8話・授業開始
後半はアレクシ視点です。
場所で暫く揺られた先で着いたオールヴェルニュ家は、先ほどちらっと見えたナミュール家の外観よりもさらに豪華に見える。皇室に連なる家柄というのもあるのだろう。
「リュシル」
先に降りたアレクシ様が馬車の外から私に手を差し伸べる。
「ありがとう」
慣れないヒールと長いドレスで転けたら洒落にならないので、ありがたくアレクシ様の手を借りると、アレクシ様は私が馬車を降りてからも手を離すことなく歩き始める。
「あ、あの、アレクシ様? もう手は……」
「何? リュシル。どうかした?」
「……いえ……」
私がさりげなく手を引こうとしたら、痛くはないけれど決して離さないという意志を感じる強さで握られて、アレクシ様が圧を感じるような笑みをこちらに向けてくるので諦めた。
もう本当に怖い。前のリュシルはこの人を相手にどうしていたのか、前のリュシルに会えるなら直接教えて欲しい。もっとも、前のリュシルが戻ってくるなら私も元の身体に戻るはずなのだけれど。戻……れるのかなあ……。
重厚な作りのお屋敷は、大まかなテイストが洋風なことはナミュール家と変わらないけれど、ナミュール家の方が荘厳でどことなく強そうな印象で、オールヴェルニュ家の方は曲線的で優雅な印象を受ける。現代日本の知識で例えるなら、バロック様式とロココ様式みたいな違いだ。
馬車の運転手が玄関扉を開くと、中にはずらりと使用人の人たちが左右に並んでいて、一斉にお辞儀をした。
「坊ちゃま、お帰りなさいませ。リュシルお嬢様も、よくおいでくださいました」
「ただいま、クリス。もう先生は来ているか?」
「はい。談話室にお待ちいただいております」
玄関扉に一番近い位置でお辞儀をしていた、燕尾服を纏った老齢の男性が頭を上げてアレクシ様に話しかけてきた。
坊ちゃんと呼んでいるのもあり、長くオールヴェルニュ家に勤めていて使用人の中で偉い人なんだと思う。前のリュシルにも会ったことがありそうだし、機会があったらこの人からも話を聞けないだろうか。
廊下を暫く歩いて、周りに他の使用人の姿がなくなってから、アレクシ様が前を歩くクリスさんを呼び止めた。
「クリス、リュシルに紹介したい」
「はい。私はこのオールヴェルニュ家で執事長を務めております、クリスと申します。恐れながら、リュシルお嬢様のご事情は坊ちゃんより聞き及んでおります。他にこの屋敷で事情を知っているのは、私の他に、家庭教師のブシェ先生と、この屋敷でのリュシルお嬢様の専属侍女を務めるメイドのリコだけです」
リコには先に談話室に行ってブシェ先生の相手をしてもらっています、とクリスさんが付け足して、視線を私からアレクシ様へと移す。
アレクシ様はクリスに頷いて、私を優しく見つめる。彼に私を害する意思がないことは伝わってくるのに、居心地が悪くてさりげなく視線を落とした。
「……他の使用人にはリュシルが事故に遭ったことは周知してある。家庭教師のことは、リハビリも兼ねて結婚前に座学と礼儀作法とダンスを学び直したいと相談を受けて僕の方で手配した、ということにしてある」
少し寂しげな声色になったアレクシ様が、私の方をじっと見つめたまま説明を続けた。
前のリュシルは優秀だったのだろうから、その説明では使用人の人たちに怪しまれていそうだ。記憶喪失になったことは伝えてしまった方がいいのではと思うし、ナミュール家では実際に使用人みな私が記憶喪失になったことまでは知っている。アレクシ様は、リュシルが記憶喪失になったと周りに知られては困るのだろうか。
「行こう。ブシェ先生は遅刻に厳しいからね」
「……はい」
私が視線を上げてアレクシ様と目を合わせると、彼は途端にほっとしたように表情を綻ばせた。
私が本物のリュシルではないと知っているはずなのに私の態度一つで一喜一憂するアレクシ様に戸惑いながら、彼に手を引かれて豪奢な絨毯にまた一歩足を踏み下ろした。
