月不知のセレネー18
鍵山邸での顔会わせから数日後。私は新宿駅前の喫茶店に来ていた。今日は一人ではない。この前クリエイター発掘部に異動になった柏木くんも一緒だ。
「春川部長って忙しそうっすね」
私が席でパソコンを広げると柏木くんに感心とも呆れとも取れるような口調で言われた。
「そう? 普通だよ。それより……。そのだらしないネクタイどうにかなんない?」
私はそう言って彼の曲がったネクタイを指差した。いくら他社への営業じゃないからってだらしなさ過ぎる。
「ああ、すいません」
柏木くんはそう言うとだるそうにネクタイを固く結び直した。同期なのに妙に子供っぽく感じる。
「今日は移動が多いから気を引き締めてね。これが終わったら次は高井戸行くよ」
「はーい。……なんか春川部長、営業みたいっすね」
『営業みたいじゃない。営業なんだよ!』と心の中でツッコみを入れた。いつも通り余計なことは言わない。口は禍の元。触らぬ神になんとやらだ。
「そういえば柏木くんってボカロソフト使えるんだっけ?」
「ああ、はい。使えますよ」
「へー。アレってなんか難しそうだよね」
「うーん。どうっすかね? 俺は別にそうは思わないですけど……。たぶん慣れなんじゃないっすか?」
柏木くんはこともなげに言うと「ふわぁあ」とみっともない欠伸をした。どうやらこの男はあまりやる気のあるタイプではないらしい。
彼とそんな話をしていると次第に店内は混み合ってきた。中にはニンヒアの他部署の社員の姿もあった。当然と言えば当然だ。ここはニンヒアから徒歩三分圏内だし、味も値段もちょうど良いのだ。だからニンヒアの社員の大半はここの常連なのだと思う。まぁ、かく言う私もその一人なのだけれど。
そうこうしていると私たちの席に一人の男性がやってきた。数日ぶりに見るその顔は甲府で見たときよりも少しだけ泥臭く見えた。これは悪い意味ではない。スレていないのはある意味美徳だと思う。
「こんにちはー。お世話になっております」
彼はそう言うと軽く会釈して人なつっこい笑みを浮かべた。やはり少し泥臭い。彼の一挙手一投足に純粋さと器用さが同居しているように感じる。
「お世話になっております。先日はありがとうございました」
私はそう応えて立ち上がると柏木くんに自己紹介するように促した。柏木くんは
「お世話になっております。私、株式会社ニンヒア、クリエイター開発部の柏木と申します」
とごく普通に自己紹介して遠藤さんに名刺を差し出した。腐っても営業。流石に私の前以外では割とまともなようだ。
「ご丁寧にありがとうございます」
遠藤さんは柏木くんから名刺を受け取ると自身の名刺を柏木くんに差し出した。プラスチック製で水色の名刺には『インビジブルムーン 編曲担当 遠藤海音』と書かれている。
「『インビジブルムーン』さんですね……。いや、こんな大手のサークルさんにお会い出来て光栄です」
柏木くんは感心したように言うと大事そうに名刺を拝んだ。どうやら『インビジブルムーン』は彼らの界隈ではかなりの有名らしい。残念ながら私はその手のジャンルに詳しくないので反応に困るのだけれど。
それから私たちは向かい合って座った。私の正面に遠藤さん、私の右隣に柏木くんという配置だ。
「今日はお忙しい中、お時間作っていただきありがとうございます」
遠藤さんは席に着くなりそう言って深々と頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそ弊社の近くまで来ていただきありがとうございます。私も柏木を紹介したかったので助かりました。それで……。今日はどういったご用件で?」
「ええ、実は……」
遠藤さんは少し言葉に詰まると今回上京した理由を語り始めた。




