間話 『天河星』
――唐突だが、天河星の話をしようと思う。
厳格で他者に厳しく自分には特に厳しく。そのくせ家ではズボラでどこか隙の多い。よく言えば人間臭く、悪く言えば脇の甘い父。常に物腰柔らかなのに、怒らせると夫を家から締め出し鍵とチェーンをかけて、翌朝土下座で謝る姿を見るまで敷居を跨がせないくらいにクレイジーサイコな部分のある母。
そんな二人の間で長男として生まれた。
食うに困らず、三人家族が住むには困らない一軒家、贅沢は月一の外食で、年に一度の家族旅行を楽しみにする。ガソリンの価格で一喜一憂。円高円安で食品の価格に顔を白黒させる。たまに見つかるヘソクリやいけないお店に名刺で家族会議が勃発。朝は今日のワンコを見て癒されてからスタートする。そんなよくある一般中流家庭だ。
不自由なく生きてきた星にはじめての転機が訪れたのは小学生のことだ。
星は同世代の子どもの中では成長が早い方だった。精神的な意味じゃない、肉体的な意味でだ。小学生にして一七〇を超える身長はそれだけで『足が速い』と『実はピアノが弾ける』と同じくらい小学生にとってステータスとなる。実際背の高い順に整列したとき、星は後ろから三番目より前になったことはない。
そして付け加えれば聡い――いや、ずる賢い子どもでもあった。よく言えば要領がいいとも言い換えられるが、人生経験の浅い子どもが灰色の頭脳を駆使すれば、楽な方へ楽な方へと走ってしまうのはある意味当然である。本来は大人がさりげなく諭すべき事柄だった。だが、残念ながら星の周りにはそんな大人は少なかった。
そして、その悪ガキ気質が災いするとここなる。
なんのことはない、増長したのだ。
偶然あわせもった運動神経に物を言わせバスケでダンクを決めればもてはやされ、上級生とのいざこざも星がしゃしゃり出ればビビッて逃げ出し丸く収まる。勉強も難しい歴史の年号をひと目で暗記して見せた。そしてなにより、誰も喧嘩では彼に勝てなかった。
それらは小さな積み重ねだった。
でも、小学生にとってはけっして小さなものではなかった。
誰も文句は言わない、言えない、言わせない。世界は自分が中心に動いている。俺は特別なんだ。特別な人間なんだ。増長は強い自尊心と強固な自信を両立させる。それはほとんどの場合身の丈に合わないのだが、合ってしまえばこれほど頼もしく見える物はない。
この子はいつかすごくなる。少し喧嘩っ早いけど子どもなら元気な方がいい。わんぱくなのに目をつぶれば、これほど手間のかからない生徒はいない。そんな風に言われるようになった結果、星はこれ以上なく天狗になっていた。
さて、そんな星には一つ年下の家族がいた。
天河沙紀。星と違って大人しく内向きで人より要領が悪いせいで損をする。そんな女のコだった。
星はそんな妹を嫌っていた。見たくもないとすら思っていた。自尊心の塊となっていた彼にとって、彼女と血が繋がっている。それを考えるだけで耐えられない侮辱だった。
一方で沙紀はそんな兄を慕っていた。何でもできて、先制からも褒め言葉しか聞かない自慢のお兄ちゃん。正確には喧嘩やらいたずらなどの話題も聞こえていたが、そんな部分が見えなくなる程度に彼女は兄を慕っていた。
※
ある日、星が遊びに出かけようとしたところを沙紀に見つかったことがあった。
当然、兄を慕う妹は、彼と同じことをしたい、ついていきたいと思う。だがそれを疎ましく思う兄はすげなく拒否した。どうしておまえみたいな奴が俺と同じ土台で話そうとしている。沙紀の行動は星にとって鬱陶しい以外なにものでもなかった。
ただ沙紀は頑固だった。要領のいい兄についていこうとしているうちに、要領の悪い妹が培った根気の良さだった。どんなに言っても、どんなに突き放しても、ひな鳥みたいについてくる妹に、兄がとった行動は単純だった。
