7-9.とまったのは久遠
パタン。
「ふぅ……」
私物用ロッカーを閉めた俺は、一つ息をついた。
いつもクラスメートで溢れかえっているロッカールームも、今は自分しかいない。
帰るのが遅くなった理由は、体育祭の後始末があったからだ。
生徒が帰った後でも、実行委員にはやることが数多くある。
本部テントの分解。
応援席のパイプ椅子の格納。
使用した器具の片付け……
人数がいるし、神崎先輩の適切な指示によってスムーズに進められたとはいえ、元々ない体力をさらに奪われるのは身体にこたえる。
もう足は棒のようになり、腕は力をかけるとプルプル震えだす有様だ。
さっきまで教室で着替えをしていたときだって、いつもの数倍は時間がかかったし。
「さてと、帰るかな」
ロッカーに鍵をかけ、トントンと靴のつま先を叩きながらロッカールームを出る。
「あっ……」
「……」
ちょうど目の前に久遠が立っていた。
着替えはすでに終えたらしく、ブラウスとスカートに身を包み、通学用の鞄を両手で前に下げている。
顔が真っ直ぐこちらを向いているところを見ると、俺を待っていたのか。
……友達に待ってもらうなんて何年ぶりだろうな。
「……一緒に、帰らないか?」
そっと声をかけた。
今日は自転車ではなく、バスと徒歩でここまできている。
理由は体育祭があって、疲れるから。
だって棒のようになった足で、家まで漕ぎたくないだろ?
……
……そんなのは、自分へのうそ。
恥ずかしさを隠すための言い訳。
本当は、久遠と一緒に帰りたいからだ。
ここから家に帰るまでが、久遠といることのできる最後の時間。
それを潰し、一人で帰るのはあまりにも惜しいと思った。
せめて、最後くらいは……
目の前にいる久遠は、俺を見つめたまま表情を全く変えずに、
「……ええ」
とだけ言った。
階段を下りて、玄関ホールから出口へ。
かるがもロードを歩き、幹線道路から駅へと向かう。
半年の間、何回か久遠と共に歩いた道だ。
夕方とあって、空は焼けるようなオレンジ色に染まっている。
カラスの鳴き声も聞こえてきた。
幹線道路をビュンビュンと走っていく、乗用車やトラック。
車道の隅で遠慮気味に列を連ねる、数台の自転車。
バッグを肩から下げ、歩いていく歩行者。
いつもと変わりのない風景からは、今日が土曜日であることすらも忘れてしまいそうだ。
「結局、勝ったのは白組だったわね」
「長縄跳びで負けたからな。さすがは理数科、恐れいったよ」
公園の前を通りすぎながら、そんな会話を交わしていく。
俺たちA組が、過去最高となる三十四回を跳ぶという偉業を成し遂げたものの、理数科はそれを大きく上回る四十五回を跳び、二年生中堂々の一位を飾った。
三年生の先輩たちによる追い上げもむなしく、今年の優勝は赤組となったわけである。
「本番になると、みんな突然やる気を出すものね」
はぁー……とあきれ顔の久遠。
「いつもは勝手気ままなのに、ってか?」
「それまで十回すら数えるほどしか跳べなかったのよ? 数字だけ見れば、ドーピングすら疑うレベルだわ」
体育祭でドーピング、ね。
クラス全員が筋肉ムキムキになっていたら、それはそれで面白いかもな。
まあ本番でいきなり記録が伸びたのはA組もそうだし、どこも似たり寄ったりなのかもしれない。
練習では感じられない、緊張感があるからか。
高架をくぐり、国道に出た。
左に曲がって少し歩けば、そこはもう静岡駅だ。
白いアーケードの下をやわらかな光を発しているライトに照らされながら歩いていると、青になった信号からバスが向かってきた。
「乗りましょうか」
「あ、うん……」
返事を待ち、とととっと駆け出す久遠。
俺は鞄を持ち直し、その背中を追った。
神様がいるならば、どうしてそこまで俺にいたずらをするのだろう。
少しでも久遠と話していたいと思ったが、どうやらバス待ちの時間すら与えてくれなかったらしい。
運命とは、こうも残酷なものなのか。
黒いスーツに身を包んだサラリーマンや、買いもの帰りなのか大きなトートバッグを下げている女性。
そんな人たちと列を作りながら、細長いバスの車内へと入っていく。
土曜日のせいなのか、いつも帰るときよりもスペースに余裕があった。
発車直前に乗ったから、椅子には座れなかったけど。
『左前よし、右よし、車内よし。発車いたします』
プシュン! という音。
車内が震え、吊り輪が前後に揺れ動く。
バスは駅を出て、国道から県道の方向へと曲がった。
赤いテールライトと白いヘッドライト。
繁華街の肌色をしたライト。
色鮮やかなイルミネーション。
それらの間へ割り込むようにして、バスは北へと伸びる県道を走っていく。
この道を真っ直ぐ、山間部へと向かっていくので、降りる予定のバス停まではそんなに時間はかからない。
混雑していることを考慮しても、せいぜい十五分といったところだ。
以前はそれでも長いと思っていた、帰宅までの時間。
なのに今日は、自分でも異常だとわかるくらい短く感じている。
「理数科だからって、何でもできるわけではないのに」
「俺ら普通科から見れば、何でもできる天才集団に見えるよ」
ああ……
この時間が永遠に続けばいいのに。
しょうもない会話、中身のない会話。
くだらないと言えばそれまでだが、そんな時間でもいい。
今ほど時間というものを欲しいと思ったことはなかった。
表面上で必死にとり繕ってはいるものの、ちょっとしたきっかけがあればすぐにでも崩壊してしまいそうな自分の感情。
行かないでくれ!
