。
「オリンピックを目指すっていう夢を、俺に託すという話ですか。罵倒……あれは、当然のことです」
「罵倒は、本当にごめんなさい。あの時は混乱していて。でも、いまさらだけど、罵倒もそうだし、遺言も、もう忘れてしまってもいいのよ」
「え……」
呆然と、燐はつぶやいた。
今でも覚えている。あのとき、涙交じりで燐へ願われた、あの言葉を。
なのに、どうして……。
そんな燐へと、優しげに紫苑の母は続ける。
「つらかったでしょう。ただでさえ、水泳は生命の危険があるのに。いつ死んでしまうかわからない、恐ろしいものなのに。あの子の分まで背負って、夢を追うのは」
「それは……」
「もう十分よ。あなたは頑張ったわ。あの日、ジュニアオリンピックで準優勝してからも、ずっといろんな大会で優勝してきて。去年はジュニアオリンピックを辞退して、オリンピックの強化練習に参加して。もう夢は目前じゃない」
涙を流しながら。
紫苑の母は、燐へ深く深く頭を下げた。
「だから、もう十分よ。本当にありがとう。もう、あの子の夢まで背負わなくて十分よ。だから、その重りは外して、あなただけの願いで走り出していいの」
「それは違います!」
振りほどくかのように、燐は叫んだ。
その否定の言葉に、紫苑の母は燐を見つめる。
「あいつの夢と俺の夢は同じです。同じなんです。あのとき、一緒にテレビを見て、”海”の暴虐を知って、この神楽舞を踊り続けようと」
燐はこぶしを握りこみながら言った。
そして逸る気持ちを抑えるかのように、一つ深呼吸して、続けた。
「あいつから託された想いがあったからこそ、今まで続けてこれたんです。そしてこれからも。正直、何度も水泳をやめたいと思ったことがあります。強化練習の時もそうです、何度も何度も泳ぐたびに死に続けて、もう逃げたいと。でも、それに耐えて続けられたのは、あいつの託した願いがあったから、あいつに恥じないように走り続けたいと思ったから」
「……っ」
ただの枷なんかじゃなかった。
紫苑の遺言は、自分の言ってしまった呪いの言葉は、たしかに燐の支えになっていたのだと。
その事実に、紫苑の母は溢れる涙を抑えることはできなかった。
燐はかすかに笑み、続ける。
「今、あいつみたいなやつが水泳部にいるんですよ。カナヅチで。でも、今日泳げるようになったんです。あいつを見てると、あいつを思い出して……あいつが、今も……俺と一緒に走り続けているように見えて……だからなんでしょうね。正直、昨日までだったらこの重りを外していたかもしれません。でも、今は……」
「ああっ……」
紫苑の母は悔いていた。
あのとき、喪ってしまった息子のことを想って、その願いが消えてしまわないようにと、燐へ背負わせてしまったことを。
それを悔いているからこそ、三三歳であるにもかかわらず、その倍は老け込んでしまって。
燐へと伝えようとしても、そうするのが怖くて、ここから動けなくて。
今日、燐が来てくれたことを契機として、その呪いから燐を解放しようとしたのにもかかわらず、燐は呪いを昇華して。
解放されたのは、自分だった。
「ありが……とう……、本当に……」