談話室に入ると、すでに老齢の女性がソファに座ってティーカップを手にくつろいでいた。
「あら、ナミュールさん。お久しぶりですね。いえ、初めまして、の方が正しいでしょうか」
「えっと……ブシェ先生、ですか?」
「ええ。わたくしがブシェです。まさかもう一度ナミュールさんに教えることになるとは思いませんでしたが」
「す、すみませ……」
「冗談ですよ」
貼り付けた笑みのブシェ先生に戸惑いながら、アレクシ様に手を引かれてソファに座る。黒髪ツインテールのメイドさんが私とアレクシ様の前にも紅茶を置いてくれた。この人がリコさんだろうか。
「ナミュールさんは優秀でしたからね。脱走しがちなオールヴェルニュさんと違って」
「ブシェ先生!」
「脱走? してたんですか?」
「……っ、子どもの頃の話だよ」
アレクシ様が恥ずかしそうに私から顔を背ける。この数日で初めて見た表情だ。
ちょっと可愛いところもあるんだなと頭の隅で思ったところで、ブシェ先生が本題を切り出す。
「座学も礼儀作法もダンスレッスンもすべて、基礎からと伺っておりますが、それでよろしいですか?」
私が答えていいものかとアレクシ様の方を見ると、彼が私を見て頷いた。私が答えていいらしい。
記憶喪失――どころか、中身が別人な以上、私がなんとなく覚えている記憶も日本の記憶だからこの国では通用しないだろう。リコさんやクリスさんやブシェ先生にだって中身が別人とまでは話していないだろうから、本当に何も思い出せていない記憶喪失という体でいた方がぼろが出なくていいだろう。
「はい。何も思い出せないので、基礎からでお願いいたします」
「そうですか。やはり惜しいですね、稀代の才媛が――こほん、もし授業を受けながら思い出した記憶が出てきたら、その部分は様子を見て省略していきましょう。それでいいですか?」
「はい」
ブシェ先生が書類を取り出してテーブルの上に広げた。中身を見るとカリキュラムをまとめた書類のようで、手に取って一通り目を通す。
基礎から学び直すカリキュラムを選んだからか、朝から夜までびっしり授業が入っている。この授業をすべてオールヴェルニュ家で受けるなら、昼食はオールヴェルニュ家でお世話になる流れになるのだろうけれど、夕食も毎日オールヴェルニュ家で頂くのは流石に気が引ける。だからといって、ナミュール家を自分の家だと思ってくつろげるわけでもないのだけれど。
「明日からは仕事に行ってしまうけど、今日は僕も一緒に受けるからね」
「オールヴェルニュさんが隣にいるとナミュールさんが集中できませんよ」
「リュシル、僕がいると集中できない?」
「……いえ」
「ほら、困っているではありませんか」
ブシェ先生が呆れ顔で肩を竦める。アレクシ様は素知らぬ顔で私に身を寄せて腕を組んだ。
正直集中できないし、別の部屋で別のことをしていてほしい。けれど私が断ったところで何かと言い返されて結局同席するのだろうし、抵抗するだけ無駄だと学んだ。
それに、アレクシ様の方が私よりずっと情緒が安定していないような気がする。リュシルが事故に遭って記憶喪失になったことに、アレクシ様の心もショックを受けていて現実に追いついていないのだろう。
「……ナミュールさんが良いならいいのですが。オールヴェルニュさん、静かにしていてくださいね」
「分かってますよ」
アレクシ様が上機嫌になって私の指を弄って自身の指と絡ませる。ほんの数日で彼のこの距離感にも慣れ始めてしまっている自分が怖い。
「それでは、さっそく今日から授業を始めましょうか」
「授業部屋の準備が整っております」
「ありがとう。じゃあ移動しようか」
ブシェ先生の台詞に黒髪ツインテールのメイドさんがお辞儀をして、アレクシ様にエスコートされて別室へと移動したのだった。