――置き去りにしたのである。
恵まれた体格と運動神経を駆使して、走って逃げ、森を抜け、坂を駆けあがり、そうして置き去りにした。背後から聞こえる涙声の「待ってよ、お兄ちゃん!」という言葉すら、その時の彼にはざまぁみろとしか思えなかった。気づけば背後にひな鳥の姿はなかった。そのことに気をよくしながら、本来の目的である公園に走った彼は、日が暮れるまで遊び倒した。そうしている間に、沙紀の存在なんて欠片も残さず忘れていた。
その日は日が暮れる前に夕立があって、早々に解散することとなる。ずぶ濡れで帰った彼を待っていたのは、まだ仕事中のはずの父だった。
「沙紀はどうした?」
開口一番の質問にやっと妹の存在を思い出す。そして事の顛末を素直に話した。いつも通りの口調で、いつも通りに笑いながら。なぜならその行いに星は一片の罪悪感も抱いていなかったから。だが父の反応へ劇的だった。なかば強引に車に放り込まれると「お前が走って逃げた場所を全部教えろ!」ととんでもない剣幕で怒鳴られた。
あとにも先にも――と思う。
他者に厳しく自分には特に厳しく、されど家族にだけは甘かった父が本気で怒っていた姿だった。
その剣幕にいつもなら文句の垂れる星も大人しく従った。そして、沙紀が見つかったのはそれから一時間後のことだった。暗くなる雨の中、彼女が川沿いの草むらに倒れているのを見つけられたのはほとんど奇跡だったと思う。
ぐったりと父に抱えられた沙紀の姿は、血の気が引いていた。病院へ向かうため助手席の俺に押し付けられとき、その冷たさにゾクッと心まで凍えた気すらした。
……それからの記憶は星自身あいまいだった。
気づけば真っ白な入院室で寝間着の沙紀が手を振っていた。
泣いて無事を喜ぶ母と、その肩に手を置く父。その姿を困った……というか戸惑った様子でオロオロする沙紀。その光景を星は入院室の入口で見つめていた。しばらくして「仕事だから」と部屋を後にする父が星の横を無言で横切った。ひと言も一瞥もなく横切った。そのことに、幼い自尊心は絶えれなかった。
あとを追った星はその背中に考えうる限りの言い訳を並べた。そのデキのいい頭を駆使して並び立てた。俺は悪くない。勝手についてきただけだ。こんなことをするつもりじゃなかった。
なにを言ったのかははっきりと覚えていない。
だだ、最後に吐き捨てた台詞だけは生涯忘れない自信が星にはあった。
「あいつが弱いからいけないんだ!!」
当時の星は体格に恵まれてた、頭も回った、小賢しかった。
その悪がき気質は本来、大人がさりげなく諭すべき事柄だった。
だが、残念ながら星の周りにはそんな大人は少なかった。
――そう、少なかった。
星が幸いしたのは、その数少ない大人が父だったことだ。
「そっか、弱かったからか」
病院前の広場で足を止めた父がスーツを脱ぐ。そして向き合ったとき、星は呼吸が止まりそうな錯覚がした。感情を押し殺す眼光に、短い人生の中はじめて誰かを恐怖した。そう思った時には――星の体は宙を舞っていた
叩きつけられる。体に激痛が走る。
見上げた視線の先には憐れむような父の視線。
カッとまぶたの裏が赤く染まるのがわかった。同級生にも、年上相手にも負け知らずだった彼にとって、見下される経験自体がなかった。そのことが恐怖を上回り怒気に変わって、がむしゃらに父へ拳を振るう。
そのたび、投げ飛ばされた。ただただ、投げ飛ばされた。しかも、すべて同じ形で投げ飛ばされた。蹴ろうとも、殴ろうとも、タックルを決めようとも。軽くあしらわれた上で焼き回しのように投げとまされ続けた。
気づけば星は泣いていた。悔しさのあまり泣いていた。自分と背丈はほとんど変わらなくないくせに触れることもできず、ただ投げ飛ばされるだけの自分。それを信じられず、受け入れられず、されど何度喰らい付いても結果は変わらず。