そう怒鳴りたかった。
思いをぶちまけたかった。
でも……それはできない。
周囲に迷惑だとか、それ以前に何も変わらないからだ。
俺が泣こうがわめこうが、久遠は静岡を旅立っていく。
そして休み明けからは、たった一人ですごす放課後が待っているのだ。
誰にも会わない、寂しい放課後が――
『ありがとうございました、お足下にお気をつけください』
バスを降りた俺たちの周りは、想像以上に静かだった。
人通りも少ないし、車も思い出したようしか走ってこない。
和菓子屋の照明と電器屋のイルミネーションが、その存在を強く主張しているだけだ。
「……お別れね」
ぽつりと、久遠がそう言ってきた。
ブラウスの背中から聞こえた声は、いつもと変わりのない声。
普段、話しかけてくるときと同じトーンだ。
「……そうだな」
下へうつむきながら、それだけをしぼり出す。
ついにきてしまった。
俺と久遠の――別れのときが。
もっと後だと思っていたのに。
まだまだ一緒にいられると思ったのに。
ずっと友達として、近くにいてもらえると思ったのに。
行って欲しくない。
もう姿を見ることはできないであろう、遠くの地へ行って欲しくなどない。
だが……
それは俺の、勝手な願いごと。
栃木へ行けば、久遠は家族のいる幸せを感じることができるのだ。
これまでのように、一人を寂しがる必要などない。
向こうの学校へ行けば、友達もできるだろう。
恋人もできるだろう。
そしていつかは……
「え……?」
ぽた……
雫がアスファルトへ落ちた。
ぽた……ぽた……
雨?
いや、今日は快晴のはずだ。
夕立が降るという予報はなかったし、バスから見えた空に雲らしき影はなかった。
「ちょ、ちょっと……どうしたのよ?」
久遠の慌てたような声。
ぱたぱたと足音が近づいてくる。
どうしたんだ?
俺のことなのか……?
「な、なんでも……」
した返事は……涙声だった。
頬をツー……と生温かいものが流れ落ちていく。
ああ、そういうことか。
ようやく理解が追いついた。
俺は――泣いているんだ。
高校生にもなって、歩道とはいえ道の真ん中で。
恋人というわけでもない女子高生と別れるだけで、俺は悲しみに負けたのだ。
「ご……ごめん……。どうしても……不安になっちゃって……」
まるで耐え切れなくなったダムのように、涙という水が溢れ出てくる。
感情を我慢できなくなったのだ。
視界がぼやける。
世界が歪んで見える。
いっそのこと、このまま全てが壊れればいいのに。
そんなことすら考えた。
「そうなの……。不安なのね……」
やさしい声が聞こえた。
温かく、気持ちのこもったやさしい声。
その声の主が、俺の右手を軽くつかんできた。
体温が伝わってくる。
女の子の手というのは、こんなにやわらかいんだ。
やわらかくて、でもしっかりしている、久遠の手。
「だけど大丈夫。西ヶ谷なら、私の後を任せることができる。そう確信しているから」
見上げた久遠の顔は、どこかやさしく見えた。
笑っているわけではない。
泣いているわけでもない。
いつもと同じように俺を見つめ、口を軽く閉じ、頬を紅潮させているだけ。
それなのに、普段の久遠とは全く違う顔に見える。
母親が泣いている息子を慰めるとき――そんな母性が感じとれる雰囲気だ。
「タイムテーブルのミスがあったとき、西ヶ谷は私をとめにきてくれたでしょう? それも説得という常套手段を放棄し、刀を使った実力行使で」
涙が溢れそうだったので、ゆっくりと頷く。
「あれは私という人間を理解していなければ、かつ、私を実力で上回るという強い意思がなければ、とれない行動でしょう」
「でもあのときは、勝算なんか考えてなくって……」
「それでも西ヶ谷はきてくれた。私がナイフを見せたのに、怯えることなく立ち向かってきた。そして……私に勝った」
いや、あれは勝利したわけではない。
あのときの俺に勝たせてもらっただけだ。
そもそも勝利というのも気がひける。
「戻るという考え自体、まずなかったのだし……」
ほめられるようなことではないと思っているので、遠慮気味に否定した。
それでも、久遠は言葉を重ねてくる。
「戻らないと決めていた。それは、西ヶ谷が一つの信念で、強い意志を持って行動していた証拠」
「強い……意思……」
「どんなことがあっても曲げない、強い意思。絶対的な目標さえ自分で設定できるのならば、何があっても怖くはないわ」
久遠は少しだけ、得意そうに言い切った。
俺はそんなに意思が強いのだろうか?
