裸足のシンデレラ
「ちょっと飲み足りないやんな?」
会社の表彰式を兼ねた飲み会を終えた頃、僕は内野さんにそう声をかけた。表彰式中参加者はひとつの集団だったが、終了後は何個かの小さな群れに散り散りとなり、それぞれで雑談を繰り広げたり、その後の予定を立てたりしていた。通常、会社の営業時間は十時から十九時までだが、表彰式は十七時から開始だった。つまり成績優秀者は少し早く仕事を切り上げ、早めのビールにありつけることが出来るというわけだ。小学生の頃、学校を早退した際、普段は見る事の出来ない人気のテレビ番組を見ている時のような、少しの背徳感が心地よい。表彰式が終わったのが十九時であり、まだ夜更けには充分な時間があった。
この辺りは駅周辺ながら閑静な住宅地で、駅から家路につく人も多かった。駅周辺ということもあってか、歩道の幅は広く、その家路につく人を積極的に歓迎しているようにも見えた。今はまだ落ち着いた印象の周辺環境だが、再開発・区画整理を進める区域に指定されており、この町は数年で様変わりするだろうと予想されていた。周辺にある緑地や河川など豊かな自然環境や文化施設等のまちのポテンシャルと、民間活力を活かした魅力的な拠点形成を推進することとしているようだ。駅前を賑わいの核とするようで、一帯の古い建造物は軒並みキャタピラに踏みつぶされ、新たな建物へと変わるのだろう。大学生時代から慣れ親しんだ町だけに、少しだけ浸る感傷がある。変わらないと思っていたものも、やがては、消えゆく。
内野さんに声をかけようと思ったのは、一緒の会社で働く同僚ながら、僕が知らないところがいっぱいあると常々思っていたからだった。中途で入社してすぐの頃の印象としては、若いのにしっかりしたところのある人だと思っていた。だが、先輩社員達の評価は散々なものだったので、どこにそのギャップがあるのか疑問だった。しばらくすると、見え透いた詐欺にひっかかってみたり(必ず当たる馬券が分かるアプリを開発中なので五十万円投資してほしい)、お酒に酔っ払いすぎて靴を失くした状態で出社したり(そのままお客様の前に出るわけもいかず、僕が代理で対応する必要があった)、等のエピソードが現れはじめた。一見、仕事はきちんとこなしているようで、なんだか破天荒な部分がある。先輩社員達の言うことにも首肯せざるを得なくなった僕は、その素っ頓狂の内側をもっと知りたいと考えるようになっていた。僕がこれまで出会ってきた人の中には「陽気な変わり者」は少なく(陰気な変わり者ならたくさんいた)、物珍しさを感じていたからだ。ちょうど家までの電車の路線も同じだったので、場所を変えて飲み直すのにも都合が良さそうだった。十七時からのわずかな飲酒量では飲み足らないのは必然であったので、難なく二軒目に付き合ってもらえることになった。
電車で数駅移動し、入った焼鳥屋で飲み直しはじめた。電車で移動している際に車窓から見た景色はいつもよりどっぷり暗く(というより黒く)感じられた。降りた駅のアーケードを通り抜け、入口の黒塗りされた扉をくぐり抜けお店に入った。店内のモダンな雰囲気とよく合っていて、こだわりのある空間づくりとなっていた。
「これ美味しいですねー」
語尾をのばす大人は、ばかか優しいかのどちらかだと何かで読んだことがあった。内野さんはどちらだろうか。現在のところ、そのどちらかというのが判断つかなかった。
「こないださ、靴履かずに出社してきたやん。あれってなんでやったん?」
「えー、特に理由なんてないですよー」
「いやいやいや、理由なく靴がないわけないやん」
「……誰にも言わないでくださいね?」
「言わん言わん」
「絶対ですよ?」
「しつこいて、心の内に秘めておくから」
「…お酒を飲むと足がむくむって言うじゃないですか。それで、あの日もすごく足がむくんいる気がして、なんか靴ジャマだなって思っちゃったんですよねー。そしたら、靴を履いていない解放感がやみつきになってきちゃって……私の足と夜風が一体化するような感覚でしたね、あれは。ふと我に返った時には、もうどこに靴を置いたかもわかんなくなっちゃったんですよ」
「……ちょっと何言ってるかわからない」
「だから話したくなかったんですよ!あーあ、あの靴、良い値段したのに……。誰か届けてくれないですかね?」
「そんなシンデレラの王子様みたいな人おらんやろ」
「いるかもしれないじゃないですかー。王子様が靴を持って現れた時、気まずくないように、靴脱いどいた方が良いですかね?」
「……本気で言ってる?」
「半分くらいは?」
彼女はそう言って、冷めたつくねを無造作に口に放り込んだ。咀嚼するたびに、モダンな店内に不釣り合いなほど幸福そうな顔をする。「ばか」なのか「優しい」のか、そのどちらかであるという僕の二択は、今のところ「ばか」の方に大きく針を振っていた。呆れてハイボールを流し込む。内野さんの受け答えは僕の想像を軽々と越えていた。隣で内野さんはそういえばと、ジョッキの結露を指でなぞりながら、ふと思い出したように言った。