「よっわいな、おまえ」
哀れなも息子を見る父に一矢報いることさえできず。叫び喰らいつく星とそれをいなし続ける父。その構図は思いもしない横槍に崩されることとなる。
どこからともなく飛んできたリンゴが父の頭にヒットする。これには余裕綽々だった父も顔を「ぐふぉお!?」と苦悶に歪めた。そして、その飛んできた方向には、
「お兄ちゃんをいじめるな!」
入院室の窓を全開にし、お見舞いに持ってきたフルーツバスケット片手に、果物を投げ捨てる沙紀の姿だった。投げ捨てる……というのはちょっと生易しい。正確には全力投球である。
それこそ我に返った父が「ちょっと沙紀ちゃん! これはお兄ちゃんとお父さんが男同士コブシで語り合う熱いシーンで――ってうぉ!? パイナップルはまずいよ硬いよ! ってドリアンンンン!? そんなもの入ってたっけ!? せめてモモくらい柔らかいものにぶるぁああああ!?!?」と脱兎のごとく逃げだすレベルだった。
逃げる背中をフンス! と睨みつける姿を茫然と見上げていた星。ふと目が合う。満面の笑みを浮かべ手を振る妹に、どんな顔をすればいいのかわからなかったのだった。
…………余談だが、
この件を境に妹の中で家族間ヒエラルキーは父が最下位で固定される遠因となるのだが、それはまた別の話しである。
※
父の職種は警察だった。
特にエリート大学を出たわけではない彼は、巡査部長――所轄の現場叩き上げの刑事だった。朝から晩まで事件現場を駆けまわり、聞き込みではすげなくされ、ときには荒事にでも片足を突っ込む。そんな彼に体格がいいだけの小学生がかなうはずもなかった。
だが、いくら叩きのめされようと、あれだけ一方的にやられえておいて引き下がれるほど彼は大人でもないし、その程度の自尊心でもなかった。そして聡い彼は無闇に負けのわかっている勝負を挑もうとはしなかった。
まず敗因を考え導き出したのが――柔道だった。父は荒事に備え柔道の有段者でもあった。そこが差だ! 俺が素人だったから負けただけだ! そう思うことで彼は自分のプライドを守りぬいた。
そしてプライドを守った次は意地を通す。母に頼み通して入った柔道スクールは、父も昔に通い世話になった場所でもあった。
そこにいる生徒を見て、星は鼻で笑った。どいつもこいつも小さく非力に見えたからだ。これならすぐ一番になれる。本気でそう思った。しかし、歓迎の意味も込めてあてがわれた相手は、自分より年下で頭二つは小さな――小さなツインテールの可愛らしい女のコだった。
星の自尊心はご存知の通りはじけ飛んだ。
「ま~ま~、いいから全力でやってみ?」
初老に肩まで浸かったヒョロヒョロの先生が煽る。
そこまで言うならやってやる。怪我しておまえの責任になっても知らないからな、となかば本気で潰すつもりで睨みつけた。それだけで泣きそうなくらい震える女のコ……結果は火を見るより明らかだった。
「はい、天河星くんの四〇敗目~」
畳の上で大の字になり、息も絶えたえに。
この日、二度目の挫折を星は味わったのだった。
星の中で父への復讐とは違うなにかが燃え上がった。そんな気がした。
※
それから数年の月日がたっていた。
驚くことに、星の柔道はまだ続いていた。
背丈こそさほど変わっていなかったが、中学生になって横に体ができはじめるこの時期。星の実力は間違いなく飛躍的に伸び始めていた。何事もすぐものにできた彼にとって、これほど如実に実力差がでて、同時に結果がわかりやすく、だからこそ追い抜かれる恐怖とも隣り合わせのモノははじめての出会いだった。
はじめは父への復讐のためにはじめたそれは、
「よっと! ほい、天河の一本負け」
「ぐ、ぬぬぬぬッ!!「
勝てない、勝てない! 勝てないッ!!