面倒だと思ったことはすぐにあきらめるし、まずとりかからないときすらある。
今回は逃げ道が塞がれていただけだし、久遠のことで頭がいっぱいだったからだ。
素直に自分を評価することはできないな。
「それに……久遠がいなくなるのは寂しいよ……」
言うつもりなどなかったのに、ポロリと本音が出てしまった。
それまでずっと一人だった俺が、今さらになって寂しいだなんて……
だが、久遠がいなくなった日常が想像できない……いや、したくないのだ。
一人しかいない部室。
ただただ風の音くらいが聞こえる中、ゲームくらいしかすることがない。
依頼がくれば、俺が相談を受けるしかないだろう。
相手の感情や悩みを考えつつ、ちゃんと聞いてあげられるだろうか。
そしていじめをした者への制裁。
適切に状況を読み取る能力がない俺が、力任せに刀を振るったところで抑止力を発揮できるとは思えないのだ。
ずっと久遠任せであることから、脱却したい気持ちはあるけど……
「私は西ヶ谷のことを忘れたりなどしない」
真っ直ぐな視線が、俺に突き刺さる。
にらみつけられているわけではない。
しかし、その視線はどこか鋭く感じられた。
「だって西ヶ谷は……私が認めた唯一の存在ですもの」
「唯一の……存在……?」
意味がわからず、オウム返しに聞いてしまった。
「私はあのとき、全てを話したつもりよ。覚えているでしょう?」
「夏休みに行った……お寺でのこと……?」
「そう。私の心でもっとも奥にある、表に出すことのできない感情」
久遠は上を見上げた。
夕焼けから夜になろうとしている、薄暗い空。
遠くにカラスだろうか、羽ばたいている鳥の群が見えた。
「私はそれを後悔していない。それどころか、西ヶ谷に聞いてもらえてよかったと思っているわ」
また、真っ直ぐな視線が戻ってくる。
「あのとき西ヶ谷がくれたのは、社交辞令の慰めでもなく、オブラートに包んだ気休めでもない。正真正銘、自らが考えていた本当の言葉」
「……」
「西ヶ谷ほど、私に対して正直になってくれた人はいなかった。……私の欲しい言葉をくれた人はいなかった」
胸ポケットに右手を入れる久遠。
とり出したのは、無地のハンカチ。
それを上へ上げてくると、俺の頬を伝っていた涙をふいてくれた。
「ほら、男の子でしょう? 泣かないの。最後まで強くいなさい」
甘酸っぱい香り。
やわらかい刺激が、その右手からハンカチを介して伝わってくる。
そこにいたのは女の子。
普通の女子高生だった。
いや、そうではない。
久遠が見せた、本当の素顔といったところだ。
冷たい性格のように感じられる久遠であるが、その根はとても他人思いだ。
友達と呼べる存在がいなかったから気づかれなかっただけだろう。
それを味わうことが、これで最後になるなんて……
「笑いなさい」
涙をふきおわった久遠が、ハンカチを胸ポケットに戻しながら言ってきた。
その顔は、いつもの無機質な表情だ。
「西ヶ谷にできて私にできないこと。その一つが、笑うことなんだから」
「う、うん……」
「自分の強みを生かしなさい。強い信念、曲げない気持ち。それをもってすれば、西ヶ谷は私にすら勝てるのだから」
あの久遠が、自分の負けを認めるなんて。
最後のお別れだから、リップサービスも入っているのだろう。
それでも、あの久遠に認められたのはうれしくてしかたがない。
半年前に「あなたをここに入れる必要はないわ」と言われた日から、俺と久遠のつきあいは始まった。
そして今、間逆とも言える言葉をかけられたのだ。
数々の修羅場をくぐりぬけてきたであろう久遠から、あなたを認めるという言葉を。
「さようなら。最後なんだから、しっかりと見送りなさい」
くるっと身体の向きを変える久遠。
青になった、歩行者用の信号。
白い線が何本も入った横断歩道を、静かにゆっくりと歩いていく。
「……さようなら」
小さく、手を振った。
このまま時間がとまって欲しい。
でも、それはダメだ。
久遠は自分のために行かなければならない。
家族のいる幸せを感じ、
一人を寂しがる必要などなくなり、
向こうの学校で友達も作り、
恋人もでき……
それでも、友達でいられると思う。
電話をしよう。
メールもしよう。
そしていつかは……俺から会いにいこう。
待っていてくれるであろう、久遠の姿を見るために。
ブゥン!
信号が赤になり、とまっていた車がいっせいに動き出す。
目の前を通り過ぎた、大きな路線バス。
その後に、ブラウスにスカート姿の久遠はいなかった――
ご意見、ご感想をお待ちしております




