009.渇望
練習終了後、悠は更衣室で着替えていた。
隣には燐の姿が。
……アランは、未だ厳しい練習をこなしている。
身体を拭きながら、悠は燐に訊ねた。
「なあ、燐。聞きたいことがあるんだ」
「どうかしたか?」
「燐がどんな夢を抱いているのか。昨日みたいに、苦しい練習を自ら課してまで願う渇望とはなんなのか。それを知りたいんだ」
燐はセームで水滴を拭う動作を止める。
そして大きく息を吐いた。
あたかも遠い過去を想っているかのように。
「……長い話になる。この後時間はあるか?」
「ああ。どうせひとり暮らしだし、宿題も出ていないからな」
「じゃあ、ファミレスにでも行こう」
†††
ファミレスでジュースを飲みながら、燐は口を開いた。
「あれは、たしか四歳の頃だったか。テレビで見たんだ。かつて“海”に沈みゆく某国の映像を。作り物ではない、本物の」
それは、過去の記憶。
ブラウン管の向こう側に映る光景。
フィクションなどでは決してない。
それも、衛星が偶然捉えていた記録。
水という無生物が、まるで意思を持っているかのように。
ぐにゃりと無秩序に不気味に形を変えて。
人を、建造物を、車を、すべてを喰らっていく。
太陽の光を浴びてなお黒いそれは、いかなる人類の英知を以てしても押しとどめることは不可能で。
悲鳴。老若男女問わず圧倒的な質量に押し潰されていく。
悲鳴。高層ビルが、木造建築が、重要文化財が、何もかもが豆腐よりも容易く砕け散る。
悲鳴。打ち砕かれたアスファルトの塊に頭蓋を破壊される。
悲鳴。高官が民を見捨てて避難するために搭乗し空を逃げ惑っているヘリコプターが、上空一〇〇〇M以上の高みを飛んでいるのに、ぐにょんと伸ばされた“海”の漆黒の腕に捕食され、墜落する。
悲鳴。神を呼ぶ声。隣人を罵る声。もう助からないと、幼子を犯し狂気の笑みを浮かべる男。
悲鳴。この世の地獄。救いはない。
「あの映像を見た瞬間、震えたよ。ションベンが漏れそうだった。いや、もしかしたら漏らしていたかもしれない」
ジュースを一口飲んで、燐は喉の渇きを潤した。
コップを持つ右手は震えている。
過去を思い返し、恐怖していた。
あれだけ肉体を酷使するほどストイックに水泳に打ち込んでいた燐が。
しかし、それは当然だ、と悠は思う。
自分が“海”をたゆたったときも、同じ気持ちだったから。
……絶望し、彼女の姿を見るまでは。
自分も震えて泣き叫んでいたから。
「それで、どうして水泳をやることに?」
「あの映像を見て、いかに水泳が大切なものなのかを知ったよ。あの国は例年通り水泳を行っていれば滅びなかったかもしれない。水泳は続けられなくてはならない、世界のために」
「……ああ、そうだな。僕も燐たちの練習を見て、その意思の重要性をまざまざと感じられたよ。強いな、本当に」
「……強くなんてない」
燐の声は涙声だった。
鋼鉄のような燐が、涙を流していた。
みっともなく泣き叫ぶものではない。
感情の高ぶりに、自然に涙が流れる男泣きだった。
「強くなんてないさ。本当は怖いんだ。今でも怖い」
怖い……それなのに水泳を続けられているのか?
同じように恐怖している自分は、燐の助力で少しずつ改善してきているとはいえ、カナヅチなのに。
涙を拭うことなく、燐は話し続ける。
……いや、自身が泣いていることすら気づいていないのか。
「でも、俺がやらないで誰がやるんだ? たしかに他にもスイマーが居る。彼らに任せれば良いかもしれない。でも、彼らに任せたからって国は助かり続けるのか? ……俺は不安だね。彼らは逃げるかもしれない、恐怖に心折れて。……なら、俺がやるしかないじゃないか」
恐怖しながらも、足掻き続ける燐の姿は、幻想的だった。
それは決して優雅ではないが、傷つきながらも困難に挑み続ける肉食獣の如き雄々しさで。
「……死にたくない。俺は映像を見てそう思った。あんな風に死にたくはないって。だからどんなに苦しくても、逃げ出したくても、俺は水泳を続ける」
長い、長い溜息を燐は吐く。
ゆっくりと。
自身の中の恐怖をすべて吐き出すかのように。
そして燐は再度口を開く。
優しげな光を携えた瞳を、悠に向けて。
「だから、お前も逃げ出して良いんだ。夢はたしかに大切だ。でも、お前は“海”の恐怖を誰よりも知っているだろう? そう、俺よりも。その彼女っていうのは、水泳を続けなければ本当に再会できない存在なのか? ……もしそうじゃないなら、それに恐怖に逃げ出したくなったら。俺に任せれば良い。お前ひとり分くらいの重荷は背負える」
燐の話を聞いて、悠は思った。
そんなことはないと。
“海”の中で出会った彼女。
幻覚だったかもしれない。
妄想だったかもしれない。
精霊と呼ばれる、想像上の超常存在だったのかもしれない。
しかし、たしかなことは、人間ではないこと。
あんな“海”の底で、あんな風に存在できる存在が、人間に居るはずもない。
ならば、“海”に関連する存在なのだろう。
《聖別》の効いたプールに入っても彼女の片鱗すら窺えないことから、そのことが窺い知れる。
「……僕は。逃げない。燐のように。水の恐怖を呑み干して、さらに一歩彼女の近くへ。進んでみせる」
「……そうか。なら、頑張らないとな」
燐は暖かな眼差しで。
悠を見つめている。
……ひとつ、弱さの殻を打ち破れた気がした。




