七つの林檎
あの日から一週間が経った。再開発の工事音は、以前よりも心なしか騒がしく聞こえる。
内野さんは、返ってきた黒いパンプスを律儀に履いて出社していた。「無敵のキャリアウーマン」の成果は今のところ不明だが、少なくとも靴を失くして出社することはなくなった。それだけでも進歩と言える。
「……あ、先輩。今日、定時で上がれますよね?」
十九時を少し回った頃、デスクで資料をまとめていた僕に、内野さんが声をかけてきた。手元には、派手なリボンがかけられた、小さな籠が置かれている。
「まあ、急ぎの案件はないけど。何かあるん?」
「これ、昨日実家から送られてきたんですよ。うち、長野の農家で」
内野さんは誇らしげに籠の蓋を開けた。中には、驚くほど真っ赤で、艶やかなリンゴが七つ、行儀よく並んでいる。その不自然なまでの美しさは、オフィスの中毒々しいほどの存在感を放っていた。
「わあ、すごい綺麗。……せやけど、なんで七つ?」
「さあ? 父が『ちょうどいい数だ』って言ってたんですけど。あ、そうだ。これ、あのビルの管理人の人に持っていこうと思って」
「……あのビル? ルームナンバー404?」
僕は思わず声をひそめた。あの、コンクリートのペンシルビルの光景が蘇る。
「そうですー。靴を返してもらったお礼に。それに、ちょっと気になることがあって」
「気になること?」
「あの日、『お昼ご飯に何食べるか決めてない不安』を置いてきたじゃないですか。そしたら、翌日から毎日、お昼休みのチャイムが鳴った瞬間に、なぜか『無性にオムライスが食べたい』っていう明確な意志が湧いてくるようになったんですよ。すごくないですか?」
「……それは、単なる食欲の偏りやろ」
「違いますって! これはきっと、管理人の人が私の『迷い』を吸い取ってくれたからですよ。だから、その成果報告も兼ねて。先輩も、一緒に行きますよね?」
彼女の目は、あの日と同じ、純粋で、そして底なしの好奇心に満ちていた。僕は、自分の心の中に澱のように残っていた、あの管理人の言葉を思い出した。
『次は、あなた自身の『捨てられない記憶』でお会いしましょう』
(……行くべきじゃない)
理性はそう告げていた。だが、僕の足は、すでに内野さんの後を追って動き出していた。あの暴投の続きが、どうしても気になってしまったのだ。
夜の街灯に照らされた『シンデレラ・プレイス』は、前回よりもさらに不気味に見えた。周囲の更地が広がり、一本だけ立つその姿は、まるで墓標のようでもある。
古びた真鍮のプレートは、今日も『Room № 404』の一行だけを掲げている。
内野さんがドアをノックしようとした瞬間、前回と同じように、ドアは音もなく内側へ開いた。
「失礼しますー。……あ、やっぱり」
中に入った内野さんが声を上げた。
部屋の様子は、前回と一変していた。ベルベットの床も、ガラスケースも、白い台座もない。そこは、古びた、しかし暖かみのある木造のロッヂのような空間だった。
そして、部屋の中央には、長い木製のテーブルが置かれ、その周りを、七つの小さな椅子が囲んでいた。
「……七つ」
僕は、籠の中のリンゴの数を思い出し、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
部屋の奥から、あの日と同じ、澄んだ声が響いた。三つ揃えのスーツを着た管理人が、優雅に姿を現す。手には、真っ白な手袋。胸元のバッジには『Room № 404』。
「……これ、お礼です。実家のリンゴ」
内野さんは、怯むことなく籠を差し出した。管理人は、恭しくそれを受け取り、籠の中からリンゴを一つつまみ上げた。
「素晴らしい。完璧な色、完璧な形。……まるで、毒でも入っているかのような美しさですね」
管理人は、冗談めかして言った。その目が、一瞬、僕の方を捉えた気がした。
「管理人のさん。私、あの後すごく調子が良いんですよ。お昼ご飯迷わなくなったし」
「それは重畳。当館のサービスが、お客様の人生に彩りを与えているのであれば、これ以上の喜びはありません」
管理人は、リンゴをテーブルの上に置き、僕たちに向き直った。
「さて。本日は、内野様は『お礼』とのことですが……。お連れ様は、何か『お持ち寄り』いただけましたでしょうか?」
