二つの鍵盤4
「陽子おはよー」
部署異動の日の朝、私が荷物整理をしているとあかりに声を掛けられた。定評のあるぶりっ子ヴォイスだ。
「おはよう」
私は努めて普通に挨拶を返した。ギリギリ無愛想に聞こえないくらいのトーンだと思う。
「うん! 今日から部署お引っ越しだっけ?」
「そうだよ。ただ荷物運ぶだけだけどね」
私はそう言ってからデスクの横に停めておいた台車に視線を送った。台車の上には段ボールが三つ積まれている。中身は私の大切な仕事道具たちだ。
「手伝うよー」
あかりはそう言いながら強引に私のデスクの荷物を持ち上げた。青いファイルと事務用品入れ。そんな軽い荷物ばかり手に取る。
「いいよ別に……。これぐらい一人で運べるからさ」
「まぁまぁ、そう言わないでさぁ。じゃあ行こっか?」
あかりはまるで自分が別部署に異動するような口ぶりで言うと「ふふん」と鼻を鳴らす。
私はこの口調で話すときのあかりをよく知っている。何かお願いするとき、面倒ごとを抱えているとき、彼女はいつもこのテンションなのだ。つまりはドラブルを押しつけたいのだろう。
正直に言おう。私はあかりのこの姑息な部分が大嫌いだった。「自己成長したいの!」などとご大層なこと言っていたってその実はずるい女なのだ。眉をハの字にして上目遣いにすればだいたいの面倒ごとは誰かが肩代わりしてくれる……。おそらくはそう考えているのだと思う――。
「へー。ここがクリエイター発掘部なんだねぇ」
あかりは部屋に着くなり物珍しそうに室内を見渡した。
「うん。まだ部署と言うには物足りないけどね……」
私はそう言いながら台車から段ボールを下ろした。そして互い違いに閉じておいた箱の口を開く。
「ふぅーん……。でも部長職いいじゃん! 私じゃ部長代理なんてなれなそうだもん」
「ハハハ、まぁ……。たまたまよ」
そう。本当にたまたまなのだ。これは謙遜ではない。
たまたま、私は面倒見の良い性格で。
たまたま、私に懐くアーティストが多く。
たまたま、西浦さんが私を指名した。
それだけなのだと思う。
「謙遜しないの! あーあ、私も異動しないかなぁ。私なんか毎日フォトショで画像加工ばっかりだよ? 正直うんざりぃ」
あかりは愚痴を吐き捨てるとすぐにデフォルメされたようなむくれっ面になった。イタい女。悪い意味でそう思う。
「そうねぇ……」
「そうだよ! ってか陽子ばっかりずるいよぉ。私と同期なのに……」
ここまで来るとあかりの愚痴は止まらない。そのことは私が一番理解している。
本当に面倒な女だ。同じ会社の同じ部署の同期じゃなかったらこんなに深い付き合いはしなかったと思う。まぁ……。とは言っても情がないわけでもないのだけれど――。
それから私はあかりの愚痴を一通り聞いてから彼女を企画二課に帰した。幸いなことに今日の面倒ごとは単なる愚痴だけだったらしい。愚痴ぐらいなら安いモノだ。クレーム対応やら面倒なプロジェクトのフォローなんかさせられたらたまったもんじゃない。
一人になってから改めて部署内を見渡す。デスクと椅子は全部で七つ。新品のホワイトボード。あるのはそれだけだ。常設のパソコンは置かれていない。
私は窓際の席に腰掛けた。そして埃っぽいブラインドを指でなぞった――。