授業部屋と紹介された部屋で、今日一日の授業を受け終わった。
入った時から広いとは思っていたけれど、授業を受けるためだけの部屋として準備されていると聞いたから驚きだ。ますますオールヴェルニュ家に何から何までお世話になっているのが気が引けてくる。
今日の授業は座学を中心に、どの教科も触りだけ行ったけれど、案外大丈夫そうな科目もあった。数学や理科にあたる科目は日本での知識でどうにかなりそうだ。国語も、文字をちゃんと理解して読めているわけではないから不安になったけれど、感覚でわかる部分が多くて案外解けてしまった。
問題は歴史だ。知らない世界の知らない国の歴史なんて何一つ覚えているわけがないし、内政も外交も何も分からない。日本にいたころは世界史は近現代史含めて得意中の得意だったから、知識さえつけてしまえば構造の把握はできると思うのだけれど……。
「何も覚えていないにしては十分できていた方ですね。とはいえ、社交界に復帰するにはこのままでは宜しくありません」
「おっしゃる通りと存じます」
「悲観なさる必要はありません。今年一年静養ということにして、みっちり勉強すればナミュールさんなら追いつけるでしょう。どうやら知能自体が下がったというわけではなさそうですから」
元のリュシルと比べてあからさまに頭が悪いわけではないならほっとした。人格が変わったと勘付かれては困るから、前のリュシルになんとか追いつかなければ。
私が授業を受けている間ずっと横で仕事らしきことをしていたアレクシ様が、クリスさんに書類の束を片付けさせるよう命じてから私の方に向き直る。
「リュシル、お疲れ様。疲れてない?」
「ええ、大丈夫」
アレクシ様には薄く微笑んで平気そうに装ったけれど、本当はだいぶ疲れている。一日中椅子に座っているのがこの身体にはまだ重労働だったみたいだ。
溜息が出ないように押し殺してさりげなく瞬きをして疲れを誤魔化していると、アレクシ様が私の顔を覗き込んだ。
「無理してる。本当は疲れてるよね?」
「え……と」
「僕の前で無理しないで。僕が抱き上げて食堂まで連れて行こうか」
「それは遠慮させてください」
「そう?」
自力で立ち上がると、アレクシ様は私に手を伸ばしかけて、それを引っ込めて丁重な手つきで私の手を掬った。
うっかり敬語を使ってしまったけれど、私の……というかリュシルの体調に気を回しているアレクシ様は気づかなかったようだ。
広い屋敷の中をリコさん――予想通り黒髪ツインテールのメイドさんがリコさんだった――に先導されて食堂へと向かう。
「…………」
「なに? リュシル。やっぱり抱き上げてほしい?」
「一人で歩けるわ」
「無理はしないでね」
食堂へと私をエスコートしている彼をこっそり見上げると、すぐに気づかれて視線を捕まえられて微笑み返される。
軽口は言うのに、アレクシ様はある程度を越えた範囲では触れてこない。どこか遠慮しているような、恐れているような感じがする。
それは私が本物のリュシルではないからかもしれない。けれど、だとしたら軽口を言うのも不自然だ。彼の軽口はこの数日で言い慣れてしまったようなものではなくて、前からこういうことを言っていたような慣れを感じるのだ。
リコさんが食堂の扉を開けてくれて、一体何人分なのかわからないほどの長テーブルの奥に用意されている席に座る。
アレクシ様と向かい合わせに座ると、テーブルの幅が広いせいか、やけにアレクシ様を遠くに感じた。
「授業がある日はうちで夕食を食べて行っていいからね」
「それは悪いわ。それに、お父様とお母様も心配するだろうから」
「それは……そうだね」
アレクシ様がぎこちなく笑みを作ってスープを口に含んだ。
