二つの鍵盤6
駅に着くと西浦さんから預かったメモをバッグから取り出した。メモには『珈琲と紅茶の店 喫茶木菟 一一時待ち合わせ』と書かれている。
ふと腕時計に目を遣る。時刻は九時四〇分。どうやら予定よりだいぶ早く着いてしまったようだ。こんなことならもう少し掃除を手伝ってくれば良かった……。と少し後悔する。
後悔先に立たず。あるいは覆水盆に返らず。そんな諺が頭に浮かんだ。いや、覆水盆に返らずは若干ニュアンスが違うかも知れない。
……まぁ仕方ないか。約束の時間まで適当にブラブラしよう。私は誰かに言い訳するように首を横に振ると多摩川河川敷に向かった――。
一〇分ぐらい歩くと河川敷にたどり着いた。平日の午前中だからか、河川敷の人は疎らでお年寄りと子連れの若い母親ぐらいしか居なかった。母親は三歳くらいの小さな男の子と追いかけっこしている。
空を見上げると鰯雲が浮かんでいた。そして雲間から春の温かい日差しが零れていた。気がつけば新緑の季節終わってしまったようだ。これから梅雨に向かう。今はそんな季節と季節の狭間なのだと思う。
私は辺りを見渡してから土手に腰を下ろした。そしてひたすら多摩川の水面を眺めた。私はこういう時間が大好きなのだ。
あかりと一緒にランチしたり、京介と禅問答のような会話したりするのも好きだけれど、たまにはこうしてひとりぼっちの世界に沈みたくなる。
川に反射する日の光は雲間の移ろいによってその姿を変えていった。きらきらひかる川面。それを遮る鰯雲。悪くない。もし許されるなら一日中ここに居たい。ここに居てタンポポのよに深く根を張って自生したい。そんな最高にイカレた気持ちになった。まぁこれは……。ささやかな現実逃避なのだけれど。
少しずつ日が高くなる。そして徐々に鰯雲は東に流されていった。その様子に急に時の流れを思い出した。そうだ、私は株式会社ニンヒアの社員。断じてタンポポなんかじゃない。
腕時計に目を遣ると時刻は一〇時四〇分になっていた。ちょうど良い時間だ。私は「ふぅ」と軽いため息を吐くと立ち上がった。そして空に浮かぶ雲、そして日の光を一瞥した――。
喫茶木菟。その店は駅と河川敷のちょうど中間ぐらいの場所にあった。レンガ造りの店で店名を象徴するようなミミズクの置物が店内外に何体も飾られていた。変な言い方だけれど私にはそれらがとても『センスのいい置物』に見えた。姿形はまるで違うはずなのにどの置物にもある種の同一性がある。
そんなミミズクたちを見ていると中から店主らしき女性が箒とちり取りを持って出てきた。見た目は五〇代後半くらい。額には健康的に歳を重ねたような皺が寄っている。
「あの、すいません」
私は彼女に声を掛けた。
「はい?」
彼女は笑顔で返事をする。
「あの、待ち合わせで来たんですが……」
「待ち合わせ……。ああ、もしかして音楽レーベルの方?」
彼女は首を傾げながら言うと「フフッ」と可愛らしい声だ笑った。
「はい! そうです」
「あらあら、ちょっと待っててくださいねぇ。ふみこー! お客さん来たよー」
その女性は掃除用具片手にドアを開けると店内に向かってそう叫んだ。
「ごめんなさいね。今来ますから」
彼女はそう言うと口元を緩めて笑った――。