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二つの鍵盤5

「おはよう春川さん」

 私が部署内の掃除をしていると西浦さんが顔を覗かせた。いつものグレーのスーツ姿ではない。明らかに清掃員のような服装だ。

「お、はようございます!」

 私は思わずぎょっとした。掃除婦おばちゃんごっこ。そんな会社役員の戯れは止めて欲しい。

「どう? なかなか掃除のおばちゃんみたいな格好でしょ?」

 西浦さんはそう言うと「これ結構気に入ってるのよ」とダメ押しのように付け加えた。正直、反応に困る。

「すいません……。私もジャージ持ってくれば良かったですね」

「いいのよ。これは私が好きで着てきただけだから。……っていうかアレよ。春川さんには他の用事頼みたいの! いいかしら? 掃除は私がしておくから」

 この人は何を言い出すんだ? と私は内心思った。流石にそんなことはさせられない。

「西浦さん、流石にそれは……」

 私が言いかけると彼女は私の口元に人差し指を差し出した。

「ダメよ春川さん。あなたにはあなたしかできない仕事をして貰うわ。大丈夫、心配しなくてもここはキレイに掃除しておくから!」

 西浦さんはそこまで言うと持ってきた雑巾で窓を拭き始めた。

 どうやら私には拒否権がないらしい――。


 クリエイター発掘部から閉め出された私は西浦さんに指定された場所へ向かった。近くだけれど滅多に行かない場所だ。多摩川沿いの街。二子玉川。

 私の記憶の中にある二子玉川はただただ河川敷が広がる場所だった。たしか弟がやっていた少年野球の地区予選で応援に行ったのが最後だった気がする。残念ながら私にとってはその程度の記憶しかない。

 まず新宿駅から渋谷駅に向かう。交通手段は電車。西浦さんにはタクシーで直行して良いと言われたけれど私は断った。会社の経費だって有限なのだ。まぁ、これは古巣の課長が口酸っぱく言っていたから身に染みているのだけれど。

 渋谷に着くとそのまま地下に吸い込まれるように田園都市線のホームに向かった。ここまではよく知っている。三軒茶屋にはウチの会社の備品倉庫があるし、私もよくアーティストの荷物搬入の手伝いをしている。だから私にとって三軒茶屋はとても馴染みのある場所なのだ。

 そんな馴染みある田園都市線渋谷駅のホームに立つと妙な胸騒ぎを覚えた。これから会う人はいったいどんな子なのだろう? そんなありふれた不安に見舞われる。

 私は電車を待つ間、彼女の応募用紙の内容を復唱するように思い返した。名前は紫村御苑、作家名は冬木紫苑。年齢は二三歳。後天性の強い弱視で盲目にかなり近い。一年前まで小説投稿サイト『文藝くらぶ』で作品投稿をしていた。作風は異世界転生モノ……。そこまでの内容をまるで呪文のように脳内でリピートする。

 ちなみに『文藝くらぶ』内での彼女の評価は控えめに言ってかなりの人気者だったらしい……。これはあくまでネット上での評判の話だけれど。

 そんな冬木紫苑はある日突然ネット上から姿を消したそうだ。忽然と。跡形なく。その様子はまるで最初から冬木紫苑など居なかったかのようだったらしい。

 だからかは知らないけれど、彼女の消息に関して様々な憶測が無責任に垂れ流された。海外に拉致されたとか、何かしらの事件に巻き込まれたとか、はたまたUFOにさらわれたとか……。そんな東京スポーツでも飛びつかなそうなネタまで流布したらしい。ネットの悪意ある匿名性。それを象徴するかのように。

 そこまで思い返して私は妙な気持ちになった。なぜ、そんなネットを大きくざわつかせるような人物が私たちのプロジェクトに絡んでいるのだろう? そこには何らかの意図や大きな力が加わっているのではないだろうか? それこそ反社会的な動きだとか。そんなあまり表立って言えないような人たちが絡んでいるのかも知れない……。私はまるで陰謀論者のようにそんなことを思った。

 ないない。そんなことはあり得ない。私は頭を横に振る。

 まぁいいだろう。とりあえず今から会えるのだ。そう思うことにしよう――。

 やがてそんな私の行き場のない思考を遮るように中央林間行きの電車がホームに滑り込んできた。『私に乗れば答えにたどり着けるよ』そう語りかけるように。


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