10話・現状
アレクシ様に盛大に惜しまれ、「このまま泊まっていってもいいんだよ。毎日行き来するのも面倒だろう? いっそこのまま住めばいい、リュシルの部屋は用意してあるんだから」とごねられたけれど、丁重に遠慮してナミュール家へ帰る馬車に乗り込む。
オールヴェルニュ家でもナミュール家でもなんだかんだ人が多いから、馬車の中は一人になれる貴重な時間だ。
この数日であまりにも多くの情報がなだれ込んできて、どっと疲れた。日々をこなすのに精いっぱいになってしまいそうだけれど、”私”の最終目標は「元のリュシルにこの身体を返して、私は元の世界の自分に戻ること」だ。
どうやって戻ればいいのか、調べ方すら分からない。今のところ、メラニーとアレクシ様にしかこのことを話せていないし、メラニーはともかくアレクシ様はあまり協力的ではなさそうだ。
何も情報がない以上、今すぐ帰れるとは私も思ってない。長期戦覚悟だ。
だから、当面はアレクシ様ともうまくやっていかなければいけないし、ナミュール家のリュシルとして相応しい振る舞いができるようにならなければ。
私がへまをしてしまったら、元のリュシルに戻ったあと彼女の面子を潰してしまうことになる。そうならないように、せめて「記憶喪失のリュシル」として不自然でないくらいには勉強も礼儀作法もどうにか見られる程度にしなければいけない。なにしろ、社会学などの知識が全くないのだ。家に帰ってから今日の分の復習をしよう。
そしてアレクシ様のことだけれど、私の目下の悩みは彼だ。
アレクシ様の今の精神状態は、はっきり言って正常ではないと思う。私がリュシルではなく別人だと言っても、ただ信じないとかではなく、頭ではリュシルではないと分かっているのにそれを受け入れようとしない状態だ。
別人に成り代わるなんてそんな変なこと起こるはずがない、と信じないだけだったらまだ良かった。だけどアレクシ様は私が別人であること自体は、少なくとも頭では飲み込めているようだった。そういえば、メラニーもあまり驚いてはない様子だった。
——そんな、すんなり受け入れられることだろうか?
普通、成り代わりなんてありえない。記憶喪失は前世の日本だってありうることだけれど、中身が入れ替わりましたって言われても「いや~またまた、そんな冗談を」って私も思うだろう。
この世界では成り代わりが普通にあることなのだろうか。それなら、もしかしたら手がかりも案外すんなり見つかるかもしれない?
それなら希望が持てるけれど、そんな簡単にいくだろうか……。
「……ううん、後ろ向きな考えはやめよう。できるだけ早く元に戻らなきゃ」
アレクシ様は何故か私——リュシルが元に戻るのを嫌がっているようだけれど、本当は元のリュシルに会いたいはずだ。でなければあんなに懐かしそうにリュシルとの思い出話をするはずがない。
あれだけ愛されているなら、リュシルだってアレクシ様のことを好きだったはずだ。婚約だって結んでいたのだし、リュシルの年齢を考えればそろそろ結婚を考えていたのかもしれない。貴族の結婚って早いと聞くし、十八歳ならいい頃合いだろう。
あまり今の状況が長引いてしまったら、アレクシ様の精神状態も悪化してしまう可能性もある。そうならないように私もアレクシ様を刺激しないように過ごすけれど、それは根本的な解決にはならない。
そもそも、私とリュシルがこんな状態になってしまった原因も気になるところだ。
メラニー曰く、リュシルは十八歳の誕生パーティーで倒れたらしい。
倒れた、ってことはリュシルは元々身体が弱いのかなと思っていた。
しかし、暫くリュシルの身体で過ごしてみたけれど、そんなに身体が弱くて動けないタイプなわけじゃないように感じている。
お医者さんにも暫くは気をつけて安静に過ごすようにと言われたけれど、それはつまり暫く経って元気になったら問題ないということだ。
では何で倒れたのか疑問が残る。お医者さんもメラニーもアレクシ様も、リュシルが何で倒れたのかは言わなかった。
外傷がほぼなかったから何か病気なんだと思い込んでいたけれど、もしかしたら違うのかもしれない。