「あの時、結局靴は見つからなかったんですけど、代わりに全然知らない人の名刺が鞄の中に入ってたんですよね。不思議じゃないですか?」
「単に誰かにナンパされたとかちゃうん?」
「え、イケメンですかね?」
「知らんがな」
会話のキャッチボールをしているはずなのに、暴投ばかりが飛んでくる。だが、その暴投を受け止めるのが、なんだか妙に楽しくなっている自分もいた。彼女の「良い値段した靴」が今もどこかに転がっているのかもしれないと空想に耽りたくなる。
「次は、靴を失くさない店に行こうか」
「あ、いいですねー。でも、できれば座敷じゃないところがいいです。また解放感に負けちゃうかもしれないのでー」
彼女は語尾をのばして笑った。僕は伝票を手に取り、この愉快で不可解な同僚を連れて、次の店を探す事にした。店を出ると、夜風は焼鳥屋の熱気を剥ぎ取っていくように冷たかった。再開発の波を待つ古い建物たちが、街灯の薄明かりの中で静かに肩を寄せ合っている。
「……で、その名刺はどうしたん?」
「あ、それですよ。ルームナンバーだけ書いてあったんです。404って」
歩道の広い並木道を歩きながら、内野さんはバッグの底を指先で探るような仕草をした。その拍子に、彼女の足元が街灯に照らされる。今日はちゃんと、左右揃いのパンプスがアスファルトを叩く乾いた音を立てていた。
「404? 名前も会社名もなしに?」
「そうなんですー。数字だけ。ホテルの部屋番号か何かですかね。ちょっとミステリアスで良くないですか?」
「良くないやろ。それ、ただの不審者やん。もしくは本当はそんな名刺もろてへんとか」
「ひどい! ちょっとまってくださいね、いま鞄から出しますからー」
内野さんは口を尖らせて、鞄の中をゴソゴソ探している。なかなか探し物は見つからないようで、鞄の中に手だけではなく頭まで突っ込んでいる。
「あ、名刺、ありました」
彼女が差し出したのは、確かに一枚の白いカードだった。角が折れ曲がり、少し汚れて湿り気を帯びたその紙片には、万年筆か何かで書かれたような、整いすぎた字が躍っていた。
『ルームナンバー 404』
それ以外には、地図も連絡先も、彼女が期待していた王子の名前すらも記されていない。ただ、その名刺の裏側を覗き込んだ僕は、思わず喉を鳴らした。
「……これ、見てみ」
「え、何ですか?」
僕が指し示した裏面には、小さな文字でこう書かれていた。
『あなたの足、お預かりしています』
僕は内野さんの顔を見た。彼女は「えーーー!」と声を弾ませ、語尾をいつにも増して長くのばしながら、夜の闇の向こう側を指差した。
「これ、あれですよ!再開発でここに最近できた、あの変な名前のビルの広告ですよ!」
彼女が指差した先には、再開発エリアの縁にぽつんと建つ、周囲の古い家屋とは明らかに異質な、細長いペンシルビルがあった。周囲を更地に囲まれ、まるで見せしめのように一本だけ立っているその建物は、コンクリートの肌が夜の街灯を跳ね返して白く浮き上がっている。
「……あそこか?」
「そうですー。確か、一階が怪し気なバーになってて、上が会員制のレンタルルームとか言ってた気がします。ビルの名前、何でしたっけ。……『カボチャ』じゃなくて……あ、『シンデレラ・プレイス』だ!」
「そのまんまやないか」とツッコミを入れながらも、僕は彼女の勢いに押されて歩き出した。名刺の裏に書かれた『あなたの足、お預かりしています』という一文。それは靴のことなのか、それとももっと比喩的な、あるいは不気味な意味があるのか。普通なら警戒して引き返すところだが、隣で「私の足、家賃滞納してないかなー」と呑気なことを言っている内野さんを見ていると、恐怖心よりも「この暴投がどこまで伸びるのか見てみたい」という好奇心が勝ってしまう。
ビルの入り口に辿り着くと、そこには古びた真鍮のプレートが掲げられていた。新しくできたビルの案内板がなぜ古びているのか?何かコンセプトめいたものでもあるのかもしれない。各階の案内が書かれているはずのその場所には、たった一行、手書きのラベルが貼られているだけだった。
Room № 404
「不気味やけど行くぞ。靴、返してもらうだけやし」
「あ、はい……。でも、もし王子様が本当にいたら、私、なんて挨拶すればいいですかね?」
「『靴、返せ』でええやろ」
内野さんが意を決したように、ドアをノックした。
返事はない。だが、ドアは鍵がかかっていないのか、わずかな隙間を開けて僕たちを誘うように動いた。
「あのー、失礼しますー……」
彼女が語尾を震わせながら中を覗き込んだ瞬間、僕たちの目に飛び込んできたのは、予想だにしない光景だった。
そこは、部屋というよりは「展示室」だった。
窓ひとつない空間を照らしているのは、天井からのスポットライトだけ。ベルベットの深い赤色の床の上、整然と並べられた白い台座がいくつも鎮座している。そのひとつひとつにガラスケースが被せられ、中には「あるもの」が恭しく飾られていた。
