欲の処理班
本編3章4話です
雨の匂いがしていた。
まだ降り出してはいない。
けれど空気は重く、湿っている。荷台の外を流れる森の闇まで、じっとりと水を含んでいるみたいだった。
馬車の屋根を打つのは、木々から落ちる雫の音だけだ。一定じゃない。ぽつ、ぽつ、と不意に落ちる。その曖昧な間が、かえって眠気を遠ざけていた。
眠れなかった。
揺れる灯りの下で、ハルトは目を閉じきれずにいた。
馬車の天井板を見上げる。板の継ぎ目が、揺れに合わせて微かにずれて見える。疲れているはずなのに、意識だけが沈まない。
周囲では、憲兵たちが武具を抱えたまま眠っていた。
剣帯を外す余裕もなく、鎧の留め具も半端なまま、壁にもたれて目を閉じている。眠っているというより、身体が勝手に意識を落としているだけだ。昼の拠点襲撃で受けた損耗が、そのまま荷台の空気になってこびりついている。
ハルトの隣にはラルスがいた。
背中を板へ預け、両手を膝の上で重ねたまま、浅く息をしている。
顔色はまだ戻っていない。昼間に見せた、あの竜の輪郭。無から引きずり出すような魔法を放った代償が、想像以上に重いのだと分かる。
膝が少し内側に寄っている。寒さではなく、反動がまだ抜けていない身体の力み方だった。
向かい側。
アイシャは座席の端に背を預け、ほとんど影と同化するみたいに黙っていた。
目を閉じているのか、半分だけ開いているのかも分かりづらい。
窓の外から漏れる夜の気配を、ただ受け取っているようにも見えるし、何もかも拒んでいるようにも見える。
声をかける気にはなれなかった。
昼の帰り道。
馬車の中で交わした言葉が、まだ胸の奥に残っている。
――実力の差を、理屈で埋めようとしないで。
――それ、正義じゃない。言い訳。
正しかった。
だからこそ、何も言い返せなかった。
ハルトはそっと拳を握る。
自分は守った。
少なくとも、そのつもりだった。
ラルスを守り、敵との前に境界線を引き、倒れないように立ち続けた。
けれどそれは、真に“戦えた”という意味ではない。
ラルスは戦況そのものを変えた。
アイシャは最初から最後まで、戦場の主導権を握っていた。
自分はそのどちらでもなかった。
いなければ困る。
だが、いなければ勝てない存在でもない。
その中途半端さが、一番苦しかった。
(……俺は、何が欲しい)
力か。
違う。
ただ強くなりたいわけじゃない。
誰かを踏みつぶす力が欲しいわけでも、目に見えて派手な魔法を使いたいわけでもない。
勝利か。
それも少し違う。
勝ちたいというより――
(追いつきたい)
その言葉だけが、ようやく形になった。
ラルスに。
アイシャに。
この世界で自分よりずっと前を歩いている同世代に。
どんな魔法なら追いつける。
どんなテーマなら、届く。
炎か。水か。風か。土か。
それとも、もっと別の何かか。
答えは出ない。
出ないまま、焦りだけが積もる。
異世界に来てから何度も痛感させられてきた。
知らないことが、そのまま死に繋がる。
遅れることが、そのまま誰かを失うことになる。
それなのに、自分はまだ“欲しい力”の輪郭すら掴めていない。
馬車がひとつ、深く揺れた。
外で風が鳴る。
その瞬間だった。
――ガシャン!!
激しい衝撃が横から叩きつけられた。
世界が一気に傾く。
車輪が跳ね、木材が裂け、馬の悲鳴が闇を引き裂いた。荷が飛ぶ。身体が浮く。考えるより先に、ハルトの腕が動いた。
「ラルス!!」
隣の身体を引き寄せる。
細い肩が腕の中へ滑り込む。
次の瞬間、馬車は横転した。
板壁へ叩きつけられる衝撃を、自分の背で受ける。肺の空気が一気に抜け、喉の奥が痺れた。視界が白く滲む。痛みが走る。だが、それを数える余裕はない。
「……っ、無事か」
腕の中のラルスが、うっすらと目を開けた。
焦点は揺れている。だが意識はある。返事は声にならないまま、かすかな呼吸で返ってきた。
その一方で――
外から泥を叩く音がした。
反射的に視線を向ける。
向かい側の席が空いていた。
アイシャの姿がない。
(放り出された――!)