何度も畳に沈むいるうちに考える余裕はなくなっていた。
……もっとも、この時点でスクールで星を倒せるのは両手で数える大人しかいなくなっていたのだが、『負けること』事態が納得いっていない星にとってはそんなもの些細な問題だった。ただ勝ちたい、誰にも屈さない、あんな惨めな思いはもうしたくない。
父にはじめて味わわされ、女のコに刻みつけられた屈辱という名の果実は、一年という年月で、自尊心を肥料に強固な柔道へのプライドへと昇華されていた。
それは彼の私生活にまで影響を及ぼすこととなる。良くも悪くも一本気がすぎたのか、喧嘩っ早い凶暴性が柔道で消化されたからか。いかに柔道につぎ込める時間を確保できるかに終始されていった。
「お兄ちゃん!」
そして、その恩恵を最も受けたのが、最も近くにいた肉親……沙紀だった。
「お疲れさま、またボロボロだね」
「いやみ、か。これ、でも、もう、ちょっとで、勝ち、越し」
「うんうん、まだ勝ち越せないなら頑張らないとね!」
「おまえ、わざと言ってん、だろ! そうなんだろ!!」
柔道スクールが終わると同時に、大の字に力尽きた星に駆け寄ったのは沙紀だった。本当は部外者を中に入れるのはあまり褒められたことではないのだが、にこにこタオル片手に駆け寄る彼女に冷たく当たれる人間はここにはいなかった。
あの日以降、二人の関係は劇的に変わった――とは言えないものの、大きなターニングポイントになったのは間違いなかった。唯一自分の味方をしてくれた妹を、自分すらはじめは恐怖した本気の父に怯まなかった妹を、星はひと目おくようになっていた。
とはいえそこは思春期の中学生である。ボロボロにされた自分も、それを甲斐甲斐しく世話される姿も、見られたくないのは当然なわけで。さらに言えば、そこまでしてくれる沙紀をすげなくすることなど、もうできるわけもなくて、
「なぁ、汗ふいてくれるのは嬉しいんだけど、ここじゃなくてもよくないか?」
「ダメだよ! ちゃんとふいてからじゃないと!」
「あ~風邪ひくからとか?」
「誰かに匂い嗅がれちゃう!」
「うんちょっと待とうか」
「お兄ちゃんの匂いを嗅いでいいのは沙紀だけだもん!」
「だから沙紀さんなに言ってんの?」
ついでに、この一年で妹が変な成長をしている気がしてならない星だった。
「それに……うかうかしてたら先起こされそうだし……」
「へ? なんだって??」
「な、なんでもないもん!」
なぜか顔を真っ赤にして逃げていく沙紀。それにどう反応していいのかわからず、星はただ首をかしげる。とはいえ昔のように「ハッキリしない奴だ」とイライラすることはなかった。あいつはあいつなりに何かあるのかもしれない。そんな風に考えられる程度には心が成長していた。
ふと、沙紀が逃げて行った方向を見ると、扉の影から見切れた二本のツインテールが見え隠れしていた。ここに来た星を徹底的に打ちのめした女のコである。スクールに入ってひと月ほどで猛特訓の果てに彼女に勝った星だったが、やはりトラウマになっていたのだろう。少し苦手とする子でもあった。
ちらちらとこちらを覗き見てはため息をついている。手にはタオルと可愛らしい柄のタオルが握られていた。はて? 何か用だろうか? とりあえず気づいていて無反応は悪いと思う手を振ってみる。顔を真っ赤にして逃げだした。意味が分からない。
――沙紀を受け入れられる程度に心が成長した星。
とはいえ、色恋に関してはやっぱりまだまだ子どものようだった。
※
さらに月日がたっていた。
中三になっていた星の生活は、いつの間にか柔道を中心と言っても過言でなくなっていった。朝は体力作りのランニング、食事制限にも気を配り、夜は血を吐くまで投げて投げられる。あまりにストイックな姿に初めのスクールでは誰もついていけなくなり、紹介された別のスクールに入りなおすほどのめり込んでいた。