「……何、これ」
僕の声が、静まり返った室内に奇妙に反響する。ガラスケースの中に収められていたのは、すべて「靴」だった。それも、完璧なペアで揃えられたものばかり。泥のついたスニーカー、踵のすり減ったビジネスシューズ、そして洗練されたデザインのヒール。まるで、この街の住人たちの足元を、そのまま切り取って収集したかのようだ。
「……あ! 私の靴! 両方ともある!」
内野さんが駆け寄ったのは、部屋の中央にある少し大きめの台座だった。そこには、彼女が「良い値段した」と言っていた、見覚えのある黒のパンプスが、まるで見事な彫刻作品であるかのように光を浴びて並んでいた。
「……とにかく、見つかってよかったやん」
僕が安堵して声をかけると、内野さんは台座に添えられた小さなプレートを見て、顔をしかめた。
『作品名:野生への帰還(完全版) / 寄贈:内野様(無意識)』
「タイトル…?しかも完全版って……それに寄贈って……私、靴あげてないって!」
内野さんは呆然としながら、語尾をのばすことすら忘れてそのプレートを見つめている。
「……いらっしゃいませ。シンデレラ・プレイスへようこそ」
背後から、低く、しかし驚くほど澄んだ声が響いた。
振り返ると、そこには完璧に整えられた三つ揃えのスーツを着た、年齢不詳の男が立っていた。手には白い手袋をはめ、胸元にはあの一枚の名刺と同じ『ルームナンバー 404』の文字が刺繍されたバッジが光っている。
「あなたがこの名刺を?」
僕が問うと、男は優雅に一礼した。
「私はここの管理人です。この街から消えゆく『記憶』と、酔った勢いで完全に置き去りにされた『遺失物』を保護し、芸術として昇華させるのが私の仕事でして」
「芸術って、これただの忘れ物やろ。……内野、はよ靴返してもらえ」
僕が促すと、内野さんはおずおずと管理人の男に尋ねた。
「あの……これ、返してもらえるんですか?」
管理人は、少しだけ寂しげな微笑を浮かべた。
「もちろんです。ですが、当館のルールで、靴をお返しする際には『対価』をいただいております」
「対価……。やっぱりお金かかるんですかー?」
内野さんは急に現実的な顔をして、バッグの紐をぎゅっと握りしめた。
「いいえ。当館が求めているのは、もっと個人的で、この街の再開発と共に消えてしまうような……いわば『不要になった執着』です」
管理人は手袋をはめた手で、内野さんの黒いパンプスを指し示した。
「内野様。あなたはこの靴を失くした夜、解放感に浸り、夜風との一体感を感じられたのですよね。それは何物にも代えがたい体験だったことでしょう。その代わりとして、あなたが今持っている『明日への不安』をひとつ、ここに置いていってください」
「え、不安……ですか?」
内野さんは拍子抜けしたように瞬きをした。
「はい。例えば『明日の朝礼で指名されたらどうしよう』とか、『冷蔵庫の牛乳の賞味期限が切れているかもしれない』とか。その程度の、取るに足らない、けれど心の隅にこびりついている不安です。それをこの空のガラスケースに吹き込んでいただければ、あなたの靴は自由になります」
内野さんは少し考え込み、やがて「それなら山ほどありますよー」と、いつもの調子で語尾をのばした。
「じゃあ、『お昼ご飯に何食べるか決めてない不安』を置いていきます!」
「承りました。実に素晴らしいです」
管理人が恭しくガラスケースを持ち上げると、内野さんは自分の黒いパンプスをひったくるように手に取った。
「やったー! おかえり! これで明日も無敵のキャリアウーマンですよー」
彼女はその場で返ってきた靴に足を通し、感触を確かめる。不安を置いてきたせいか、彼女の足取りは先ほどよりもさらに軽やか(というより、さらに浮ついているよう)に見えた。
「よし、じゃあ帰るか。もう変な名刺もらうなよ」
僕がそう言って出口に向かおうとすると、管理人が僕の方を向いて、静かに微笑んだ。
「お客様。本日は、お連れ様の分だけで結構ですよ。……次は、あなた自身の『捨てられない記憶』でお会いしましょう」
「……は?」
僕が聞き返そうとした瞬間、エレベーターの扉が重々しく閉まった。
一階に降り、ビルの外へ出ると、夜風は相変わらず冷たかった。隣では、不安を置いてきて完全にすっきりした顔の内野さんが、「次はどの店に行きましょうねー」と、また語尾をのばして笑っている。
ふと、自分の足元を見た。
ちゃんと靴は履いている。失くした覚えもない。
だが、あの管理人の言葉が、自分の心の中に、妙に深く溶け込んでいくような気がした。
「……内野さん、その名刺、もう捨てとけよ」
「えー、記念に取っておきますよー。ルームナンバー404、またいつか『不安』が溜まったら行くかもしれないですし」
彼女はいたずらっぽく笑い、軽快な足音を立てて駅の方へと歩き出した。僕はその後ろ姿を追いかけながら、もやもやとした心を振り払えないでいた。