理解と同時に、隊長の怒声が飛んだ。
「襲撃だ!! 起きろ!」
憲兵たちが一斉に身を起こす。
狭い荷台の中で鎧がぶつかり、剣帯が鳴り、息が荒くなる。
そのタイミングを見計らったように、雨が降り始めた。
最初は細い。
だがすぐに、音が増える。屋根を失った馬車の残骸に叩きつけられ、泥を跳ね上げ、視界を細かく濁していく。
その先。
闇の中に、五人、立っていた。
昼に見た連中とは違う。
明らかに空気が違う。異様なまでの余裕と殺気に満ちた空気に一部の憲兵は圧倒されている。
そして、その背後。
魔物がいた。
飢えているわけじゃない。
傷跡は深い。使い潰されてきたのは一目で分かる。けれど、目が死んでいない。動きに迷いがない。牙の見せ方、足運び、獲物への寄り方。全部が“殺すため”に整っていた。
戦うことだけを覚えさせられた生き物だ。
ハルトは瞬時に理解する。
(本命……)
昼の拠点を潰した連中じゃない。
あれは手足であり、消耗品だったのだろう。
だが、今目の前にいるのは違う。
こちらへ、確実に止めを刺しに来た。
ハルトは盾を前へ出し、声を張った。
「何者だ!」
問いかけに対し、五人のうち一人が一歩前へ出る。
雨に濡れたフードの下で、口元だけが笑った。
「我々は――ハンドラー」
ゆっくり、名乗る。
「欲の処理班だ」
その声は静かだった。
静かで、滑らかで、だから余計に不快だった。
「欲を肥やし、身を肥やす者を喰らい尽くし、支配する」
男が顎を軽く上げる。
それを合図に、背後の魔物たちが喉を鳴らした。
「それが我々の与えられた役目だ」
次の瞬間、地面が跳ねた。
戦闘が始まった。
――最初から劣勢だった。
幹部は四人。
こちらの主戦力も四人。
ハルト、ラルス、隊長、副隊長。
だが数が並んでいるだけで、中身は並んでいなかった。
魔物が強い。昼の拠点で見た、弱りきった連中とは明らかに違う。三人で一体を押しとどめても、なお押し返される。牙が盾を削り、爪が鎧の隙間を探り、突き出した槍を噛んで軌道を逸らす。
「くそっ……!」
叫びが上がる。
その横で、ハルトは目の前の幹部と斬り結んだ。
ラルスの後方支援がある。足元を泥に変え、刃の軌道をずらし、わずかな隙を作る。その一瞬で、ハルトは踏み込み、押し返し、間合いを奪う。
だが余裕はない。
幹部の一撃が重い。
剣の筋がぶれない。
速さも、踏み込みも、迷いがない。
昼間に対した雑兵とは根本から違う。
斬ることにも、殺すことにも、躊躇がない動きだった。
そして――。
もう一人。
ムチを持った少年がいた。
年は他よりも幼い……おそらく俺たちと同じくらだ。けれど、空気だけはこの場で一番悪い。
戦場を駆け回る。まるで遊ぶみたいな足取りで。
笑っている。
魔物の耳元でムチを鳴らし、方向を変える。
憲兵の足を絡め取り、泥へ叩きつける。起き上がる前に、そこへ魔物を流し込む。
悲鳴。
血。
雨。
笑い声。
全部が混ざる。
(……最悪だ)
戦場の重心が崩れていく。
守りたい場所が定まらない。
さっきから周りで悲鳴と雄叫びが鳴り止まない。
ラルスが後ろで呼吸を整える気配がした。
その息が、急に乱れた。
「……っ」
ハルトが振り向くより先に、ラルスの膝が落ちた。
「ラルス様!」
副隊長が叫ぶ。
ラルスは言い返そうとしたのだろう。
だが言葉にならない。喉がひきつり、肩が上下し、指先が震えていた。
「まだ……っ、いけま、す……」
そう言って前を見ようとする。
だが視線が定まらない。呼吸が浅い。額に滲んだ汗が雨と混ざり、頬を伝って落ちていく。
両手が空を掴むみたいに半端な位置で止まる。
魔法を組もうとしている。思考回路を繋ぎ直そうとしている。けれど、頭の中で何本もの線が絡まり、引きちぎれかけているのが、その表情だけで分かった。
「まだ、止めたら……っ、このまま……!」
歯を食いしばる。
苦しい。
それでも、どうにかしないといけない。
そういう顔だった。