何かが起きて外的要因によって倒れて、それによって私の人格と入れ替わってしまうのだとしたら、そこに手がかりがありそうだ。
そういえば、リュシルの日記がまだ見つかっていないし、開かずの引き出しの鍵もまだどこにあるのか分からない。
メラニーも知らないようだったから、これは自分で探すしかない。
家の探索もしつつ、ナミュール家の他の人にも前のリュシルがどんなだったかとか、リュシルが倒れた日のことを聞いてみよう。アレクシ様は前のリュシルのことを教えてくれないしブシェ先生からも聞き出せなかったけれど、他の人なら教えてくれるかもしれない。
私が調べるべきことは大きく分けて三つ。
リュシルの日記を探す。
周りの人に前のリュシルのことと倒れた日のことを聞いてみる。
元の世界と元の身体に戻る手がかりを探す。
そしてこの世界にいる間はリュシルとして生きていけるように勉強やレッスンをしつつ、アレクシ様との関わり方を模索して、元のリュシルに迷惑がかからないようにする。
「……よし、だいぶやることが見えてきたかな」
正直、かなり不安だし、元の世界にいつ帰れるかも全く分からなくて怖い。
元の世界の私の身体はどうなってるんだろう。何故か元の世界の時の記憶も所々曖昧で、どうやって私はここに来たのかも思い出せない。そのうち思い出せるのだろうか。
でもとにかく今できることをやってみなければ。
「お嬢様、着きました」
馬車の扉が開けられる。カーテンを締め切って考え事をしていたから、馬車から降りたらいつの間にかとっぷりと日が暮れているのに気づいて、一日の終わりをやけに生々しく感じた。
この日本じゃない世界で一日が過ぎることにも段々慣れてきた自分に言いようのない不安を抱えながらも、ふっと息を吐いて不安を紛らわせる。
「お嬢様!おかえりなさいませ」
メラニーが玄関で私を出迎えて、私の身体が少し冷えていることに私より先に気づいてケープを肩にかけてくれる。
「ありがとう、メラニー」
「いえ、お疲れではありませんか?あの男、お嬢様と一緒にいたいからってお嬢様の負担も考えずにこんな時間まで......」
「メラニー?」
「いえ、なんでもございません。お風呂の準備はできております」
何かメラニーが言ったような気がしたけれど、メラニーは言い直す気はないようで私の鞄を受け取って私の前を先導する。
「メラニー、両親——お父様とお母様はまだ起きてる?」
「え? ええ、はい。まだ起きていらっしゃると思いますが……。お話しされますか?」
「ええ。聞きたいことがあるの」
メラニーが私を案じるように、何かを不安がるように、それを堪えるように眉根を少し寄せて、きゅっと口を引き結んで震えを押し殺してから薄く口を開いた。
メラニーがそんな顔をする理由も私には分からない。
何も知らないからこそ、このままじゃだめだと両手を組んで力を込める。
「……旦那様と奥様は談話室にいらっしゃいます。すぐに行かれますか?」
「ええ、お風呂の用意をしてくれてたのにごめんなさい。そんなに時間はかからないはずだから、話が終わったらお風呂に入るわ」
「かしこまりました。お湯は温め直せば良いですからお気になさらないでください。ハーブティーを用意いたしますね」
奥様はローズヒップティーがお好きなんです、とメラニーが言って笑う。彼女の気遣いに感謝して、私も笑みを返した。
メラニーに案内されて談話室に入ると、二人で話していた両親が話をやめて二人同時に私の方を向く。
「リュシル、どうしたのかしら」
「疲れていないかい? ここに座りなさい」
「ありがとう……ございます」
両親が私を……リュシルを気遣って、私を両親とは向かい側のソファに座らせる。身体はだいぶ回復したのだけれど、両親は知らないのだろうか。
両親も私も何から切り出せばいいのか分からない所在なさげな顔で視線を彷徨わせていたら、メラニーがお茶をカートに乗せて談話室に入ってきた。
「奥様、ローズヒップティーをお持ちしました」
「あら、嬉しいわ。ちょうど飲みたい気分だったのよ」
メラニーが三人分のお茶の用意をローテーブルに置いて、部屋の端に控える。外に出ていかないでくれたのは、きっと私への心遣いだろう。
メラニーの方をちらりと見ると、微笑んで頷いてくれる。