婚約破棄を暫くはしないことになったのだし、彼には何かとお世話になっている。個人的には何を考えているのかわからなくてまだ怖いけれど、元のリュシルが戻るまでは仲良くしておいたほうがいいのだろう。私のせいでリュシルとアレクシ様の関係が悪化してしまったら元のリュシルに申し訳が立たない。
「えっと……、週に何回かなら」
「いいの?」
「お父様とお母様もそれならお許しくださるだろうし」
「な、なら、週四日はどう?」
アレクシ様が心なしか浮ついた表情で恐る恐る私に訊く。
私に断られるのを怯えているような彼の様子に、同情や憐憫に近い感情が湧き出てしまう。アレクシ様は本当にリュシルのことが好きで、嫌われたくないのだろう。だからこそ、彼に早くリュシルを返してあげなければ。
「家に帰って聞いてみます」
「リュシルに気に入ってもらえる美味しい料理を毎日用意するよ」
「ありがとう。今日の昼食も夕食も美味しいわ」
「なら良かった」
オールヴェルニュ家もナミュール家も、出された食事はすべて日本の感覚でいうと洋食だった。どれも高級コース料理みたいな出され方だったから、全部美味しかったのだけれどこれが毎日続くと胃もたれしてしまいそうだ。
日本の普通の家庭料理の作り方は今でも覚えている。食材もそこまで大差はなさそうだし、たまにはキッチンを借りて自分で料理したい。親子丼とか、そうめんとか食べたい。いや、そう麺は麺から作らなきゃいけないから険しい道のりかもしれないけれど。
もしかしたら貴族の食事がこんなコース料理なだけで、庶民の食事はもっと日本人に親しみやすい家庭料理チックかもしれない。お忍びで街に出て庶民の居酒屋とかに行けたりしないだろうか。
「リュシル? どうかした?」
「……いえ、なんでも」
……この婚約者様が絶対許してくれなさそうだ。
でもこの国の庶民の食事には興味があるから、時機をみてメラニーに相談してみよう、と目の前でじっとこちらを見つめている婚約者様にはバレないように密かに決意した。
――――――
ナミュール家まで送ると言ったが、「もう遅い時間だから、アレクシ様がお屋敷に戻ってくる頃には深夜になってしまうわ」と彼女らしい丁寧な理由で断られてしまった。
だからせめて彼女が馬車に乗り込むところまでは見送って、彼女の乗った馬車が遠ざかっていくのを姿が見えなくなるまで眺めてから屋敷に戻った。
彼女は、こんな遅くに馬車を走らせてオールヴェルニュ家に戻ってくるのは大変だからとナミュール家に御者を泊まらせてもいいかと聞いてきた。うちの馬車は翌朝に戻らせるつもりで、今後はナミュール家の馬車で来るらしい。
許しがたい。いや、彼女の心優しい気遣いに対してではなく、僕よりも先に御者の方が彼女に家に泊まらせて貰う栄誉を得ていることにだ。
だったら僕がナミュール家に泊まりたいし、むしろリュシルがこの屋敷に泊まってくれればいい。なんならずっと住んでくれれば良い。
「早く結婚したいな……」
僕の呟きにクリスがほんの僅かに口角を歪めた。
「何が言いたい」
「お嬢様は記憶喪失になられたのですから、坊ちゃんのことは見ず知らずの他人も同然でしょう。リュシルお嬢様に振り向いてもらえるよう、少しずつ距離を縮めていかなければ怖がられてしまいますよ」
クリスの至極真っ当な忠告を話半分で聞き流しながら、彼女が言った言葉を思い出す。
彼女は自分が本物のリュシルではなく、別人が成り代わってしまっているのだと言ったが、僕には分かる。彼女は紛れもなく本物のリュシルだ。
だって、彼女は――――。
「ふふ」
こうも都合の良い展開になるのかと笑いが堪えきれない。一時は全てを失ったと絶望したが、諦めて自死を選んだりしなくて本当に良かった。
記憶喪失? 成り変わり? 大いに結構だ。
リュシルの記憶なんて、永遠に戻ってくれなくて良い。
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