その横顔を見た瞬間、隊長が舌打ちに似た息を吐いた。
「思考回路の限界だ!」
そして即座に叫ぶ。
「マーク! 来い! 三人持っていくぞ!」
隊長と副隊長が前へ出る。
幹部四人のうち三人を無理やり身体ごと割り込んでいく。
「守れ!」
短い命令だった。
反論の余地も、迷う暇もない。
三人の幹部がそちらへ引きずられる。
残る一人が、雨の中で静かに剣先を持ち上げた。
ハルトはラルスの肩を支えながら後退する。
これで戦場構図が固定された。
隊長と副隊長が幹部三人を引き連れて距離を取る。
憲兵たちは魔物に押されている。
ムチ使いの少年は自由。
そして自分は――
ラルスを庇いながら、幹部一人落とさなければならない。
状況を理解した瞬間、喉の奥が乾いた。
一対一。
異世界に来てから初めて、真正面から落とさなければならない強敵だった。
剣が来る。
速い。
盾を壁にしない。
角度をつける。衝撃を横へ流す。
腕が痺れる。
そのまま踏み込まれる。
深い。
こちらが下がれないと知った上で、半歩内へ入ってくる。
後ろにはラルスがいる。下がれない。だから削られる。
「っ……!」
押し返す。
だが切れない。
一撃ごとに、次の一手が早い。
重い、速い、迷いがない。
こちらが一瞬でも守りに寄れば、そのまま押し潰される。
しかも急がなければならない。
ラルスを守る。
その上で、この一人を倒す。
そして、次に動く。
条件が多すぎる。
だが、数えたところで減りはしない。
幹部の剣が雨を裂く。
ハルトは盾の縁で逸らし、直剣を差し込む。浅い。すぐ切られる。間に合わない。
背後でラルスの呼吸が崩れる。
まだ何かをしようとしている。
しなければ、と身体だけが前へ出ようとしている。
その音が、余計に焦りを強くした。
守るだけじゃ足りない。
この一人を、ここで、最速で無力化しなければならない。
その時だった。
戦場を引き裂くような叫び声が、雨の向こうから叩きつけられた。
「貴様らああああああああああ!!!」
鎖が空を裂いた。
雨の幕を一直線に断ち、その軌道上にいた魔物の首が宙を舞う。
血が噴くより早く、斧が二度、三度と閃いた。
そこで初めて、ハルトの視界にアイシャが入る。
歯を噛み締め、壊れた表情のまま、一直線に戦場へ食い込んでくる。
焦点の定まらない目。荒い呼吸。力任せに振るわれる鎖と斧。
強い。
今のままなら、戦場をひっくり返せる。
だが――おそらく持たない。
あれは“戦っている”状態じゃない。憎悪だけで動いている。
俗に言う暴走状態だ。
アイシャが鎖を振るうたび、明らかに消耗している。いつもの正確さがない。鎖に身体が引っ張られている。呼吸も浅い。動きは鋭いのに、余白がない。全部を力任せに繋いでいる。
今の戦闘能力は高い。
いや、戦場全体で見れば、むしろ一番高い。
あのまま協力的に使えれば、この状況を打開できる。
隊長たちが押されている側面も、崩れかけた憲兵の陣も、ひっくり返せるだけの力がある。
だが――このままでは駄目だ。
今のアイシャは、強いまま壊れる。
体力が尽きる。
判断が鈍る。
そして、殺される。
ムチ使いはそれを待っている。
今は遊んでいるだけだ。
怒らせ、走らせ、消耗させ、その一番良いところで仕留めるつもりだ。
ハルトはそこでようやく、本当に理解した。
――鍵はアイシャだ。
――そして、このままじゃその鍵は折れる。
なら、やることは一つしかない。
目の前の敵を最速で無力化する。
ラルスを守りながら。
アイシャの体力が尽きる前に、あそこへ行く。
それ以外に、この状況をひっくり返す道はない。
ハルトは息を吸った。
雨が頬を打つ。
泥が跳ねる。
剣先の向こうで、幹部が口元だけを歪めた。
それでも、もう迷わない。
ハルトは盾を低く落とし、剣を握り直した。
――ここを越える。
ここからが、本当の戦いだった。
最後歯がゆくさせてごめんなさい
次の話をなるべく早く投稿します