そして、それを支えたのが沙紀だった。
はじめは母が献身的にフォローしていたのだが、それを手伝ううちに少しずつ『星の実の周りは沙紀が担当』みたいな謎ルールが天河家には出来上がっていた。
はじめこそ「いや~兄妹仲良きこと美しきかな!」などと笑っていた両親もが、食事に気を使いはじめた星のために料理教室へ通いだし、母を超える料理スキルを手に入れたあたりで「あれ? この子ガチすぎじゃね?」と口を引きつらせてしまう程度には甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
「はい! 一〇メートルダッシュいくよ!」
「あいよ!」
朝のランニング。体力作りのために欠かさないそれにも、当然のごとくついてくる。
野球の部活マネージャーよろしく自転車にまたがり後を追う姿は、皮肉なことに過去の過ちの焼き回しのようだ。もっとも、このころには星もそんなことをするつもりはないし、やって沙紀に拗ねられでもすれば柔道生活は瓦解する自覚もあった。
「ねぇ、お兄ちゃん!」
「ああ? なんだよ」
その日は珍しく、ランニング中に沙紀が話しかけてきた。
走っている最中に呼吸を乱すことはよくない。そのことを知ってる沙紀は極力声をかけたりしないようにしていた。そんな彼女が話しかけた。
だったらそれだけ重要なことなのだろう。そう自然と解釈する星。
「あ~うん、えっとね……」
だが沙紀は生返事を繰り返す。不思議に思って肩越しに振りかえった。
すると、顔まで見えないものの視界を横切る長い黒髪が見えた。
ここ何年かで沙紀は綺麗になっていた。身内びいきを抜きにしても学校で彼女ほど綺麗な女のコはいない。そう思ってしまうくらいに。その証拠に寄りつく変の数も年々増え、いまじゃずっと星が睨みを聞かせておかなければいけないほどである。
おかげで『柔道バカ』に並んで『鬼のシスコン』なる不名誉なレッテルが張られることとなるのだが、沙紀への恩返しと思えば悪い気はしない――と、一度友達に話したところ『真性のシスコン』にランクアップしたのは遺憾ともしがたい。
昔ひどい扱いをした罪滅ぼし……ではなかったが、ここまで親身にしてくれる妹を大事に思わないわけがない。
兄が妹を守るのは当然。つまりそういう事なのである。
「このまま柔道続けてさ、お兄ちゃんはどうするの?」
「どうするのって言われてもな」
「ふ~ん、しらばっくれるんだぁ」
「んだよ、妙に突っかかるな」
いつもと違う雰囲気に足を止める。
振りかえるとふくれっ面でそっぽを向く妹がいた。
「強化選手への招待状、来てるんだよね?」
「……なんてお前が知ってるんだよ」
まだ話していないことだった。
すでにいくつもの大会に出て実績を持っていた星だが、特に目標があったわけではなかった。とにかく勝ちたい、負けたくない。そのプライドの高さと意地っぱりな性格が、柔道という競技にピッタリ当てはまっただけだった。
そんなとき届いたのが強化選手への推薦状だ。
正直、いまよりさらに上を目指すのであればこれ以上ないチャンスといえた。漠然としていた目標を見つけられるチャンスでもあるとも思った。でも、
「もしかして、寮生活になるから悩んでる?」
「だから、なんでそこまで知ってんだよおまえは」
誘われた高校は家から離れていて、ひとり暮らしをすることとなる。不安がない、といえばうそになったが、図太さには定評のあった星だ。そこは心配していない。食事や練習メニューもコーチがついてくれるから問題ないとのことだった。
ただ、そうなると、
「だったらわかんだろ。はいそうですかって、おまえの恩忘れて出ていけるほど、恩知らずじゃねーよ」
いままで支えてくれた沙紀の気持ちを考えると、選べるわけがない。
「でも、お兄ちゃんのライバルさんたちも誘われてるよね? 差が開くんじゃないかな?」