「リュシル、授業は順調か?」
「はい、ブシェ先生にはカリキュラムよりも早いペースで進めていると言われています。体調も悪くなさそうなので、来週にはダンスレッスンも始まるようです」
私が体調という言葉を出したところで、両親が目配せをした。
「……リュシル、身体はもうなんともないのか?」
「え? ええ……自覚できている症状の範囲では特に何も……。少し疲れやすい気がしますが、暫く寝たきりで体力が落ちただけかと思っています」
両親がほっと安堵の溜息を吐くのを見て、私は違和感を深める。
やはり、私が倒れた経緯には何かがあったのではないか。病気にせよ事故にせよ、私はもっとリュシルの身体に気を付けて生活した方がよいのだろうか。
「……あの」
「どうしたの、リュシル」
私が小さく声を発しただけで、両親は私の表情の変化一つ見逃すまいと、リュシルによく似た双眸で私をじっと注視する。
私の言葉を緊張した面持ちで待つ彼らにいやに緊張しながら、私は本来の目的の話題を切り出した。
「私が倒れた時のことを教えてほしいんです。私は……何も覚えてなくて。何故か誰もその話をしてくれない。倒れた後寝込んで記憶がなくなった、だけで、倒れた時に何があったのか、何が原因で私の記憶がなくなってしまったのか誰も口にしないんです。アレクシ様も……」
私が彼のことを言い淀むと、談話室に沈黙が落ちた。両親もメラニーも誰も口を開こうとせず、重苦しい空気が部屋中に充満して、はち切れてしまいそうだ。
「あ……あの、皆がリュシルの——私の心配をしてくれているのは分かっているんです。ただ、病気で倒れたのか、何か怪我で倒れたのか、それすら分からないと、私はどうやって身体のことを気をつければいいか分からないから、せめてそれだけでも知りたくて」
沈黙に耐えきれなくなったのは私だった。
本当は、何が起きたのかすべてを知りたかった。しかし口に出すのも憚られるほどのことが起きたのだとしたら、両親やメラニーの中に残ってしまったトラウマをほじくり返してまで今無理やり聞くのは酷なことだ。
お母様が涙を流して、お父様がお母様を抱きしめて自身も沈痛な表情をする。
お母様に言わせるよりはと思ったのか、お父様が重々しく口を開いた。
「——すまない。今はまだ、本当のことを伝えるのは難しい。ただ、これだけは分かっていて欲しい。私達親やこの屋敷の人間は、皆リュシルが無事でいてくれたことが一番の喜びだ。君が記憶喪失になってしまったことも、生きていてくれたことに比べたら些細なことだ。それくらい、君のことを大切に思っている。だから……どうか、今後も自分の身体を、命を、大切にしてくれ」
「……」
「記憶がなくなってしまった君にとっては、私は知らない男かもしれない。しかし、今言ったことだけは覚えておいてくれ。君は誰かを守ろうとしなくていい。誰かを守って君が死を選ぶくらいなら、この国の命運なぞどうなったって構わない。——不本意だが、オールヴェルニュの子息も同じことを言うだろう」
——ああ、リュシルは両親に愛されていて羨ましい、と思ってしまった。
こんなにも深い愛情を注いでくれる両親のもとに生まれて、使用人の人たちにも好かれて、きっとリュシルは優しくて素敵な子だったのだろう。
やっぱり、ここは私の居場所ではない。私はこんなに愛された経験も前世でなければ、愛される特権的な資格も持ち合わせていない。こういう場に相応しいのは、漫画のヒロインみたいな特別な女の子だ。
だから尚更、私はリュシルをこの両親の元に返してあげなければいけない。記憶喪失になるよりも命が大事だと言ってくれているけれど、それは記憶喪失になった後もリュシルがリュシルである場合の話だ。私は、リュシルではない。
「……お二人のことも、今までのことも、思い出せるように頑張ります」
両親が痛々しそうに曖昧に微笑む。
私は何か言い方を間違ったのだろうかと、所在なく俯いて、せめてリュシルらしく完璧な令嬢らしく見えるようにお辞儀だけはして、逃げるように談話室を後にした。
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