管理人の視線が、僕の足元から、胸元へ、そして頭へと、ゆっくりと移動する。まるで、僕の全身を品定めしているかのようだ。
「……僕は、何も」
僕は、辛うじて声を絞り出した。
「おや、左様ですか。……ですが、私には見えます。お客様の影が、以前よりも少し、重くなっているように」
管理人は、僕に一歩近づいた。
「この街の再開発が進むにつれ、消えゆく記憶が、お客様の元へ集まっている。……違いますか?」
僕は、言葉を失った。確かに、最近、この街を歩くたびに、昔の記憶が、鮮明に蘇ることが多くなっていた。よく行った喫茶店、初めて表彰された帰りに寄ったラーメン屋……。それらの場所が更地になっていくたびに、僕の中の「何か」が、削られていくような感覚があった。
「それは、お客様がこの街を愛している証。……ですが、それは同時に、お客様を『過去』に縛り付ける鎖でもあります」
管理人は、僕の目の前で、手袋をはめた手を広げた。
「その『捨てられない記憶』。もしよろしければ、当館でお預かりしましょうか? 代わりに、お客様には、この街の『新しい未来』を、もっと純粋に楽しめる心を差し上げましょう」
管理人の言葉は、甘く、そして抗いがたい魅力を持っていた。もし、この感傷から解放されたら、どれだけ楽になるだろう。
「先輩……?」
内野さんが、心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
その瞬間、僕は、管理人の背後にある、七つの椅子に気づいた。それぞれの椅子に、小さな、古びた名札がかけられている。
『強がり』
『臆病』
『見栄』
『怠惰』
『嫉妬』
『傲慢』
『諦め』
それらは、人間が誰しも持っている、しかし認めたくない、「醜い一面」の名前だった。
(……この人は、記憶を集めているんじゃない)
僕は、直感した。
(この人は、人間の『心』を、少しずつ削り取って、展示しているんだ)
靴は「解放感」と、不安は「迷い」と。そして、僕の記憶は「感傷」と。
それを手放した時、僕は、僕でいられるのだろうか。
「……結構です」
僕は、管理人の目を真っ直ぐに見つめ、はっきりと告げた。
「この感傷も、この街の記憶も、僕の一部です。手放すつもりはありません」
管理人は、僕の答えを聞くと、少しだけ、残念そうな、しかし、どこか満足げな微笑を浮かべた。
「……左様ですか。それは、実にもったいない。……ですが、お客様の意志を尊重いたします」
管理人は、テーブルの上のリンゴを、再び籠に戻した。
「では、このリンゴは、私が美味しくいただくことにいたします。……内野様。素晴らしい贈り物を、ありがとうございました」
管理人は、優雅に一礼した。
「……また、いつでもお越しください。ルームナンバー404は、常に、お客様の『捨てたいもの』をお待ちしております」
エレベーターの扉が閉まる瞬間、管理人の男が、籠の中のリンゴを、愛おしそうに撫でているのが見えた。
ビルの外に出ると、夜風は、以前よりも、少しだけ、暖かく感じられた。
再開発の工事音は、相変わらず騒がしい。だが、僕の中にある、この街の記憶は、以前よりも、鮮明に、そして、愛おしく感じられた。
「……先輩。やっぱり、あの管理人のさん、ちょっと変ですよねー」
隣で、内野さんが、籠を抱え直しながら、語尾をのばした。
「でも、リンゴ、喜んでくれてよかった。……あ、先輩。今日、定時で上がれたし、どっか飲みに行きません? 今度は、靴脱がない店で!」
内野さんは、いたずらっぽく笑い、軽快な足音を立てて歩き出した。
僕は、その後ろ姿を追いかけながら、自分の足元を見た。
ちゃんと靴は履いている。
そして、僕の心の中には、この街の、決して消えない記憶が、しっかりと刻まれている。
「……ルームナンバー404。またいつか、行くかもしれないな」
僕は、小さく呟いた。
「不安」が溜まった時、あるいは、「捨てられない記憶」が、あまりにも重くなった時。
その時は、僕も、何かを「お持ち寄り」することになるのだろう。
だが、今は、この感傷と共に、この街を、もう少しだけ、歩いていたい。
再開発の波に飲まれ、消えゆく街の、最後の記憶として。