「それは……」
その通りなのだろう。いまの先生もよくしてくれるしわかりやすい指導だけど、やっぱり世界レベルのコーチがついてくれる得点は大きい。そういう意味でもいま以上を目指すのなら迷う必要のない選択肢といえた。
「迷ってるなら正直になればいいのに」
「……なんで迷ってるってわかんだよ」
「わかるよ。だってお兄ちゃんのことだし。……ずっと、見てたし」
二位は負け犬の一位だ。
そう思っている星にとって迷う理由は沙紀への義理しかない。そして同時に、兄ががんばるのを応援し続けた妹が、自分が原因で立ち止まることを許すわけがない。
「別に一生離れ離れってことはないんでしょ? だったら行きなよ」
「いや、でもだな」
「あ~もう! お兄ちゃんって普段人の気も知らないで即断即決するくせに、いざって時チキるよね?」
「……チキるって、変な造語作るなよ」
「いい? 沙紀にとっての恩返しはここでお兄ちゃんが沙紀のせいで足踏みすることじゃない! もっと大舞台で戦う、かっこいいお兄ちゃんを見せてくれることなんだよ?」
「……」
「それでね、優勝したお兄ちゃんを指差して周りのお客さんに言うの! 『あの人を育てたのは私だ!』って!」
「いや、それなんか違うくね?」
「細かいことはいいんだよ! と・に・か・く! 沙紀のことを思うんなら受ける! そしてゆくゆくはオリンピックに出てもらって、観客席確保してもらって、渡航費もついでに出してもらって、海外旅行のついでに倍率爆高なプレミアチケットで競技をゆうゆうと鑑賞……ぐへへ」
「おーい、欲望駄々漏れてるうえに、なんか俺がついでになってるし、そもそも皮算用すぎやしませんかね?」
そんな妹に星はため息交じりに……決心する。話をうけようと。
ここまで背中を押されておいて今更NOとは言えない。それは彼のプライドが許さなかった。ここまで期待されて立ち止まれない。それは彼の意地が許さなかった。
「あはは、冗談だよお兄ちゃん。……あ、でも一つだけ本心だから」
一つ大きな決意を固めた星に、沙紀はいたずら小僧みたいな、
「いけるよ、オリンピック。お兄ちゃんなら絶対」
もっと言えば、昔は星が鏡越しによく見た表情を浮かべ、人差し指を唇に当てた。
「お兄ちゃんならとれるよ! 金メダル!!」
※
それからの時間は怒涛のごとく過ぎ去っていった。
振りかえっている暇もない練習、練習、練習の日々。そんな中で多くの同期が挫折し去って行った。中には絶対敵わないとはじめて思わせた男がいた。中には怪我で選手生命を断ってしまった男もいた。家の都合と理由をぼかした男もいた。
それでも星は生き残っていた。
はじめて自分が特別ではなく凡人なのだと打ちのめされても、胴着を握り過ぎて指が変形してしまっても、大会で負けて悔しさの余り眠れる夜をすごしても。掴んだ胴着を離さないように、喰らいつき続けた。
原因は単純、毎日のように欠かさずメールを送ってくれる沙紀に救われていたからだ。
才能のないことへの弱音も、体を痛めた愚痴も、眠れぬ夜の話し相手にも。沙紀はつねに一緒にいてくれた。忙しさと疲れで寝落ちしてしまった夜も『いいよ別に! 寝落ちしたってメールが面倒な相手と会話を終わらす常套手段だけど、沙紀は気にしてないから!』と、とんでもなく気にした風に拗ねるだけで、電話で平謝りすれば許してくれた。
そんな離れていても結局は二人三脚な三年がたったある日。
その日は星にとって大きな転機となった。
優勝すればオリンピック選手として選ばれる可能性が非常に高くなる大会で、見事に優勝したのだ。普段は勝っても次の大会に意識をシフトしてきたため静かだった星も、この日ばかりは声をあげてガッツポーズをとっていた。
その大会の帰り道。お祝いに焼肉でも行くか! と普段寡黙なコーチもやけに嬉しそうに言いだした時だった。ガラケーが震えた。
『あ、お兄ちゃん?』
「おう、珍しいなおまえから電話してくるなんて」
この三年間、メールは向こうからの方が多かったが、電話はほとんど星からかけていた。たぶん気を使っていたのだろうと思う。それくらいのことはできる妹なのだと星もわかっていた。
『うん、実はさっきの大会、こっそり見に来てたんだ~』
「うぇ! ……マジかよ」
『むふ~、よっしゃ――ッ!! って叫んでたね。あんな声あげてるお兄ちゃんはじめて見たよ』
恥ずかしさの余り天を仰ぐ。それはつまり、叫び過ぎたせいで審判から怒られたところも見られたわけで……妹に情けないところを見られた兄は、さっきまでの高揚感が嘘のように肩を落とした。
『それでね、あのね。せっかくここまで出て来たんだし、お祝いもかねてごはんでもどうかなぁ~って思ってさ』
と、落ち込んでいる星の耳に、おずおずといった調子の声が聞こえてくる。
「あ~わりぃ。これからコーチとかその関係者と打ち上げなんだわ」
『あ……そう、なんだ。あはは、まぁそうだよね! うん、そっちの方が大切だ!』
一瞬沈んだ声のあと、無駄に明るくとりつくった声。あからさまなその態度は、星が前言撤回するには十分すぎる理由だった。
「だったらおまえも来る――」
『え! いいの!!』
すごい勢いで喰いついてきた。
最後まで言わせない反応速度は、喰いついて噛み千切る勢いだった。
「お、おう。いいに決まってるだろ。ダメでもおまえのぶんくらい俺が払ってやるよ」
『わーお、お兄ちゃんブルジョア~。…って、しまった。菓子折り買ってないや』
「いいって、わざわざんなもん」
『ダメだよ! こういうのは気持ちが大事なんだから。ねね、コーチさんって洋菓子系が好きかな? それとも和菓子系?』
「さ~? 聞いたことないしな。でもたぶん和菓子じゃね?」
『ほほう、その心は?』
「最近太りすぎてお腹が水羊羹みたいにタプタプしてる」
『ぷっ、あははは! なにそれ~? ……うん、わかった!』
「和菓子なら駅前に店があるぞ。ちなみに洋菓子なら商店街の方向だな……」
口で言っていて不安になった星は迎えに行こうとする。
が、沙紀は「子どもじゃないんだから!」と言って直接店へ向かうと譲らなかった。気遣いな沙紀は、せっかく打ち上げをしてくれるコーチたちをさしおいて、主役を横取りするようなことはしない。
そのことを知っているだけに強く言っても無駄だとあっさり引き下がり、星は店の名前と場所だけ教えて電話を切った。
――いまでも星は考える。
もし、無理やりにでも沙紀のところへ行けていれば、
もし、和菓子ではなく洋菓子と答えていれば、
もし、高校は地元を選んでいれば、
もし、事前に沙紀が来ることを知り止めていれば、
もし、柔道などと出会わなければ。
星はこのとき浮かれていた。人生で大きなチャンスを掴んだ実感と、純粋に優勝できた達成感と、サプライズで妹と――沙紀と会える喜びで。
浮かれきっていた、ずっと笑顔で笑っていた。それこそ焼肉屋についてからは楽しく食べて笑って話して。予想以上に食べる姿に会計を任されたコーチが真っ青になるのを指さしまた笑い。「将来の金メダリストに乾杯!」などと言われてバカ騒ぎしていた。
だから、気づかなかった。
カバンの中で震えるガラケーに。
店の前を慌ただしく通り過ぎていくサイレンの音に。
沙紀が事故にあったことを知ったのは、来るのが遅すぎる沙紀へ電話をかけようとして、何件も入った着信に気づきかけなおしたときだった。
星が楽しく笑っている間の出来事だった。
バカ騒ぎしている間にすべてが終わっていた。
……その日、星は二つのかけがえないものの一つをとりこぼした。
同時に、もう一つのかけがえないものも失うきっかけとなる。
それは実質、天河星という存在が生きながら死んだ命日を意味した。